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怠け者次男は銀色の鞄で辺境を温める  作者: 乾為天女


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第1話 火の塔と銀色の鞄

 その夜、尚樹は王都の西区にそびえる爻辞研究塔〈離為火〉の三階回廊で、山のように積まれた式典用の木箱を前に、心の底から帰りたがっていた。


 明朝、塔では王国じゅうの役人と貴族を招く防災研究の披露会がある。そのため昼からずっと飾り布を張り替え、名札を並べ、壊れた燭台を見えない場所へ押し込み、足りない帳面を別室から運ぶ役を押しつけられていた。榛家の次男という肩書は見栄えがいいらしく、表向きは手伝い、実態は雑用である。


 尚樹は木箱の一つに腰を下ろし、誰も見ていないのを確かめてから、こっそり息を吐いた。


 「防災研究の披露会なのに、準備してる人間が過労で倒れそうなんだが。これ、もう少し防げただろ」


 ぼやいても返事はない。返事があったとしても、どうせ「榛家のご子息なのだから率先して働いてください」と涼しい顔で言われるだけだ。


 尚樹は床に置いた作業札を裏返し、まだ半分も終わっていないように見せかけてから、回廊の窓を少し開けた。夜風が入ってくる。秋口の王都は夜になると肌寒いが、塔の内側は書物と人いきれと、どこか甘ったるい薬品のにおいでむせるほど暑かった。


 この塔の暑さは、暖炉の火のせいだけではない。


 火と記憶と予兆を扱う研究塔だから、という説明を以前聞いたことがある。だが尚樹に言わせれば、説明より先に換気をした方がいい。


 奥の部屋から、ひそひそした声が聞こえた。


 「今夜のうちに消しておけ」


 「しかし、痕跡まで焼けば――」


 「痕跡があるから面倒になる」


 尚樹は窓から外へ身を乗り出しかけたまま、動きを止めた。


 回廊の角、禁書庫へ続く廊下の先だ。見てはいけない声色だった。偉い人間が、見られたくない話をしている時の、妙に落ち着いた低さである。


 こういう時は近づかない。


 それが尚樹の人生で何度も役に立ってきた、かなり有用な知恵だった。


 「聞いてません。何も。今ここで私が急に腹痛になって帰っても責めないでほしい」


 誰にともなく小声で言い訳し、尚樹はそろそろと木箱から降りた。聞かなかったことにして階下へ逃げる。そのつもりだった。


 次の瞬間、塔の奥で何かが破裂した。


 腹の底に響く音だった。遅れて、熱が来た。


 廊下の先が赤く染まり、閉じられていたはずの厚い扉の隙間から、焔が舌のように這い出してくる。誰かの短い悲鳴。書棚が倒れる鈍い音。硝子の割れる音。薬品のにおいが一気に濃くなり、息を吸うだけで喉が焼けた。


 「はあ!? 早いだろ!」


 尚樹は叫び、反射で逆方向へ駆けた。火事だ。しかも、よくない火事だ。研究塔で夜間に起きる火事など、普通に考えて面倒の塊でしかない。


 階段へ向かおうとしたところで、下から上がってきた下働きとぶつかった。


 「上は駄目です! 封鎖されました!」


 「じゃあ下へ!」


 「下も煙で――」


 最後まで聞かず、尚樹は舌打ちした。逃げ道が塞がる速度が妙に早い。まるで、誰かが最初から人を追い込むつもりで火を回したみたいだ、という考えが頭をよぎり、すぐに嫌な汗へ変わった。


 禁書庫の方から、細い鳴き声がした。


 きゅう、と。


 赤子が喉をつまらせたような、情けない声だった。


 尚樹は一歩だけ進み、次の一歩を止めた。


 行けば危ない。行かなければ、たぶん楽だ。誰か別の人間が拾うかもしれない。そもそも禁書庫の近くなど、今いちばん行きたくない。


 だが二度目の鳴き声は、少し怒ったみたいに短く震えた。


 「……そういう鳴き方するなよ」


 尚樹は額を押さえた。


 倒れた書架の隙間へ飛び込んだ時点で、もう負けである。


 禁書庫前の床は熱かった。履き底越しにも焼ける。壁の装飾布にはすでに火が回り、金糸が赤く縮れている。重い扉は半分開いたまま歪み、その隙間から煙が噴き出していた。


 鳴き声の主は、扉の内側で書板の下敷きになっていた。


 小さな獣だった。狐に似ているが、耳が丸く、尻尾はふさふさというより棕櫚の葉を束ねたように広がっている。淡い茶色の毛先が火を受けて銀に光り、熱のせいか、しっぽの先だけが橙に透けていた。


 棕櫚狐だ、と尚樹は思い出した。希少な魔獣で、研究用の保護個体が塔にいるという噂を聞いたことがある。


 保護ね、と尚樹は心の中で吐き捨てた。今の姿のどこが保護だ。


 書板に手をかけた途端、痛みが走った。熱い。素手では無理だ。近くの布を掴もうとしても、どれも火の粉をかぶっていて使えない。


 その時、扉の上の棚から何かが転がり落ちた。


 銀色の、鞄だった。


 角の丸い古びた旅行鞄。磨いたような光沢があるのに、煤をかぶっても黒く汚れない。金具だけが薄く赤く脈打ち、生き物の肋骨みたいに見えた。


 どう考えても今は邪魔だが、なぜか目が離せない。


 尚樹は半ば苛立って、鞄の取っ手を掴んだ。


 「今ほしいのは金貨でも帳面でもなくて、熱くない手袋なんだよ……!」


 自分でも馬鹿みたいな台詞だと思った。


 けれど、鞄の留め金がひとりでに外れた。


 口がわずかに開き、中から折り畳まれた厚手の灰色布がするりと現れた。手に巻きつけると、火に触れても焼ける感触が鈍い。耐火布だ、と遅れて理解した。


 「うわ、気味が悪いな……!」


 文句を言いながらも、尚樹は布越しに書板を持ち上げた。棕櫚狐の幼獣は慌てて這い出し、そのまま尚樹の胸へ体当たりする。熱い。熱いが、怖がって震えているのも伝わってきた。


 抱え直した瞬間、視界の端で火が揺れた。


 いや、火だけではない。


 棚の残骸に絡みつく赤が、ただ燃えている色ではなくなった。怒鳴り声の名残のような濁った朱。扉の蝶番にこびりつく、粘つくような暗紅。紙束の奥だけを執拗に舐め回す、意志を持った細い火。


 熱が色を持って見えた。


 焚き火の明るさとも、燭台の炎とも違う。人の腹の底に沈んだ感情が、形を得て燃えているみたいだった。


 尚樹は息を呑んだ。


 これ、火事じゃない。


 少なくとも、ただの火事ではない。


 紙を狙っている。記録を。何かを消すために、選んで焼いている。


 ぞくりと背中が粟立った時、さらに奥で梁が軋んだ。


 「まずいまずいまずい!」


 尚樹は棕櫚狐を脇へ抱え、銀色の鞄を引っつかみ、扉から飛び退いた。直後、禁書庫の中で大きな音がして、天井の一部が崩れ落ちる。火の粉が雪みたいに舞い、耐火布の表面を赤く転がった。


 階段までは遠い。煙は濃い。だが窓際の整備用回廊なら、外壁伝いに東棟へ抜けられるかもしれない。


 尚樹はしゃがみ、口元を袖で押さえたまま走った。


 途中で何人かの研究員とすれ違ったが、誰もが自分の書類箱だけを抱えていて、胸の小さな獣にも、銀色の鞄にも目を向ける余裕がない。あるいは、向けたくなかったのかもしれない。


 外壁沿いの回廊へ出ると、夜風が顔を打った。王都の屋根が下に広がり、塔の上層では、赤い火が風を舐めていた。鐘楼で警鐘が鳴り始める。


 助かった、と言いかけたところで、回廊の出口に兵が二人立ちはだかった。


 「止まれ!」


 片方が尚樹の胸元を見て、目を剥いた。


 「禁書庫の保管品だ!」


 もう片方は銀色の鞄を見たらしく、顔色を変えた。


 「おまえ、何を持ち出した!」


 「いや、持ち出したというか、落ちてきたのを拾っただけで――」


 言い終わる前に腕を掴まれた。棕櫚狐が威嚇して唸り、しっぽの先がぱっと明るくなる。小さな火花が兵の手甲に散り、兵が思わず手を離した。


 その拍子に尚樹まで尻もちをつく。


 最悪だ、と思った。


 煙の向こうから、上等な外套を羽織った男が歩いてきた。爻辞研究塔〈離為火〉の塔主、赫堂だった。年齢の読みにくい痩せた顔に、火事の最中とは思えないほど静かな目をしている。


 その後ろには、榛家の家令までいた。


 逃げ道が、綺麗に塞がった。


 赫堂は尚樹ではなく、まず銀色の鞄を見た。ほんの一瞬だけ、その瞳の奥で何かがひきつる。


 だが次の瞬間には、いかにも落胆した口ぶりで言った。


 「まさか、榛家のご次男だったとは」


 「……何が、まさかです」


 「火の回る直前、禁書庫付近で不審な動きをしていた者がいると聞いた。まさか、それが君とはね」


 尚樹は言葉を失った。禁書庫の前にいたのは事実だ。鞄を持っているのも事実だ。腕の中に研究対象らしい棕櫚狐までいる。


 見た目だけなら、驚くほど分が悪い。


 「不審な動きって、逃げ道を探してただけです。あと、こいつが下敷きになってて」


 「ほう」


 赫堂は幼獣を見下ろしたが、心配する顔はしなかった。


 「禁書庫の封印棚から術具が消え、保護個体が持ち出され、折よく火災まで起きた。偶然にしては、ずいぶん出来すぎている」


 「偶然じゃなくて、誰かが焼いたんでしょうが!」


 勢いで言い返した途端、家令が眉をしかめた。


 「尚樹様。これ以上、榛家の名を汚すような口は慎まれませ」


 その声音に、尚樹は笑いそうになった。


 汚すも何も、最初から綺麗に守る気などないくせに。


 夜明け前、塔の応接室で簡単な聴取が行われた。簡単、といっても、尚樹にとって不利な点だけが手際よく並べられる種類のものだ。


 禁書庫付近にいたこと。


 銀色の鞄を所持していたこと。


 保護個体を連れ出そうとしたこと。


 塔内の配置に不自然なほど詳しかったこと。これは雑用を押しつけられて覚えただけだが、都合よく「下見」と呼び換えられた。


 反対に、奥で交わされていた密談や、火が紙束だけを狙っていたことは、誰も記録しなかった。


 窓の外が白み始めた頃、榛家の当主である父がようやく姿を見せた。


 尚樹は一縷の望みくらいは持っていた。持ちたくなかったが、息子が火事の犯人扱いをされているのだから、少しは事実を確かめる振りくらいするかもしれない、と。


 だが父は座るなり、疲れたように言った。


 「おまえは昔から、肝心なところで余計な物を拾う」


 尚樹は口をつぐんだ。


 責めるなら責めればいい。だがその言葉の中に、無実かどうかを気にする気配はひとかけらもなかった。


 赫堂が、整いすぎた声音で続けた。


 「幸い、塔の外郭損傷は限定的です。王都の混乱を広げぬためにも、内々で処理するのがよいでしょう」


 「つまり?」


 「責任を取らせる形で、尚樹殿を王国西岸の無人汀領へ赴任させます」


 無人汀領。


 尚樹でも名前くらいは知っていた。海沿いの旧港町。離火潮だの怪異だの不吉な噂ばかりが先に立ち、近年はまともな代官も寄りつかない辺境だ。


 「……左遷どころか追放では」


 「臨時代官です」


 赫堂は薄く笑った。


 「半年で土地を立て直せば、火災の件も再検討できるでしょう」


 再検討。便利な言い回しだ、と尚樹は思った。助けるとも、赦すとも言っていない。半年後に別の理由で切り捨てても、文句の出ない言い方だ。


 父は机上の辞令書へ視線を落としたまま、淡々と告げた。


 「榛家としても、王命には従う。成果が出なければ、そのまま籍を外す」


 さらりと、紙切れ一枚めいた調子だった。


 尚樹は笑った。笑うしかなかった。


 「なるほど。火事の犯人にするには家名が邪魔で、家から追い出すには火事がちょうどよかったわけだ」


 家令が顔をしかめ、父は黙り、赫堂だけが少しも崩れなかった。


 その無反応が、いちばん答えに近かった。


 応接室を出た後、尚樹は塔の裏手にある石畳の中庭で、壁にもたれて空を見上げた。


 徹夜明けの目には朝日が痛い。塔の上ではまだ黒煙が細くたなびき、焼けた紙のにおいが風に乗ってくる。王都の人間たちはすでに、火事そのものより、誰に責任を押しつければきれいに片づくかを考え始めているはずだった。


 その速度には感心する。感心したくはないが。


 腕の中では棕櫚狐の幼獣が丸くなっていた。昨夜は熱に浮かされたように暴れていたのに、今は疲れ果てて目も開けない。鼻先だけが尚樹の袖へ埋まり、小さく寝息を立てている。


 「おまえはいいよな。難しいこと、たぶん考えなくて」


 そう言ってみたものの、返ってきたのはふにゃりとした耳の揺れだけだった。


 そこへ、石畳を踏む乾いた足音が近づいた。


 振り向くと、書類束を抱えた青年が立っていた。昨夜、聴取の席で赫堂の後ろに控えていた書記官だ。灰色の上着は皺ひとつなく整っているが、目の下にくっきりと疲れが溜まっている。


 「榛尚樹様ですね」


 「様づけされると今は皮肉に聞こえるな」


 「では尚樹殿で」


 「それもそれで役所っぽい」


 青年は一瞬だけ困ったように視線を泳がせ、それから諦めたらしく名乗った。


 「晃治と申します。塔の記録整理を担当しておりました」


 「しておりました、って過去形だな」


 「本日からは、尚樹殿の補佐として無人汀領へ同行するよう命じられました」


 尚樹は思わず空を仰いだ。


 「補佐」


 「名目上は」


 晃治は淡々と続ける。


 「実態は、監視と後始末でしょう」


 正直な男だな、と尚樹は思った。少なくとも、取り繕う気のない顔をしている。


 「逃げたくなりません?」


 試しに聞くと、晃治は少し考えてから答えた。


 「なります。しかし、王都に残っても、もっと嫌な形で使い潰されます」


 「奇遇だな。俺も今、だいたい同じ気分だ」


 すると晃治は初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 尚樹は床に置いた銀色の鞄を見た。


 誰も説明しないその鞄は、朝の光を受けてもなお、昨夜と同じ不気味な静けさでそこにある。捨てろとも返せとも言われなかったのは、迂闊に触れたくないからだろうか。それとも、持たせたまま遠くへ追いやる方が都合がいいのか。


 いずれにせよ、ろくでもない。


 鞄の留め金を指で弾くと、かちりと小さく鳴った。


 「おまえ、ほんとに何なんだ」


 答えはない。


 けれど、胸の棕櫚狐が眠ったまま、鞄の方へ前脚を伸ばした。


 昼前、尚樹は王都西門から出る荷馬車へ乗せられた。罪人ほど露骨ではなく、客人ほど丁重でもない、妙に中途半端な扱いだった。見送りに来た榛家の者は家令ひとりで、父も兄も顔を見せなかった。


 荷台には最低限の衣類、帳面、そして銀色の鞄。膝の上では棕櫚狐の幼獣がようやく目を覚まし、眠たそうにあくびをした。晃治は向かいに座り、膝の上の書類束を諦めたように抱えている。


 王都の石畳が遠ざかる。


 門の外へ出ると、秋の朝の光は思ったより高かった。昨夜、塔の中で見た赤い火が嘘みたいに、空は澄んでいる。


 その青さが、かえって腹立たしい。


 尚樹は辞令書を開き、赴任先の行を読み返した。


 王国西岸、無人汀領。


 通称――誰もいない海。


 「半年か」


 誰に言うでもなく呟く。


 働かずにやり過ごす方法を考えるには、長いようで短い。しかも、その半年が終わっても帰れる保証はない。


 けれど帰れたとして、昨夜の塔へ戻りたいかと問われれば、答えはひどく濁った。


 尚樹は眠たげな幼獣の頭を指先で撫でた。柔らかい毛の奥に、ほんのりとした熱がある。生きている熱だ。


 昨夜見た、誰かの悪意に似た火とは違う。


 荷馬車が大きく揺れた。


 銀色の鞄がかすかに鳴る。


 王都を離れる道の先で、海の匂いはまだしない。それでも尚樹は、見たこともない辺境の風景を思い浮かべた。終わった土地。怪異の町。厄介払いの行き先。


 たぶん、碌でもない場所なのだろう。


 だが、もし本当に誰もいないのなら、昨夜みたいに誰かを見捨てたことに気づかずに済むかもしれない。


 そんな逃げ腰の願いは、膝の上の幼獣が小さくくしゃみをしただけで、あっさり崩れた。


 尚樹は空を見上げ、ひどく面倒な旅の始まりに向かって、長い息を吐いた。



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