第4話:市場調査デートと、王都から来た招かれざる客
翌日。
私とヴァルデズ閣下は、領都のメインストリートを歩いていた。
本来なら護衛を連れるべきだが、閣下は「邪魔だ」の一言で騎士たちを城に置いてきた。二人きりだ。
「……閣下。本当にこれでよろしいのですか?」
「何がだ」
「『市場調査』という名目で、勤務時間中に街を視察することです。これは広義の職権乱用に当たるのでは……」
私がブツブツと言うと、隣を歩く長身の公爵様は、呆れたように溜息をついた。
「君は真面目すぎる。領主が領民の生活ぶりを直接見るのも重要な仕事だ。それに……」
彼は言葉を切り、露店に並ぶ色とりどりの果物に目を細めた。
「街に活気が戻った。君のおかげでな」
彼の言う通りだった。
一ヶ月前は閑散としていたであろう通りに、今では多くの人と物が溢れている。商会から回収した資金が街に還流し、経済が回り始めた証拠だ。人々の顔にも、以前のような暗い諦めはなく、明るい笑顔が浮かんでいる。
「あ! 領主様だ! それに『黒字の女神』様も!」
果物売りの少女が私たちに気づき、声を上げた。それをきっかけに、周囲の人々が一斉にこちらを向く。
「本当だ! エリス様!」
「エリス様のおかげで、今年は新しいコートが買えました!」
「うちの店も売り上げが倍増ですよ!」
あっという間に私たちは感謝の言葉に取り囲まれた。
皆が私を見て、手を合わせんばかりに喜んでいる。
数字は嘘をつかない。けれど、その数字の向こう側に、これほど温かい体温が存在していたなんて。王宮の奥で帳簿とだけ向き合っていた頃には知らなかった感覚だ。
「……くすぐったいですね」
「慣れろ。これが君の成果だ」
ヴァルデズ閣下はそう言って、人混みから私を守るように肩を抱き寄せた。
自然な動作。けれど、その腕から伝わる体温と、腰に添えられた手のひらの強さに、私の心臓はまたしても不規則なリズムを刻み始める。
(これは護衛。ただの護衛よ、エリス。勘違いしてはダメ)
必死に自分に言い聞かせながらも、彼のエスコートに身を委ねる心地よさに抗えない自分がいた。
その後、私たちは家具職人の店に向かった。
閣下は約束通り、私のために最高級の執務用椅子を注文してくれた。座面には上質な魔獣の革が使われ、腰への負担を軽減する魔術まで付与されているという、家が一軒買えそうな代物だ。
「経費で落とすには高すぎます!」
「俺のポケットマネーだ。文句はあるまい」
「ですが、私には不相応な……」
「君の腰を守るためだ。君が腰痛で一日休めば、この領地は金貨百枚の損失を出す。安い投資だ」
相変わらず、優しさをビジネス用語で包み隠す人だ。
「……ありがとうございます、ヴァルデズ様」
私が初めて彼の名を呼ぶと、彼は一瞬だけ目を見開き、それからふいと顔を背けた。耳が赤い。
完璧な一日だった。
この穏やかな時間がずっと続けばいい。そう思った矢先だった。
「——見つけましたぞ! ヴァルデズ辺境伯! それに、エリス!」
空気を読まない大声が、通りの向こうから響いた。
現れたのは、王宮の紋章が入った馬車と、数名の騎士たち。その先頭に立っていたのは、見覚えのある男——私を解雇した元上司、経理局の男爵だった。
楽しい空気は一変した。
ヴァルデズ閣下が私を背に庇うように前に出る。その全身から、先ほどまでとは違う、刺すような冷気が放たれた。
「……何用だ。領主の許可なく軍勢を率いて領内に入るとは、どういうつもりだ」
地を這うような低い声。本気の「魔王」の威圧感に、男爵は一瞬ひるんだが、すぐに尊大な態度を取り戻した。
「ふん、たかが辺境伯風情が。私は王太子殿下の名代として来たのだ! 無礼であろう!」
男爵は懐から羊皮紙を取り出し、高らかに宣言した。
「王命である! 元王宮監査官エリス・クラーク。貴様の能力を再評価し、王宮への即時帰還を命ずる! 直ちに馬車に乗れ!」
帰還命令。
その言葉に、私の血の気が引いた。
再評価? 今さら?
私を「空気が読めない」と切り捨てておいて、この領地で成果が出たと知った途端に手のひらを返すのか。
「……お断りします」
「ああん!? なんだと?」
「私は現在、ヴァルデズ様と雇用契約を結んでいます。契約期間中に一方的に破棄することはできません」
私が精一杯の虚勢を張って言い返すと、男爵は鼻で笑った。
「契約? 馬鹿な。王命が優先に決まっているだろう!? 大体、お前のような生意気な女を飼っておけるのは王宮くらいのものだ。さあ来い、この国の財政を立て直す道具として、馬車馬のように働かせてやる!」
道具。馬車馬。
その言葉が、私の古傷をえぐった。そうだ、私は所詮、都合の良い計算機でしかないのだ。
男爵が私の腕を掴もうと手を伸ばした、その瞬間。
ドォンッ!!!
爆発音のような轟音が響き、男爵の体が後方へ吹き飛んだ。
何が起きたのか分からない。ただ、ヴァルデズ閣下が片足を振り抜いた体勢で立っていた。
「……え?」
「二度と、その汚い手で彼女に触れようとするな」
閣下の声は、氷点下を突き抜けていた。
周囲の空気が凍りつく。彼から溢れ出る魔力が、物理的な圧力となって周囲を圧迫する。
王宮の騎士たちが慌てて剣に手をかけるが、魔王の殺気に当てられて誰も動けない。
「か、閣下! 王家の使者に対する暴行は、反逆罪に問われますぞ!」
吹き飛ばされた男爵が、顔面蒼白で叫ぶ。
けれど、ヴァルデズ閣下は一歩も引かなかった。
彼は私を背後に守ったまま、冷徹に言い放った。
「王命? 知ったことか」
その瞳には、王家への忠誠心など欠片もなかった。あるのはただ、自分の「所有物」を害する敵への、純粋な敵意のみ。
「彼女は俺の監査官だ。俺の領地で、俺のために才を振るう、俺だけの『資産』だ。それを奪おうとするならば——王太子だろうが誰だろうが、敵とみなす」
宣言された言葉の重みに、私は息を呑んだ。
それはもう、ただの雇用主の言葉ではなかった。




