第5話:損切りできない優良物件と、反逆罪のコストパフォーマンス
王都の使者たちが、捨て台詞と共に逃げ帰った後。
領都の広場には、異様な静寂が満ちていた。
無理もない。領主が王家の人間を蹴り飛ばしたのだ。これは公務執行妨害どころではない。明確な反逆の意思表示と取られてもおかしくない。
「……行くぞ」
ヴァルデズ閣下は、周囲の凍りついた空気を意に介さず、私の手を取って馬車へと歩き出した。
その手は熱く、そして痛いほど強く握りしめられていた。
城へ戻る馬車の中、私は膝の上で震える手を組み合わせていた。
頭の中で、最悪のシミュレーションが高速で回転している。
(反逆罪の刑罰は、爵位剥奪および財産没収。最悪の場合は極刑……)
計算するまでもない。
私一人という資産を守るために支払うコストとして、公爵家取り潰しというのはあまりにもバランスが悪い。
「閣下」
「なんだ」
「今すぐ、私を解雇してください」
私は顔を上げずに言った。声が震えないように、奥歯を噛み締める。
「先ほどの行為は、あくまで『私の無礼に対する個人的な制裁』だったと主張してください。そして私を王都へ引き渡せば、情状酌量の余地はあります。私が全責任を負って証言しますから——」
「黙れ」
遮られた声は、低く、威圧的だった。
思わず肩が跳ねる。
恐る恐る顔を上げると、向かいの座席に座るヴァルデズ閣下が、見たこともないほど険しい表情で私を睨んでいた。
「損切りの提案なら却下だ」
「で、ですが! このままでは閣下が破滅します! 私はただの会計士です、貴方が全てを投げ打って守るほどの価値なんて——」
ガタンッ!
馬車が揺れたのではない。
閣下が席を立ち、私を壁際に追い詰めたのだ。いわゆる「壁ドン」の体勢。けれど、そこにあるのは甘い雰囲気ではなく、切羽詰まった必死さだった。
「価値を決めるのは俺だ!」
至近距離で、アイスブルーの瞳が私を射抜く。
「君は数字には強いが、人の感情計算は赤点だな。……俺がなぜ、あの男を蹴ったと思う?」
「それは、私の所有権を主張するため……」
「違う!」
彼は苦しげに顔を歪めた。
「怖がっていたからだ」
「え……?」
「君が震えていた。あの男に腕を掴まれそうになった時、君が怯えていたから……体が勝手に動いた。損得など考える暇もなかった」
彼の大きな手が、私の頬に触れる。
先ほどまでの激情が嘘のように、その手つきは壊れ物を扱うように優しかった。
「君がいなくなれば、確かに領地の経営は傾くかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。俺はただ……君がいない朝を迎えるのが、耐えられないだけだ」
それは、愛の告白だった。
「資産」でも「有能な部下」でもなく、一人の人間としての私を必要とする言葉。
私の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
今まで、誰かに必要とされたくて、数字という鎧で武装してきた。役に立たなければ捨てられると信じていた。
けれど、この不器用な魔王様は、反逆罪のリスクを背負ってでも、私の震えを止めようとしてくれたのだ。
「……馬鹿です、閣下は。経営者失格です」
「知っている」
彼は自嘲気味に笑い、親指で私の涙を拭った。
「だから、優秀なパートナーが必要なんだ。……エリス、俺を助けてくれ。この状況を覆せるのは、世界で君だけだ」
その言葉が、私のスイッチを切り替えた。
泣いている場合ではない。
彼が感情(心)で私を守ってくれたなら、私は論理(頭脳)で彼を守らなければならない。それが「最強のパートナー」の役割だ。
私は涙を拭い、眼鏡をかけ直した。
カチャリ、と音が鳴る。それは、私の戦闘モードへの切り替え音。
「……状況を整理しましょう」
私の声から湿っぽさが消える。
ヴァルデズ閣下は満足そうに口角を上げた。
「まず、あの男爵が持っていた『王命』。あれは偽造、もしくは権限外の乱用である可能性が高いです」
「ほう? 根拠は」
「王太子殿下は聡明な方です。もし本当に私を連れ戻したいなら、正規の手順で閣下に親書を送るはず。軍勢を率いて強引に連行するなど、地方領主の反感を買う愚策を取るとは思えません」
「なるほど。つまり、あの男が自分の失態を隠すために、独断で動いたと?」
「ええ。前回の馬糧費横領の件も、まだ露見していないはず。彼には焦りがありました」
私は脳内で、王都の勢力図と金の流れをパズルのように組み立てていく。
「閣下。王都へ向かいましょう」
「逃げるのか?」
「いいえ。殴り込みに行くんですよ」
私はニヤリと笑った。
「元上司の不正の証拠、実は全てコピーして持っています。これを王太子殿下に直接提出し、今回の件を『不正官僚の暴走を辺境伯が阻止した美談』に書き換えます」
「……恐ろしい女だ」
「誰の女だと思っているんですか?」
売り言葉に買い言葉。
口にしてから、自分の発言の大胆さに顔が熱くなった。
閣下は一瞬きょとんとし、それから今日一番の深い笑みを浮かべた。
「違いない。俺の『最愛の』監査官だ」
馬車は雪道を駆ける。
行き先は王都。
かつて私を捨てた場所へ、今度は最強の魔王を引き連れて、凱旋するのだ。
しかし、私たちは知らなかった。
王都で待っているのは、小者の元上司など比較にならない、より巨大で、より歪んだ「愛」を持つ存在であることを。




