第3話:黒字の女神と、公爵様の独占的価格設定
三日後。
オルグレン城の応接室には、王都から呼び出された「ゴルド商会」の支店長が座っていた。
ふんぞり返ったその腹は、この領地の貧しさとは対照的に、よく脂が乗っていた。
「いやあ、急なお呼び出しで驚きましたよ、辺境伯閣下。まさか、支払い遅延のご相談ですか? 困りますなあ、契約は絶対ですから」
支店長は、上座に座るヴァルデズ閣下を見ても、まったく畏縮していなかった。金のない貴族など、商人にとってはカモでしかないという侮蔑が透けて見える。
閣下は何も言わず、ただ氷のような無表情で腕を組んでいる。
それが合図だった。
私は一歩前へ出ると、分厚い羊皮紙の束をテーブルに置いた。
「ゴルド支店長。遅延の相談ではありません。『過払い金返還請求』の通告です」
支店長が目を丸くし、次いで不快そうに顔を歪めた。
「は? なんだね君は。女が口を挟む場ではないよ」
「代理人のエリス・クラークです。貴社が当家と結んでいる『魔導結界維持装置』の契約について、重大な瑕疵が見つかりました」
私は淡々と、しかし矢継ぎ早に言葉を紡いだ。
「過去5年間、貴社は『遠隔メンテナンス』の名目で月額金貨50枚を徴収していましたが、ログを確認したところ、外部からの魔力接続の形跡はゼロでした。これは明白な債務不履行、ならびに詐欺行為に該当します」
「な、なにを馬鹿な……! 機械の不調だろう!」
「さらに」
私は相手の反論を許さない。
「貴社はこの契約を結ぶ際、前任の家令に対し『最新鋭のため他社製品との互換性がない』と虚偽の説明をしていますね? 独占禁止法第12条、優越的地位の濫用です。これに基づき、契約の無効と、過去に支払った全額の返還を求めます。元本金貨3,000枚。これに商事法定利率年6%の遅延損害金を加算し、締めて金貨3,900枚。即時、耳を揃えてお支払いください」
私が提示した請求書を見た支店長の顔が、赤から青、そして白へと変わっていく。
彼はガタガタと震え出し、最後の悪あがきとばかりに立ち上がった。
「ふ、ふざけるな! たかが小娘が! 私は王都の有力議員とも懇意にしているんだぞ! こんな不当な請求、握りつぶして——」
ジャリッ。
不快なノイズが、支店長の怒号を遮った。
見れば、ヴァルデズ閣下がテーブルの端を、片手で握りつぶしていた。硬いオーク材が、まるでビスケットのように粉々になっている。
閣下は、座ったまま支店長を見上げた。その瞳は、絶対零度。
「……続けろ」
低く、短く。
けれど、そこには「この女の言葉は俺の言葉だ。逆らえば次は貴様の首を握りつぶす」という明確な殺意が込められていた。
物理的な暴力(閣下)と、法的な暴力(私)。
二つの凶器を突きつけられた支店長は、泡を吹いてその場に崩れ落ちた。
一週間後。
オルグレン城は、劇的な変化を迎えていた。
戻ってきた金貨3,900枚は、即座に「血肉」へと変換された。
城中の暖炉には赤々と火が灯り、兵士たちの食堂には分厚い肉のステーキが並んだ。ボロボロだったメイドたちの制服は新調され、屋根の修繕も始まった。
「エリス様、ありがとうございます! こんなに温かい冬は初めてです!」
「エリス様は俺たちの女神だ!」
廊下を歩くたびに、兵士や使用人たちから感謝の言葉を浴びせられる。
私は少し居心地悪く眼鏡の位置を直した。
「女神ではありません。私はただ、正常なキャッシュフローを取り戻しただけです」
そう呟きながらも、悪い気はしなかった。帳簿上の数字が、人々の笑顔という現実に変わる瞬間。これこそが、監査官としての最大の報酬だ。
その夜。
執務室に戻ると、ヴァルデズ閣下が窓辺に立っていた。
手には、二つのグラスと一本のワインボトル。
「……仕事は終わりだ、エリス。少しは休め」
「閣下。ですがまだ、来期の予算案が」
「命令だ」
有無を言わさぬ口調で、彼は私を手招きした。
しぶしぶ近づくと、彼は琥珀色の液体をグラスに注ぎ、私に差し出した。ヴィンテージ物の極上ワインだ。
「乾杯しよう。君の……いや、俺たちの勝利に」
「……はい。乾杯」
グラスを軽く合わせる。
一口飲むと、芳醇な香りが鼻に抜けた。暖炉の火が爆ぜる音だけが聞こえる、穏やかな時間。
ヴァルデズ閣下は、炎に照らされた私の顔をじっと見ていた。
「正直、驚いている。君が本当に、あの商会から金を毟り取ってくるとはな」
「毟り取ったのではありません。回収したのです」
「どちらでもいい。……君のおかげで、俺の部下たちは飢えずに済んだ。礼を言う」
素直な感謝の言葉。
あの「魔王」が、私に頭を下げている。
私は動揺して、視線を泳がせた。
「当然のことをしたまでです。私は雇われの身ですから、成果を出さなければ契約解除になってしまいますし」
「契約、か」
閣下がふと、真顔になった。
彼はグラスを置き、私の方へと一歩踏み出した。距離が詰まる。
影が私を覆う。
「契約解除など、俺が許さない」
「え?」
「君は優秀だ。あまりに優秀すぎる。王都の連中は、君を手放したことを今頃後悔しているだろう。……あるいは、君の価値に気づいて、取り戻しに来るかもしれん」
彼の大きな手が、私の頬に伸びてきた。
指先が、耳の裏をそっとなぞる。背筋がゾクリと震えた。
熱い。彼の手も、眼差しも。
「君は俺が見つけた『資産』だ。誰にも渡さん」
その声は甘く、けれど鎖のように重かった。
それは上司が部下に向ける信頼の言葉としては、あまりにも独占欲に満ちていた。
本来なら「私は物ではありません」と反論すべき場面だ。
けれど、彼の瞳の奥にある、飢えた獣のような光に射すくめられて、私は声が出せなかった。
(……資産? 私は、ただの会計係として評価されているだけ、よね?)
心臓が痛いほど脈打っている。
これが「生理的喚起」というやつだろうか。それとも、単にワインの酔いが回っただけだろうか。
私が答えを出せずにいると、閣下は満足げに目を細め、指先で私の眼鏡をくい、と持ち上げた。
「明日は街へ降りるぞ。君のための新しい服と、執務用の椅子を買いに行く」
「い、椅子? 今ので十分ですが」
「ダメだ。君が腰を痛めて離脱したら、俺の損失になる。……最高級のものをあつらえてやる」
そう言って笑う彼の顔は、初めて会った時のような「魔王」の顔ではなく、宝物を見つけた子供のように無邪気で——そして、どこか危険な色気を帯びていた。
私はまだ気づいていない。
この「黒字化」の成功が、新たな波乱を引き寄せようとしていることに。




