第7話(最終話):重すぎる請求書は、永遠に払い終わらない愛の証
謁見の間を支配していた張り詰めた空気は、レオンハルト殿下の笑い声によって霧散した。
「……く、くくっ! あはははは!」
殿下は腹を抱えて笑い出した。目に涙さえ浮かべている。
私とヴァルデズ閣下は顔を見合わせた。怒らせたのか、それとも呆れられたのか。
「参ったな。あの『魔王』に『計算機』。国一番の頑固者二人が揃って『愛』だの『変数』だのと非合理なことを言い出すとは」
殿下は涙を拭い、楽しげに私たちを見下ろした。
「いいだろう。商談は決裂だが、新たな『契約』を提案する」
「契約、ですか?」
「ああ。エリス・クラーク。君を王宮には戻さない。その代わり、ヴァルデズ辺境伯領を『王家直轄・特別経済特区』に指定する」
殿下の緑色の瞳が怪しく光った。
「君の手腕で、北の経済圏をさらに発展させろ。その利益の3割を王家への上納金とする。……その代わり、君たちの結婚を認め、今後一切の干渉を禁じよう。どうだ?」
3割。通常の上納金よりは高いが、王家の後ろ盾(と不干渉の約束)が得られるなら、安いものだ。
私は瞬時に損益分岐点を計算し、ヴァルデズ閣下を見た。閣下も微かに頷いている。
「……承知いたしました。ただし、契約書には『王太子の個人的な介入も禁ずる』という一文を明記していただきます」
「ははは! 抜け目がないな。いいだろう、交渉成立だ!」
こうして私たちは、最強の特権と自由を手に入れて、王宮を後にしたのだった。
それから数ヶ月後。
オルグレン辺境伯領は、かつてない活気に包まれていた。
「黒字の女神」がいる街として商人たちが集まり、物流の拠点として急成長を遂げたのだ。
そして、領主の城の執務室。
相変わらず書類の山はあるが、それは無秩序なゴミの山ではなく、整理された「富の山」だった。
「……エリス」
「はい、何でしょう。今、決算の締め作業中で忙しいのですが」
私が羽根ペンを走らせていると、背後からヴァルデズ様が覆いかぶさってきた。
彼の腕が私の腰に回り、肩に顎が乗せられる。いわゆる「バックハグ」と「肩ズン」の複合技だ。
重い。物理的にも、愛情的にも。
「仕事と俺と、どっちが大事だ」
「ベタな質問ですね。……仕事です」
「即答か」
彼は不満そうに私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
くすぐったいし、心臓に悪い。
この「魔王」様、恋人になってからというもの、タガが外れたようにスキンシップが激しくなった。執務中でも隙あらば充電しようとしてくる。
「嘘ですよ。仕事は手段、貴方は目的です」
「……口が上手くなったな」
「優秀な教師がいますから」
私がクスクス笑うと、彼は意趣返しとばかりに、私の耳元で囁いた。
「なら、その目的に対する支払いを要求する」
彼は一枚の羊皮紙を私の目の前に置いた。
それは、彼の手書きの請求書だった。
『請求書』
品目:ヴァルデズ・フォン・オルグレンの愛と抱擁
数量:無限
単価:プライスレス
請求額:エリスの生涯の時間すべて
「……なんですか、これ。市場価格を無視した独占禁止法違反ですよ」
「嫌なら払わなくていい。ただし、延滞利息としてキスを追加する」
「暴利ですね」
「魔王だからな」
彼はそう言って、私が反論する隙を与えずに唇を塞いだ。
甘く、深い口づけ。
頭の中から数字が消え、計算ができなくなる瞬間。
これが「生理的喚起」なのか「誤帰属」なのか、もうどうでもいい。
私が彼を変えたのではない。彼が私に、計算できない幸せを教えてくれたのだ。
この重すぎる請求書は、きっと一生払い終わることはないだろう。
けれど、それも悪くない。
だって私は、借金を返して黒字にするのが何よりも大好きな、世界一優秀な会計監査官なのだから。
「……愛しているぞ、俺の監査官」
「はいはい。私もですよ、私の魔王様」
窓の外、北の空にはオーロラが揺らめいている。
私たちの愛と領地経営は、今日も順調に右肩上がりだ。
(完)




