第2話:魔王公爵の手は、剣を振るうためと、袖をまくるためにある
私の宣言に対し、ヴァルデズ閣下は怒らなかった。
ただ、氷河のような冷たい瞳で私を見下ろし、「好きにしろ」と短く吐き捨てただけだった。それは許可というよりは、「どうせ無理だ」という諦観に近い響きだった。
それから三時間が経過した。
深夜の執務室。外は吹雪。室温は氷点下に近い。
暖炉に薪がないのだ。「予算削減のためだ」と閣下は言ったけれど、単純に発注を忘れていただけだと私は推測している。
(寒い……指がかじかんで、ペンの感覚がないわ)
私は白い息を吐きながら、床に座り込んで分類作業を続けていた。
この部屋の惨状は、想像以上だった。
過去十年分の領収書が、なんの脈絡もなく混在している。小麦の購入伝票の隣に、最高級魔導具のカタログが挟まり、その下から何故か「猫の餌代」の請求書が出てくる始末だ。
「……おい」
頭上から声が降ってきた。
ビクリと肩が跳ねる。顔を上げると、執務机で剣の手入れをしていた閣下が、不機嫌そうに私の手元を睨んでいた。
「さっきから見ていられん。なんだその手つきは」
「え? あ……」
指摘されて気づく。私の着ているドレスは、王宮勤務時代のものだ。袖口に華美なレースがあしらわれており、書類をめくるたびにバサバサと紙に当たり、インク壺を倒しそうになっていたのだ。
けれど、両手は煤と埃で真っ黒。自分で袖をまくろうとすれば、ドレスを汚してしまう。
「すみません、すぐに——」
なんとか肘を使って袖を上げようとした、その時だった。
閣下が無言で立ち上がり、大股で私に近づいてきた。
軍靴の音が床を叩く。
ヒッ、と喉が鳴る。邪魔だから斬られる、と本能が錯覚した。
けれど、彼の大きな手は私の首ではなく、手首へと伸びた。
「じっとしていろ」
低く囁くような声。
彼の指が、私の袖口のボタンに触れる。
武骨で、分厚いタコのある指先。剣を握り続けてきた戦士の手だ。それが驚くほど器用に、繊細なレースを解き、手首から肘へと丁寧に折り返していく。
「あ……」
冷え切った執務室の中で、彼の手のひらの熱だけが、火傷しそうなほど鮮烈だった。
素肌が触れるか触れないかの距離。
彼が身を屈めているため、整髪料の匂いと、微かな鉄の匂いが鼻腔をくすぐる。
私の心臓が、不正会計を見つけた時とは全く違うリズムで跳ねた。
「……これでいいか」
「あ、ありがとうございます……」
両腕の袖を綺麗にまくり上げると、彼は何事もなかったかのように立ち上がった。
「効率が悪い動きは見ているだけで不快だ。他意はない」
「は、はい。恐縮です」
彼は再び机に戻り、剣を磨き始めた。
——不快、と言った割には、その耳がほんのりと赤いように見えたのは、暖炉の火がない部屋での私の幻覚だろうか。
私は大きく深呼吸をして、熱くなった頬を冷気で冷ますと、再び書類の山に向き直った。
今はときめいている場合ではない。
この袖の件で分かったことがある。彼は「冷徹」なのではなく、単に「不器用」で「言葉が足りない」だけなのだ。
なら、私がすべきことは一つ。
数字という共通言語で、彼と対話することだ。
さらに一時間が経過した頃。
私はある「違和感」の正体を突き止めた。
「閣下。ちょっとよろしいですか」
「なんだ。もう泣き言か?」
「いいえ。……この領地が赤字である最大の原因を見つけました」
私は一枚の契約書を彼の目の前に叩きつけた。
『魔導結界維持装置・リース契約書』
「毎月、王都の商会に金貨50枚が支払われていますね。これは何ですか?」
「結界装置のメンテナンス料だ。北の守りには不可欠なものだ。商会の担当者は『最新機種だから維持費がかかるのは当然』と言っていたが」
「騙されています」
私は断言した。
「この契約書、よく見てください。第8条。『メンテナンスは遠隔魔術にて行うため、技術者の派遣は行わない』。そして第12条。『魔力充填費用は別途請求とする』……つまりですね」
私は眼鏡を押し上げ、彼を直視する。
「この商会は、何もしていません。ただ置いてあるだけの機械に対し、閣下は毎月、城が一つ建つほどの金額を『場所代』として支払わされているんです。これは契約という名の搾取です」
ヴァルデズ閣下の目が大きく見開かれた。
アイスブルーの瞳が、契約書の文字を食い入るように追う。
「……なんだと?」
「しかも、これ自動更新になっていますね。解約の申し出がない限り、孫の代まで搾取され続ける仕組みです。典型的な『リボ払い』スキームの亜種ですわ」
ギリリ、と彼が奥歯を噛み締める音がした。
手の中の契約書が、握力でくしゃりと歪む。
「俺は……領民を守るために戦ってきたつもりだった。だが、守るべき金で、肥え太った豚どもを養っていただけだったというのか……」
その声には、怒りよりも深い、自嘲と無力感が滲んでいた。
剣では魔獣を倒せても、悪徳契約書は斬れない。その事実に打ちのめされているのだ。
私は小さく息を吐くと、彼の手から契約書を優しく取り上げた。
「ご安心ください、閣下」
「?」
「剣で斬れない悪は、ペンで刺せばいいんです。この契約には『瑕疵』があります。商法第42条に基づく『錯誤による無効』を主張し、過去5年分の支払い金の返還請求を行います。私が」
ニヤリ、と私は口角を上げた。
それはきっと、淑女にあるまじき好戦的な笑みだったと思う。
「金貨3,000枚、利子をつけて取り戻しましょう。それでこの城に暖炉の薪を買い、部下の方々に美味い肉を食べさせるんです」
ヴァルデズ閣下は、呆気にとられたように私を見ていた。
数秒の沈黙。
やがて、彼の肩が震え——。
「……ふ、くく」
低い、喉を鳴らすような音が漏れた。
笑っている?
彼は顔を覆い、肩を震わせて笑っていた。
「傑作だ。王都から来たか弱い娘が、俺の代わりに商会を脅そうというのか」
「脅すのではありません。正当な権利行使です」
「違いない」
彼は顔を上げ、私を見た。
その瞳から、先ほどまでの氷のような冷たさが消え、代わりに奇妙な熱が宿っていた。
「エリス・クラークと言ったな」
「はい」
「……茶を淹れよう。最高級の茶葉があるんだが、淹れる人間がいなくて放置されていたやつがな」
魔王公爵が、不器用な手つきでティーポットを手に取る。
それは、彼が私を「部外者」ではなく、「共犯者」として認めた瞬間だった。
けれど、私はまだ知らない。
この「返還請求」の成功が、彼の中に眠っていた独占欲という名の魔物を、完全に目覚めさせてしまうことになるなんて。




