第6話:王太子殿下の「ヘッドハンティング」は、あまりに冷酷で合理的
王宮の謁見の間。
その巨大な扉が開かれると、肌を刺すような緊張感が漂ってきた。
かつて、私が「空気が読めない」と断罪され、追い出された場所。
けれど、今の私は一人ではない。
隣には、漆黒の礼服に身を包んだ「魔王」がいる。
「顔を上げろ、エリス。君は何も恥じることはない」
ヴァルデズ閣下が、私の腰に手を回して囁く。その手のひらの熱だけが、私の命綱だった。
玉座の前には、数名の高官と、例の元上司——経理局の男爵が並んでいた。
男爵は包帯だらけの姿で、私を見るなり憎悪に顔を歪めた。
「殿下! こやつらです! 王命を拒否したばかりか、使者に暴行を働いた反逆者どもは!」
男爵が喚き散らす先、玉座には一人の青年が座っていた。
王太子、レオンハルト殿下。
金色の髪に、知性を湛えた緑色の瞳。いつも柔和な笑みを浮かべていることから「陽だまりの君」と称される次期国王だ。
しかし、私は知っている。彼が使う予算の配分が、慈悲深さとは裏腹に、極めて冷徹な計算に基づいていることを。
「……辺境伯ヴァルデズ、そしてエリス・クラークよ」
レオンハルト殿下の声が響く。
「使者への暴行、事実か?」
「事実です」
ヴァルデズ閣下は、謝罪も言い訳もせず、堂々と答えた。
「私の婚約者に対し、無礼な振る舞いがあったため、貴族の矜持として制裁を加えました」
——婚約者!?!?
隣で私は息を呑んだ。そんな設定、打ち合わせにはなかった。
周囲の高官たちがざわめく。男爵も目を剥いて絶句している。
「こ、婚約者だと!? 嘘を吐くな! その女はただの平民の会計士で——」
「黙れ」
閣下の一睨みで、男爵はヒッと喉を鳴らして縮み上がった。
閣下は殿下を真っ直ぐに見据える。
「彼女は私の領地を救った恩人であり、将来を誓い合った相手です。いかなる王命であろうと、他人の妻を奪う道理はないはず」
(閣下……)
胸が熱くなる。彼は「所有権」の主張を、最も強力で、神聖な「婚約」という形に書き換えて守ってくれたのだ。
しかし、レオンハルト殿下は動じなかった。
むしろ、その緑色の瞳を細め、面白そうに私を見た。
「エリス・クラーク。君はどうだ? 本当に辺境伯と愛し合っているのか?」
「……はい」
私は一歩前に出た。ここで引くわけにはいかない。
「殿下。暴行の件については、こちらの証拠をご覧いただきたく存じます」
私は懐から、あの「裏帳簿」のコピーを取り出した。
「経理局長による、軍事費の不正流用および横領の証拠です。彼は自身の不正が露見するのを防ぐため、監査官である私を不当に解雇し、さらに口封じのために辺境から連れ戻そうとしました。ヴァルデズ閣下は、その不正官僚の暴走から私を——『国益を守るべき監査官』を保護したに過ぎません」
私は澱みなく告げた。
男爵の顔色が土気色に変わる。
殿下は侍従に書類を受け取らせ、パラパラと中身を確認した。
静寂が場を支配する。
やがて、殿下はふっと笑った。
「素晴らしい」
「へ?」
「完璧だ、エリス。日付、金額、流用先……全てが一分の狂いもなく整理されている。この短期間で、これほどの証拠を揃えるとは」
殿下は書類を放り投げた。バサリと紙が散らばる。
「連れて行け」
その一言で、衛兵たちが男爵を取り押さえた。
「で、殿下!? お待ちください、これは誤解で——」
「誤解? 数字は嘘をつかないのだろう? お前が常々言っていたことだ。……地下牢へ」
男爵の悲鳴が遠ざかっていく。
あっけない幕切れだった。私は安堵のため息をつきそうになる。
だが、本当の恐怖はここからだった。
レオンハルト殿下は玉座から立ち上がり、階段を降りてきた。
そして、ヴァルデズ閣下ではなく、私の目の前に立った。
「礼を言うよ、ヴァルデズ。君のおかげで、膿を出せた」
殿下はニコリと笑う。
「実は知っていたんだ。彼が小銭をくすねていることは」
「……知っていて、放置していたのですか?」
「泳がせていただけだよ。彼がどの派閥と繋がっているか、網羅的に把握するためにね。君という優秀な監査官を餌にして」
ゾクリ、と背筋が凍った。
私が解雇されたのも、辺境へ送られたのも、全てこの方の計算のうちだったということか。
殿下は私の手を取り、うっとりと見つめた。
「エリス。君の計算能力は芸術品だ。たった一人で辺境伯領の財政を立て直し、さらに我が国の汚職まで暴いた。……惜しいな」
「何が、でしょう」
「そんな才能を、たかだか地方領主の妻として腐らせるのは『国家的損失』だと言っているんだ」
殿下の緑色の瞳から、光が消えた。
そこにあるのは、人間を見る目ではない。便利な「機能」を見る目だ。かつて私が自分自身に向けていたものと同じ、冷徹な合理性の眼差し。
「戻ってこい、エリス。私と結婚しよう」
爆弾発言。
謁見の間が、今度こそ静まり返った。
「て、殿下……?」
「愛などいらない。君もそうだろう? 効率と成果こそが至上の喜び。私となら、この国の国家予算すべてを君の思うままに運用できる。辺境の小銭計算とは桁が違う快感を与えてやろう」
それは、悪魔の誘惑だった。
かつての私なら——数字だけが友達だった頃の私なら、喉から手が出るほど欲しい提案だったかもしれない。
けれど。
グイッ。
私の体が、後ろに引かれた。
ヴァルデズ閣下が、私を殿下から引き剥がし、その背に隠したのだ。
閣下の手が、剣の柄にかかっている。
「……戯れ言はそこまでに願おう」
閣下の声は、怒りを通り越して、絶対零度の静けさを帯びていた。
相手は次期国王。剣を抜けば、今度こそ本当の「反逆」になる。それでも、彼の指は迷いなく柄を握りしめている。
「彼女は計算機ではない。人間だ。心があり、痛みを感じ、誰かのために怒って泣ける女性だ。国家予算? そんなもので彼女の価値が買えると思うな」
閣下の言葉が、胸に染み渡る。
殿下はつまらなそうに肩をすくめた。
「感情論か。相変わらず野蛮だね、北の魔王は。……だが、彼女自身はどうかな?」
殿下は私の顔を覗き込んだ。
「エリス。辺境に戻れば、待っているのは赤字との泥臭い戦いと、いつ死ぬかわからない魔獣の脅威だ。私の手を取れば、一生安泰の地位と、無限の計算リソースが手に入る。……合理的に考えれば、答えは明白だろう?」
問われている。
私の生き方を。
「有能な機械」として生きるか、「愛される人間」として生きるか。
私は震える手で眼鏡を押し上げた。
そして、ヴァルデズ閣下の背中から一歩踏み出し、彼の手を強く握り返した。
「殿下。貴方様の計算には、重大な変数が抜けています」
「変数?」
「はい。『愛』という変数は、時に無限大の係数となり、あらゆる論理的解を凌駕します」
私は満面の笑みで告げた。
「私はヴァルデズ様のものです。たとえ世界中の金貨を積まれても、この手を離すつもりはありません。なぜなら——彼の隣にいる時だけ、私は私が『黒字』であると感じられるからです」
殿下の目が点になる。
そして次の瞬間、ヴァルデズ閣下が私を抱き寄せ、高らかに宣言した。
「聞いたか。……商談決裂だ」




