第3話 怠け者の最少労力領地経営
旧倉庫の火を半焼で食い止めた翌朝、尚樹は役宅の机へ突っ伏したまま、人生の理不尽について静かに考えていた。
眠い。とにかく眠い。まぶたの裏へ砂を詰められたみたいに重い。海辺の朝は思ったより早く、外ではもう棕櫚の葉がしゃらしゃら鳴り、港の誰かが板を打つ音までしている。
なのに机の上には、晃治が夜明けと同時に積み上げた帳面が三冊あった。
「火災被害の仮記録です。焼損した板材、濡損した塩袋、修繕に回せる縄束、見回りの欠員、それから」
「待って。朝食より先に損害報告を食わせる家ある?」
「ここでは情報の方が腐りにくいので」
「魚の町で言う台詞じゃないな」
尚樹は顔を上げ、机へ額の跡がついたまま窓の外を見た。港では里未がもう桶を抱えて歩いている。槙は焼けた倉の前で若い漁師へ指示を飛ばし、香莉は濡れた布を竿へ掛けていた。茉奈は診療所の戸口で、煙を吸ったらしい老人の背をさすっている。
誰も彼も、昨夜ちゃんと寝ていない顔なのに、止まっていない。
止まっていないからこそ、余計にまずい、と尚樹は思った。
このままだと皆が毎日その場しのぎで走り回り、自分まで巻き込まれて、結局いちばん嫌な「ずっと忙しい生活」が始まる。
それだけは避けたい。
「晃治」
「はい」
「俺、やっぱり働きたくない」
晃治はまばたきもせず答えた。
「存じています」
「だから働かなくて済む形を先に作る」
そこだけは、少し勢いよく言った。
晃治の目がほんの少し細くなる。呆れたのか、興味を持ったのか、まだ判別がつかない顔だ。
「具体的には」
「まず、茉奈がずっと炊き出しと診療所を両方抱えてるのがまずい。里未さんは塩田と海側をひとりで回しすぎ。槙さんは夜の見回りを人の根性で埋めてる。香莉は布も防具も繕いも、気づいたら全部請けてる」
尚樹は指折り数えてから、深々とため息をついた。
「人が足りないのに、手間だけ多い」
「はい」
「なら、手間を減らす」
立ち上がると、膝の上で丸くなっていた棕櫚狐の幼獣が寝ぼけた顔で転げ落ちそうになった。慌てて抱え上げると、幼獣は不満そうに鼻を鳴らし、それでも胸元へ収まる。
「その子も連れていくのですか」
「置いていくと、俺より先にここへ馴染みそうだからな。変な対抗心が出る」
晃治は珍しく何も言い返さなかった。代わりに帳面を閉じて立ち上がる。
「では、どこから手をつけます」
「楽が大きいところからだ」
最初に向かったのは、港の端にある古い干物小屋だった。
昼前の海は、夜の火事が嘘みたいに青かった。とはいえ小屋の方は嘘でも何でもなく、ここ数年の放置をそのまま積み上げた顔をしている。板壁は潮を吸ってふやけ、屋根の一部は歪み、乾燥棚は縄が切れて斜めに傾いていた。中へ入ると、生臭さより先に湿気が肌へまとわりつく。
「これを最初に選ぶあたり、性格が出るねえ」
里未が腕を組んで言った。
「普通なら焼けた倉庫を優先しそうなもんだけど」
「焼けた倉は放っておくと困る。でも干物小屋を立て直すと、先々ずっと楽になる」
尚樹は壁際の棚を指した。
「魚が余るたびに慌てて塩を振って、天気を見て、見張って、駄目なら捨てる。その手間を減らせば、食い扶持も増えるし、備蓄もできる」
里未は少しだけ顎を上げた。
「言うね。で、どうやる?」
「棕櫚狐」
「……は?」
尚樹は胸の幼獣を持ち上げた。
「この子ら、暖房と乾燥が得意なんだろ」
そこへ香莉が、抱えていた布袋を下ろしながら小さくうなずいた。
「群れで眠る時、巣の中の湿気を飛ばします。濡れた毛も、朝までにはほとんど乾くので」
「ほら」
「ほら、で納得させるの雑すぎないかい」
里未は笑ったが、否定はしない顔だった。
尚樹は小屋の中央へ歩き、空気の流れを確かめるように手をかざした。湿った空気の筋が見えるわけではない。けれど、柱の継ぎ目や棚板の端には、薄い火種が残っている。昔ここで焚かれていた火の記憶だ。人が魚を干し、潮を読み、冬支度をしてきた熱が、材木の奥にまだ沈んでいる。
完全に死んではいない。
なら、起こせるかもしれない。
「晃治、帳場かどこかに昔の小屋図面ってないか」
「旧記録を探せばあるかもしれません」
「鞄の方が早い気もする」
尚樹が銀色の鞄を足元へ置くと、里未が半眼になった。
「だいぶ馴染んできたね、その気味の悪い相棒に」
「不本意だよ」
そう言いながら留め金を開ける。今必要なのは、乾燥棚を吊り直すための金具と、風の流れを作る板。それから、棕櫚狐の熱がこもりすぎない工夫だ、と頭の中で形にした。
鞄の奥で金属が触れ合う音がした。
出てきたのは、錆びの少ない滑車金具の束、薄い木枠にはめる通風板、それに「潮風乾し場改修案」と走り書きされた古い紙だった。字は読みづらいが、棚の高さと風の抜ける向きが描かれている。
「本当に何なんだ、その鞄」
槙が後ろから低く言った。いつのまにか来ていたらしい。
「昨日からずっとそれを考えてる」
尚樹は紙を広げ、槙へ向けた。
「でも使えるなら今は勝ちだ。槙さん、見回りの人数を減らさず半刻だけ回せる?」
「理由次第だ」
「この小屋、今日中に風を通す形へ戻したい。夜の見回りで人を削るより、昼のうちに干物と備蓄の仕組みを作った方が、今後ずっと人数が浮く」
槙は紙と小屋を見比べた。すぐには返事をしない。だが断る時の顔でもなかった。
「……二人なら出せる。夕刻前までだ」
「十分」
里未は桶を床へ置き、濡れた手を腰布で拭った。
「じゃあ私は魚を回す棚の間隔を見ようかね。風が抜けないと腐るから」
香莉も小さく口を開いた。
「棕櫚繊維と毛を混ぜれば、湿気を吸いすぎない覆いが作れます。乾かしながら、塩の粉も防げるかも」
尚樹は顔を上げた。
「できる?」
「……試します」
その一言だけで十分だった。
作業は昼から一気に進んだ。
槙が連れてきた二人の若者は無口だったが手が早く、傾いた棚を外し、滑車を吊り直し、風上側の板壁へ通風板をはめ込んでいく。里未は魚の開き方から塩の置き場まで決め、ここへ桶を置く、そこは濡らすな、と容赦なく指示を飛ばした。香莉は小屋の外で棕櫚繊維を撚り、幼獣の抜け毛を少し混ぜた細布を作り始める。淡い茶と銀が混じるその布は、不思議と触るだけでさらりとしていた。
尚樹はというと、最初こそ指示役の顔をしていたが、すぐに現実へ引き戻された。
「そこ持って」
「はい」
「縄を押さえて」
「はいはい」
「今、楽をする仕組みを作ってる最中なんだから、労働は必要経費だよ」
里未に言われ、尚樹はぐっと詰まった。
「その理屈で押し切られると弱い」
「弱くて結構。手を動かす」
結局、尚樹も棚板を運び、縄を引き、通風板へ煤除けの灰を塗る羽目になった。働きたくないと言った舌の根も乾かぬうちに腕がだるくなる。
ただ、妙なことに嫌なばかりではない。
ひとつ手を入れるたび、小屋の空気が変わっていくのが分かった。湿気が抜け、古びた木の匂いの下から、昔ここで魚を干していた塩の匂いが戻ってくる。柱の奥に沈んでいた火種も、少しずつ落ち着いた明るさを帯びた。
夕方、試しに少量の白身魚を棚へ並べた。
幼獣は香莉の作った小さな台へちょこんと座り、しっぽを身体へ巻きつけている。その周りへ、里未が浜から呼んできた二匹の棕櫚狐が警戒しながら近づいた。成獣ほど大きくはないが、幼獣よりはずっと落ち着いていて、香莉が低い声であやすと、棚の下の巣箱へ自然に入る。
「熱を逃がしすぎないよう、でも籠りすぎないように」
香莉は自分へ言い聞かせるように呟き、棕櫚繊維の覆い布を棚へかけた。
小屋の中へ、ふわりと乾いた暖気が回り始める。
潮の匂いに混じって、塩をした魚の匂いが立つ。嫌な生臭さではなく、食卓へつながる匂いだった。
尚樹は思わず壁にもたれた。
「……すごいな」
「まだ試しだよ」
里未はそう言いながらも、目の端で棚を何度も見ていた。うまくいくかどうかより、うまくいった後の段取りをもう考えている顔だ。
槙は小屋の出入口から外を確認し、乾いた声で言った。
「見回りも組み直せるな」
「もう?」
「夜の巡回で干し場の様子を一度見れば足りるなら、海側と倉庫側を同じ線で回せる。無駄足が減る」
尚樹はそちらを振り向いた。
「それ、かなり違う?」
「人が少ない時ほど違う。昨夜みたいな火がまた出ても、駆けつける時間を縮められる」
茉奈が小屋へ顔を出したのは、空が茜に変わる頃だった。
今日は診療所へ来る咳の患者が多く、ずっと出られなかったらしい。けれど小屋の中を見た途端、その足がぴたりと止まる。
「ここ……動かしたんですか」
「働きたくないので」
尚樹が即答すると、茉奈は数秒だけ黙り、それから額を押さえた。
「普通、そういう言い方で干物小屋を立て直します?」
「でも本音だ」
「本音が曲がっているんです」
呆れたように言いながら、茉奈は棚へ並んだ魚を見上げた。棕櫚狐の暖気で表面が少しずつ締まり始め、夕方までべたついていた皮が、もう乾きかけている。
その変化を見た瞬間、茉奈の顔つきが変わった。
診療所でいつも誰かの容体を見る時の、静かで真剣な目だ。
「これが回れば、炊き出しの魚を毎朝塩から仕込まなくてよくなる……」
「そう。備蓄が増える。あと、診療所の火の番も少し減らせるかもしれない」
「どうして」
尚樹は小屋の隅を指した。香莉が余った布で小さな保温袋を作っている。
「濡れにくい布と棕櫚狐の熱があるなら、湯を冷めにくくできる。薬湯を一日に何度も温め直さなくて済むかもしれない。要するに、皆が毎回同じ苦労をしなくて済む仕組みを先に作る」
茉奈は少しのあいだ黙った。
彼女はすぐに誉めない。簡単に信用もしない。けれど、使えるものを見た時は、その価値を見誤らない人だと、尚樹にも分かり始めていた。
「……では、明日。診療所で試します」
「採用、早くない?」
「役に立つなら、ためらう理由がないので」
返答の早さに、尚樹は思わず笑った。
その日の夕食は、試しに乾かし始めた魚の端材を焼いたものが一皿増えた。ほんの少し、食卓がにぎやかになる。里未は「まだ売り物には早い」と言いながら二切れ多く食べ、槙は塩加減を確かめる口実で黙って箸を伸ばした。香莉は幼獣へ布の切れ端で作った小さな敷物を敷き、茉奈は夕食のあとで診療所へ戻らずに、役宅の台所で翌朝分の薬草を刻んでいる。
そこに、昨日までの張りつめた気配は少しなかった。
食卓の端で晃治が帳面をめくりながら言う。
「干物小屋が回れば、三日後には保存食の計算が組み直せます。見回り線の短縮が定着すれば、夜勤明けの人員を昼に回せる」
「いいな、その言い方」
尚樹は椀を持ち上げた。
「数字で楽になる未来が見える」
「そこだけは前向きなんですね」
「大事だろ。努力とか根性より、仕組みで楽になる方が信用できる」
すると槙が珍しく、低く笑った。
「指揮官向きかもしれんな。動機はひどいが」
「そこ、動機まで含めて評価してほしい」
「無理だ」
即答だった。
夜、役宅へ戻る道すがら、海風は昼よりやわらかかった。
干物小屋の窓からは、棕櫚狐たちのためた熱がぼんやり漏れている。燃え上がる火ではない。人が眠っている間も、暮らしを少し楽にしてくれる静かな熱だ。
尚樹はその明かりを見て、昨日の倉庫火災を思い出した。記録を消そうとする嫌な火。人の悪意が形になったような火。
あれとは違う。
同じ熱でも、残したいもののために使う火は、見ているだけで胸のざらつきが少ない。
腕の中で幼獣が小さく鳴いた。今日はいろいろ働いたせいか、昨夜よりずっと満足そうな顔をしている。
「おまえも共犯だぞ」
尚樹が鼻先をつつくと、幼獣はしっぽをぱたんと振った。
役宅の前では、茉奈が戸を閉めるところだった。尚樹に気づくと、戸板へ手をかけたまま言う。
「干物小屋、明日の朝も見ます。うまくいっていたら、診療所の保温袋と、防湿布も進めたいです」
「了解。働きたくないので全力で進めよう」
「その言い方、本当に直らないんですね」
「直ったら別人になる」
茉奈は呆れたように息をつき、それでも昨日より少しだけ口元をゆるめた。
「別人にならなくていいです。ただ、途中で投げないでください」
その一言は、頼みというより確認に近かった。
尚樹はすぐには答えず、干物小屋の灯りを一度振り返った。たった半日で町の全部が変わるわけではない。焼けた倉庫も残っているし、火の正体だってまだ何も掴めていない。
けれど、今日作った仕組みひとつで、明日の手間が少し減る。
それは案外、悪くない手応えだった。
「……半年のうちは、たぶん投げない」
正直に言うと、茉奈は一瞬だけ目を丸くし、それから肩の力を抜いた。
「では、明日も起こします」
「そこは勘弁してほしい」
「無理です」
戸が閉まり、尚樹は暗い玄関先で小さく笑った。
働きたくないから仕組みを作る。
口にすると相変わらず情けない理屈だ。だが海風の中でそれを繰り返しているうちに、その情けなさの先で、誰かの食卓が少し温まるのなら、それでもいいのかもしれなかった。




