第2話 誰もいない海
王都を出てから五日目の夕方、荷馬車はようやく海霧の濃い街道へ入った。
それまでの道は、尚樹にとってひたすら長かった。最初の二日は、晃治が無人汀領の人口、税収、港の稼働率、塩田の放棄区画などを数字で読み上げた。三日目には尚樹が「もう少し人の眠気に配慮してくれ」と訴え、四日目には晃治が「配慮しても状況は改善しません」と真顔で返した。
つまり、まったく気の休まる旅ではなかった。
だが五日目の夕方、馬車の布幕を押し上げた途端、空気が変わった。
潮のにおいがした。塩気を含んだ風が、頬にべたりと張りつく。道の両脇には低い棕櫚林が続き、灰色の葉が海風に擦れて、しゃらしゃらと乾いた音を立てていた。遠くで波が砕ける音がする。姿はまだ見えないのに、海だけが先に近づいてくる。
「これ、歓迎の香りではないですね」
尚樹が鼻をしかめると、向かいの晃治は膝の上の帳面を閉じた。
「歓迎してくれる余裕があれば、そもそも臨時代官など送り込まれていません」
「君、ひょっとして励ますのが下手だろ」
「事実を曲げる方が下手です」
荷台の隅では棕櫚狐の幼獣が、いつのまにか起きていた。布幕の隙間へ鼻を押しつけ、外の風をくんくん嗅いでいる。王都にいる間は疲れたように眠ってばかりいたのに、海が近づくにつれて耳の動きが忙しくなった。
「おまえは元気だな」
尚樹が頭を撫でると、幼獣は短く鳴いて、しっぽの先をひと振りした。小さな火花が出かけて、慌てて消える。
「頼むから荷台だけは燃やさないでくれ。歩きたくないから」
やがて馬車はゆるやかな坂を下り、霧の向こうに町を見せた。
無人汀領は、たしかに一度しぼんだ町の顔をしていた。
海へ向かって開いた旧港は石の防波堤がところどころ崩れ、木の桟橋には修繕途中の板が目立つ。白壁だったはずの建物は潮と煤でまだらにくすみ、閉ざされた雨戸の数が、人の少なさをそのまま数えているようだった。高い建物はなく、診療所らしい平屋、干物小屋、倉庫、塩田へ続く低い石道が見える。港の先では、海面が夕陽を受けて赤く染まっていたが、その赤は美しいより先に、どこか胸の奥をざらつかせた。
「……思ったより、ちゃんと町だな」
尚樹はぽつりと漏らした。
噂では、もっと骨だけの場所を想像していた。廃墟ばかりで、人影もなく、風だけが吹き抜ける土地を。
「誰もいない海、って呼び方が悪いんですよ」
晃治が淡々と言った。
「正確には、誰もいなくなりかけた海です」
「それはそれで嫌な訂正だな」
馬車が町の入口へ入ると、待っていたらしい数人の視線が集まった。
歓迎の列ではない。荷の中身を値踏みするような、そして早めに見切りをつけておきたいような、静かな目だった。
最初に前へ出たのは、栗色の髪を後ろで結んだ若い女だった。袖をまくった上着の裾に薬草の葉が何枚もついている。疲れているはずなのに、立ち方だけが妙に真っ直ぐだ。
「診療所を預かっています、茉奈です」
挨拶はしたが、口元は笑わなかった。
「臨時代官の方ですね」
「そうらしいです。尚樹といいます」
「らしい、で来られても困ります」
第一声から容赦がない。
尚樹が曖昧に笑うと、茉奈の視線はそのまま荷馬車へ移った。幼獣を見つけた瞬間だけ、目の色が変わる。
「その子、棕櫚狐?」
「たぶん。拾いものです」
「拾いものって言い方をしないでください」
叱る時だけ、返事が早い。
尚樹が肩をすくめている間に、別の女が荷台の後ろへ回り込んだ。日に焼けた腕で桶をひょいと持ち上げる、その動きがやけに軽い。濃い藍色の頭巾を首に引っかけ、海水のにおいをそのまま着ているような人だった。
「人も荷も少ないねえ。中央の厄介払いにしちゃ、ずいぶん身軽だ」
そう言って口の端を上げる。
「里未だよ。塩田と海側の面倒を見てる。で、あんたはどれぐらい働ける?」
「その質問、港へ着いて最初にする?」
「するよ。ここじゃ働けるかどうかで明日の飯が決まるからね」
ぐうの音も出ない。
その少し後ろには、布袋を抱えた細身の娘がいた。肩に棕櫚繊維の束を掛け、足元には色糸のついた木箱を置いている。香莉と名乗ったが、その声は小さく、代わりに幼獣へ向ける目だけがよく動いた。
「その子、火傷は浅いです。耳の裏だけ、あとで冷やします」
「見ただけで分かるのか」
「毛の開き方が違うので」
言い終えるより先に、幼獣の方から香莉へ鼻を伸ばした。警戒するかと思ったのに、むしろほっとした顔をしている。
「おまえ、見る目あるな」
尚樹が感心すると、香莉は少しだけ目を丸くし、それから幼獣の耳の後ろをやさしく撫でた。
最後に近づいてきた男は、腰に短剣を下げ、無駄のない足取りで馬車の周りを一周した。軍靴の減り方が揃っていて、見ているだけで几帳面さが伝わる。槙と名乗ったその男は、尚樹の顔と鞄と幼獣を順番に見てから、簡潔に言った。
「逃げ足は速そうだな」
「褒め言葉として受け取っていいか?」
「非常時には役立つ」
褒められたのか、呆れられたのか判別に困る。
茉奈が馬車の脇へ一歩寄った。
「先に言っておきます。ここでは、貴族だから部屋が増えるわけでも、食事が豪華になるわけでもありません」
「安心してくれ。俺も豪華な暮らしを期待できる顔では来ていない」
「それと、数日で逃げるなら、今夜のうちにしてください」
さすがに尚樹は瞬きをした。
「手厳しいな」
「期待して裏切られる方が、最初から見切るより面倒なので」
そう言った茉奈は、言い終えたあとでだけ、ほんの少し口を結んだ。強く言い切ったのに、最後のひと押しだけ自分で飲み込んだような顔だった。
誰かがここを出ていった記憶が、そのまま喉に引っかかっているのかもしれない、と尚樹は思った。
だが、わざわざ尋ねるほど親しくもない。
「では、数日で逃げない方に賭けて、とりあえず寝床へ案内してもらえます?」
「その前に倉庫の鍵を確認します」
「今?」
「今です」
茉奈の返答は早かった。
「前の代官は、着いて三刻もしないうちに帳面だけ持っていなくなりました。次の代官は印章箱を抱えて消えました。その次は酒樽を開けてから消えました」
「人選どうなってるんだ、この領地」
「中央が決めたのですから、中央へ言ってください」
正論が重い。
結局その日、尚樹は寝床へ通される前に、旧役宅、倉庫、診療所の備蓄棚、港の鍵箱まで順番に見せられた。見せられたというより、逃げ道を塞ぎながら連れ回されたに近い。晃治はその横で帳面を開き、足りない物資と壊れた設備を淡々と書きつけていく。
役宅は海から少し上がった石段の先にあった。小さな中庭のある平屋で、かつては領主の詰め所として使われたらしいが、今は潮風で窓枠が白く乾き、客間の一部は物置に変わっている。
「寝る場所だけはあります」
茉奈が言った。
「屋根もあります。雨漏りは南側の隅だけです」
「寝るには十分だな」
「床板は一枚、踏むと鳴ります。夜中に抜け出すとすぐ分かります」
「見張り方が嫌すぎる」
里未が吹き出し、香莉がうつむいて肩を揺らした。槙だけは真顔のままだったが、目元が少しだけ緩んだ気がした。
その夜、簡素な夕食が役宅へ運ばれた。塩をきかせた白身魚のスープ、固めの黒パン、刻んだ棕櫚の芯を和えた小鉢。量は多くないが、冷えた身体にはちょうどいい。
茉奈は食器を並べるときだけ手際がやけに速かった。鍋の蓋を開け、皿へよそい、幼獣には別の小皿へぬるい薬湯を薄めて置く。その動作に無駄がない。
「診療所のついでに、ここも世話しているのか」
尚樹が聞くと、茉奈は匙を置いた。
「ついでではありません。食べないと治るものも治らないので」
「まっすぐだなあ」
「遠回りしている余裕がないだけです」
言い方は固いのに、幼獣が薬湯へ鼻を突っ込んで顔をしかめると、茉奈はそっと皿を引いて魚の身をほぐして混ぜた。叱るより先に、食べる工夫をしている。
尚樹はその手元を見ながら、少しだけ気を抜いた。ここへ来てから初めて、人の暮らしの中へ足を入れた気がしたのだ。
だが夜半、その気の緩みはあっさり引き裂かれた。
ばん、と外で乾いた音がした。
続けて、誰かの叫び声。
「火だ!」
尚樹は寝台から転げるように起き上がった。窓の外が赤い。役宅の向こう、港に近い旧倉庫の方角だ。
廊下へ出ると、すでに茉奈が上着を羽織って走っていた。髪を結び直す暇もなかったのだろう、肩のあたりで揺れている。槙は戸口で桶と長鉤を掴み、里未は外から怒鳴った。
「北側の倉だよ! 風が海から回る!」
「着いた初日に夜襲みたいな歓迎を受けるとは思わなかった!」
尚樹が叫びながら外へ飛び出すと、晃治も帳面ではなく水袋を抱えて続いてきた。
夜の港は昼より広く見えた。霧の中で火だけが浮き、赤い舌を伸ばしている。倉庫は木造で、壁の一部がすでに燃えていたが、妙だった。風下の縄束ではなく、壁の継ぎ目と帳場側の窓ばかりが先に赤い。まるで中にある何かを狙っているような燃え方だ。
尚樹の背中に、塔の夜と同じ冷えが走った。
まただ、と思う。
火の色が、ただの火ではない。
濁った朱が、壁の節目に細く這っている。怒りとも、焦りともつかない尖った熱が、紙や木札のある場所へ吸い寄せられていた。
「……怪異じゃない」
思わずこぼした声を、茉奈が聞きとがめた。
「何ですって」
「いや、たぶん、ただ燃えてるわけじゃない」
うまく説明できない。だが説明している暇もない。
尚樹は脇に抱えてきた銀色の鞄を地面へ置いた。来る途中で、気づけば手に持っていた。自分でも癪だが、こういう時に置いてくる方が不安になる。
「今必要なのは……延焼を止める物、だ。あと中の見取りが分かるやつ」
半ば祈るように呟いて留め金へ触れる。
鞄はかすかに熱を持ち、かちりと開いた。
中から飛び出したのは、前より大きな耐火布の束と、油染みのついた古い板紙だった。広げると、旧倉庫の見取り図が細い字で描かれている。帳場、塩袋置き場、乾燥棚、裏の通風口まで書かれていた。
「何でそんなものが」
晃治が珍しく声を上ずらせたが、尚樹にも分からない。
分からないが、今は使える。
「槙さん、裏の通風口はどこだ」
「西壁の向こうだ」
「塞げるか」
「人手があれば」
「里未さん、海水を回せる桶は?」
「塩田の桶ならある!」
「茉奈、ええと……」
名前を呼んだ瞬間、茉奈が少しだけ目を見開く。
「中に薬湯の乾燥草があれば先に出してくれ。煙を吸った人間が増える」
「分かりました」
返事だけは迷わない。
尚樹は耐火布を肩にかけ、見取り図を片手に倉庫の横へ回った。幼獣が足元を走る。止める暇もなく、棕櫚のしっぽがぴんと立ち、赤い火へ向かって唸った。
「おまえまで行くな!」
叫んだところで、幼獣は倉庫の裏壁で足を止めた。通風口の下だ。そこだけ、火が不自然に集まっている。壁板の隙間から細い赤が吸い込まれ、内側へ潜っていく。
尚樹の目には、そこに人の悪意のような火種が見えた。
小さく、鋭く、執拗な火。
塔で見たものと、よく似ている。
「やっぱりおまえか」
誰へ言うでもなく吐き捨て、尚樹は耐火布を丸めて通風口へ突っ込んだ。火が布の表面を舐めたが、すぐには燃え広がらない。その隙に槙と里未が海水の桶を運び込み、壁際へ一気に打ちつけた。
じゅっと激しい音がして、蒸気が上がる。
それでも火は消えきらない。壁の内側にしがみつくように残る。
尚樹は歯を食いしばった。目に映る火種へ意識を合わせる。怒りでも恐怖でもなく、ただ、ここで広がられると自分が困るという情けない理由でもいいから、とにかく止まれと思った。
すると掌の奥が熱くなった。
体の内側の火が、指先へ細く集まるような感覚だった。
尚樹は反射で、濁った朱へ手をかざした。
次の瞬間、壁に絡みついていた嫌な色だけが、ふっと薄くなった。
残ったのは普通の火だ。海水と布で押さえ込める、ただの燃え移り。
「……今の、何を」
晃治の声が背後でしたが、答える余裕はなかった。
「今だ、かけて!」
里未がもう一桶ぶちまけ、槙が長鉤で焼けた板を落とす。茉奈は咳き込む若い漁師を診ながら、空いた腕で乾燥草の束を抱えて飛び出してきた。香莉もいつのまにか来ていて、幼獣を抱き上げ、濡らした布で耳の後ろを押さえている。
火は十分ほどで勢いを失った。
倉庫の北側は黒く焼けたが、帳場も中の塩袋も、半分以上は無事だった。隣の建物へ燃え移る前に止められたのは大きい。
海霧の中、焦げた木のにおいと湯気が混ざる。誰もがしばらく肩で息をしていた。
最初に口を開いたのは槙だった。
「着任初日に倉を半分残した代官は初めてだ」
「その褒め方、たぶん相当ひどい前例が積み重なってるな?」
「積み重なってる」
真顔で肯定されると笑うしかない。
里未は焼け残った壁を拳で軽く叩き、満足したようにうなずいた。
「これなら明日には仮修繕できる。海水路の樽も無事だ。あんた、鞄から妙なもん出したね」
「俺がいちばん聞きたい」
晃治は濡れた見取り図を慎重に受け取り、火の明かりへ透かした。
「この図面、旧式です。少なくとも十年以上前の倉庫改修前のものだ」
「じゃあ、なおさら何で入ってるんだよ」
「分かりません。ただ……」
晃治は一度言葉を切り、焼けた窓枠へ目を向けた。
「火の回り方は不自然でした。帳場から先に燃える理由が薄い」
「だろ」
尚樹が低く返すと、茉奈がこちらを見た。
さっきまでの警戒が消えたわけではない。けれど、まるで見知らぬ荷物を見るような目ではなくなっていた。
「あなた、火の中で何か見えていましたか」
訊き方が静かだった。
嘘をつくには、少し疲れていた。
「見えてる、のかもしれない。まだ自分でもよく分からない。でも、ただの火と、そうじゃない火がある」
茉奈は返事を急がなかった。波音が一度、大きく岸を打つ。
そのあとで、彼女は幼獣を抱いた香莉へ目をやり、それから尚樹へ戻した。
「数日で逃げる人なら、あそこで通風口へ走りません」
「褒めてる?」
「まだ保留です」
だが、その声は着いた時より少しだけ柔らかかった。
役宅へ戻る頃には、東の空がわずかに白み始めていた。夜をまるごと使って、ようやく一つの倉庫を半焼で済ませただけだ。それでも町の空気は、到着した時とは違っていた。
疑いが消えたわけではない。
けれど、最初からいないものとして扱われる感じは、少し薄れた。
玄関前で、香莉が幼獣を尚樹へ返した。小さな身体は温かく、眠気で目が半分閉じている。
「この子、海の風が好きです」
香莉が小さく言う。
「たぶん、ここで育った群れの匂いを覚えています」
尚樹は幼獣の額へ指を当てた。
「じゃあ、おまえにとっては帰ってきたのか」
幼獣は答える代わりに、尚樹の手の甲へ鼻先を押しつけた。
そのぬるい感触に、尚樹は苦笑する。
無人汀領。
誰もいない海、などと呼ばれていても、そこには確かに人が残り、獣が戻り、火を消そうと走る足があった。
面倒な土地だ、と尚樹はあらためて思う。
面倒で、厄介で、初日から眠る暇もない。
けれど、本当に誰もいないわけではない場所を前にすると、逃げる算段だけをしている自分の方が、少しだけ格好悪く思えた。
朝焼けに濡れた港の方角から、潮の匂いがゆっくり流れてくる。
尚樹は銀色の鞄を足元へ置き、まだ温かい幼獣を抱え直した。
「……半年、か。思ったより面倒そうだな」
すると廊下の向こうで、茉奈が振り返りもせずに言った。
「今さら気づいたんですか」
その言葉だけで、尚樹は少し笑った。




