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ベンチのある帰り道

掲載日:2026/01/17

テープカッターの刃が、茶色のクラフトテープを噛み切る。

ギャッ、という短い摩擦音が倉庫の乾いた空気に弾けた。

私は右手首のスナップだけでその動作を完結させる。段ボールのフラップを押さえ込み、テープを貼り、切る。この一連の動作に、思考が入り込む余地はない。

中身はペットボトルの水だ。五百ミリリットルが二十四本。十二キログラムの直方体を持ち上げ、パレットの四隅に合わせて置く。腰椎のあたりに、鈍い重力が蓄積していくのを感じる。

「野宮さん、そっち終わったら休憩入って」

リフトに乗った社員の男が、バックブザーを鳴らしながら通り過ぎざまに言った。

私は軍手をはめた手で額の汗を拭い、頷く。

倉庫の中は季節感が希薄だ。天井の高い空間には水銀灯が等間隔に並び、床のコンクリートは常に冷たく、埃っぽい。十月の半ばだが、動けば汗ばみ、止まれば即座に皮膚が冷える。

ロッカーで安全靴からスニーカーに履き替える。

足の指が開放され、靴底のクッションが足裏に柔らかく当たる。足首を回すと、関節がパキリと小さな音を立てた。

タイムカードの打刻は十七時三分。

「お疲れさま」

すれ違った同僚の佐々木さんが言った。彼女の首元には湿布が貼られていて、ミントの匂いが漂う。

「お疲れさまです」

「雨、降りそうね」

「予報では夜からですけど」

「膝が痛いから、早まるかもしれないわよ」

佐々木さんは自分の膝をさすりながら笑った。私は曖昧に会釈をして、建物の外に出る。

空は低く、灰色がかった雲がのっぺりと広がっていた。

地方都市特有の、車のために設計された広い国道沿いを歩く。歩道のアスファルトは大型トラックの重量に耐えかねて波打ち、ひび割れている。その隙間から、排気ガスに塗れた雑草が逞しく伸びている。

すれ違う歩行者はいない。時折、トラックが風圧と共に横を通り過ぎ、私の髪を乱していく。私は髪を耳にかけ直し、歩幅を一定に保って歩く。

駅から自宅のアパートまでは徒歩で二十分。バスもあるが、待ち時間を考えれば歩いた方が早い。それに、歩いている間は、手元の作業に集中する必要も、誰かに返事をする必要もない。

国道から一本逸れて、川沿いの旧道に入る。

ここは街灯が少なくなり、川の淀んだ匂いが漂う。ガードレールの塗装は剥げ、赤錆が浮いている。

その道の途中、川と道路の間のわずかな緑地帯に、そのベンチはある。

背もたれのない、木製のベンチだ。かつては公園の一部だったのかもしれないが、今は遊具もなく、ただベンチだけが腰の高さまで伸びたセイタカアワダチソウに埋もれるようにして残されている。

私は立ち止まる。周囲を見るわけでもなく、草をかき分けてベンチに近づく。

座る。

木板は湿気を含んでいて、尻に冷たさが伝わってくる。

私はトートバッグを膝の上に置き、ただ前を見る。視線の先には川が流れており、対岸には閉業したパチンコ店の巨大な看板が立っている。「ラッキー」の「ラ」のネオン管が割れて黒くなっているのを、私はもう三ヶ月も見ている。

なぜここに座るのか、理由は自分でもわからない。

疲れているから休むというわけでもない。アパートまであと十分も歩けば、家具も家電も揃った部屋がある。けれど、私はここで一度、身体の動きを止める。

風が吹くと、周囲の草がざわざわと音を立てて揺れ、私のふくらはぎを撫でる。チクチクとした感触。虫の音が聞こえる。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。

私はスマホを取り出すこともなく、ただ両手をポケットに突っ込み、川の水面が灰色に濁って流れていくのを目で追う。

五分、あるいは十分。

身体の芯に残っていた倉庫の騒音と振動が、川の音に置き換わっていくのを確認してから、私は立ち上がる。

尻についた木屑を手で払い、また歩き出す。

翌日は雨だった。

佐々木さんの膝の予報は正しかったわけだ。

倉庫の屋根を叩く雨音が、一日中響いていた。湿度が上がると、段ボールが少し柔らかくなる。テープの食いつきが悪くなるので、いつもより指に力を込めて圧着しなければならない。

昼休み、休憩室でコンビニのおにぎりを食べていると、事務の女性が入ってきてテレビをつけた。ワイドショーが東京の芸能人の不倫を報じている。

「野宮さん、これ知ってる?」

事務の女性が私に話を振った。

「いえ、あんまりテレビ見ないので」

「なんかね、奥さんが妊娠中に浮気したんだって。信じられないよね」

「そうですね」

私はお茶を飲み下す。信じられるか信じられないか以前に、その情報の置き場所が私の中にはない。他人の生活の細部は、梱包し損ねた製品のように私の横を滑り落ちていく。

「野宮さんって、結婚とか考えてないの?」

不意に飛んできた質問に、私は箸を止めたわけでもなく、ただ咀嚼しながら考える。

「機会があれば、とは思いますけど」

定型文を返す。三十を過ぎてから、この手の会話は一種の儀式になった。相手も本気で心配しているわけではなく、会話の空白を埋めるためのピースとして「結婚」という単語を置いているだけだ。

「一人だと気楽でいいけどね、老後とか考えるとね」

「そうですね」

私は最後の一口を飲み込み、ゴミを分別して捨てた。

帰りの道、傘を差して歩く。

靴の中に水が染みてきて、靴下が濡れる不快な感触がある。冷たいゴムのような感覚が足の指に張り付いている。

川沿いの道に出ると、雨脚が強まった。

草むらのベンチは、雨に濡れて黒く変色している。

私は傘を差したまま、ベンチの前に立つ。今日は座れない。濡れてしまうからだ。

でも、私は立ち去らない。

傘の柄を肩に預け、ハンカチを取り出す。それでベンチの表面を拭くわけではない。ただ、ハンカチを握りしめ、濡れた木を見つめる。

雨粒が木目に当たり、弾け、染み込んでいく。

私はしゃがみ込み、指先でベンチの端に触れる。冷たく、ぬるりとしている。苔の感触。

その感触を指の腹で確かめてから、私は立ち上がり、再び歩き出した。

アパートに帰ると、郵便受けに実家からの封筒が入っていた。

中にはスーパーの商品券が三枚と、短い手紙。

『お米送ろうかと思ったけど重いから商品券にします。好きなもの食べて。母』

文字は以前より少し震えているように見える。

私は商品券をテーブルの上に置き、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

プシュ、という音が、昨日のテープカッターの音と重なる。

テレビはつけない。雨音だけが部屋を取り囲んでいる。

夕食は冷凍のチャーハンを炒めた。フライパンの上で米が踊る音を聞きながら、私は佐々木さんの膝のことを思い出した。明日は晴れるだろうか。

週末、私は風邪を引いたわけでもないのに、昼過ぎまで布団の中にいた。

身体が重い。筋肉痛とは違う、澱のような重さが四肢に溜まっている。

天井のクロスの模様を目でなぞる。何かの顔に見えたり、地図に見えたりする。

三時頃になってようやく起き出し、洗濯機を回す。

ベランダに出ると、雨上がりの秋の空が高く澄んでいた。

洗濯物を干し終えると、やることがなくなる。

私は着替えて、散歩に出ることにした。

駅前まで行く気にはなれず、足は自然と仕事帰りのルートへ向かう。

休日のその道は、平日の夜とは違う顔をしている。犬を散歩させる老人や、自転車で走り抜ける中学生がいる。

私は彼らとすれ違いながら、あのベンチを目指す。

ベンチには先客がいた。

小学生くらいの男の子が二人、ゲーム機を持って座っていた。

彼らは夢中になって画面を覗き込み、時折「あー!」とか「やべえ」とか叫んでいる。

私は立ち止まる。

私の席、というわけではない。公共の場所だ。誰が座ってもいい。

でも、私は行き場を失ったような感覚を覚える。手足の置き所がわからない。

私はそのまま通り過ぎようとする。

「おばさん、なんか用?」

男の子の一人が顔を上げて言った。私がじろじろ見ていたのかもしれない。

「ううん、なんでもない」

私は視線を逸らす。

「ここ、俺らの基地だから」

もう一人がふざけた調子で言った。

「そう。いい基地だね」

私は短く答えて、足を速める。

背後で彼らの笑い声が聞こえる。

基地。

私はその言葉を口の中で転がす。

私の基地ではない。ただの古い木の板だ。

私はそのまま川沿いを歩き続け、次の橋まで行ってから引き返した。

戻ってきたとき、少年たちはいなくなっていた。

ベンチの上には、菓子の空き袋が一つ、風に揺れていた。

私は近づき、その空き袋を拾う。チョコレートの甘ったるい匂いが残っている。

それをポケットに入れ、私はベンチに座る。

木は太陽の熱を吸って、生温かかった。

夜の冷たさとは違う、生物的な温度。

私は尻の下のその温もりを感じながら、対岸を見る。

昼間の光の中では、パチンコ店の看板は色あせて、うらぶれた骨組みを晒している。

「ラッキー」の文字は白く濁り、錆びた鉄骨が血管のように張り巡らされている。

私は深く息を吐く。

肺の中の空気が入れ替わる。

昨日の雨の匂いはもうしない。乾いた草と、土の匂いがする。

私は十分ほどそこに座っていた。

ふと、左足の親指が靴の中で動く。

昨日の雨で濡れたスニーカーは乾いていたが、少し縮んだような気がする。

私は立ち上がる。

ポケットの中の空き袋が、カサリと音を立てる。

家に帰って、母に電話をしよう。商品券の礼を言わなければならない。

「元気だよ」と私は言うだろう。「仕事も順調だし、何も問題ない」と。

嘘ではない。

私はベンチの背後に広がる雑草の海を一瞥し、アスファルトの道へと足を踏み出した。

冬が近づくにつれて、日没が早くなる。

十七時半にはもう真っ暗だ。

倉庫の仕事は繁忙期に入りつつあった。お歳暮のシーズンが始まる。

「野宮さん、悪いけど残業できる?」

社員に頼まれて、私は一時間多く働く。

一時間の残業代で何が買えるかを計算しながら、ハムの詰め合わせを箱に収める。高級なハム。私が食べることはないだろうハム。

重いものを持ち続け、肩が張っている。

十九時、退社。

外は完全に夜だ。

白い息が出る。マフラーをきつく巻き直す。

国道沿いのラーメン屋から湯気が漏れている。匂いに胃が反応するが、一人で入る気にはなれない。

私はいつものように旧道に入る。

暗闇の中、草むらのベンチは黒い塊としてそこにある。

雑草は枯れ、茶色く乾いた音を立てている。

私はベンチに近づき、スマホのライトをつける。

霜が降りているわけではないが、木肌は凍りついたように硬い。

私は座る。

ジーンズ越しに、鋭い冷たさが突き刺さってくる。

あまりの冷たさに、思わず声が漏れそうになる。

でも、私は動かない。

冷たさが皮膚感覚を麻痺させていくのを待つ。

空を見上げると、オリオン座が見える。冬の星座は暴力的なくらいに明るい。

倉庫での一時間。ハムの重さ。佐々木さんの湿布の匂い。事務員の笑い声。

それらが、この冷たさによって凝固し、私の身体から剥がれ落ちていくような気がする。

ふと、道路の方から足音が近づいてきた。

私は身を固くする。こんな時間に、こんな場所で座っている女は不審だろうか。

足音はジョギングのリズムだ。

ライトをつけたランナーが、白い息を吐きながら近づいてくる。

若い男性だ。

彼はベンチの横を通り過ぎる瞬間、私の方をちらりと見た。

私は暗闇の中でじっとしている。

彼は何も言わず、そのまま走り去っていった。

蛍光色のウィンドブレーカーが闇に溶けていく。

彼のリズムと、私の静止。

ただそれだけの交差。

私は手袋をした手で、ベンチの縁を掴む。

木のささくれが手袋の毛糸に引っかかる。

私はその引っかかりを指先で弄ぶ。

取れそうで取れない。

無理に引っ張れば、手袋がほつれるか、木が割れるか。

私は慎重に、指先を動かして繊維を外す。

プチ、という微かな感触があって、指は自由になる。

ただそれだけのことだ。

「よし」

私は小さく呟いて、立ち上がる。

冷え切った太ももを手のひらで叩く。

血液が巡り始め、じんじんとした痺れが走る。

駅の方から、終電に近い電車の音が響いてくる。

ガタン、ゴトン。

その規則的なリズムに合わせて、私は歩き出す。

明日は燃えるゴミの日だ。玄関にまとめてあるゴミ袋を出し忘れないようにしなければ。

それから、シャンプーが切れかかっていたはずだ。

日常の些細なタスクが、頭の中で列をなして整列する。

私はそれらを一つずつ確認しながら、暗い道を歩いていく。

振り返ることはしない。

ベンチは闇の中で、ただ次に来る誰か、あるいは明日の私を、無言で待ち続けている。

私はポケットの中で鍵を握りしめ、アパートの明かりが見える角を曲がった。


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