第1話:王宮を追放された監査官は、北の果てで絶望(の帳簿)と出会う
羊皮紙をめくる乾いた音だけが、石造りの冷たい部屋に響いていた。
王宮経理局、第三執務室。
私の指先は、インクと紙の匂いが染み付いたいつもの感触を追っているけれど、鼓膜の奥では自身の心拍音が早鐘のように鳴り響いていた。
目の前に突きつけられたのは、決算書ではなく一枚の辞令だったからだ。
「解雇、ですか」
「そうだ、エリス・クラーク。君は優秀だが、些か……空気が読めなさすぎる」
ガレイン男爵は、髭を触りながら、侮蔑の眼差しを私に向けた。
空気が読めない?
いいえ、私が読んでいるのは空気よりも遥かに雄弁で、嘘をつかない「数字」だ。
「男爵。先日の第二騎士団の遠征費ですが……貴方のご親族が関わっていますよね?」
「……ッ! だまれ小娘が!」
バン、と机が叩かれる。
「たかが計算ができる程度の平民が、貴族である私に意見するなど十年早いのだよ!」
その振動で、インク壺の中の黒い液体がわずかに揺れた。
私は冷静に眼鏡の位置を直しながら、揺れる水面を見つめる。ああ、このインク壺も無駄に装飾過多だ。これをシンプルなガラス製に変えるだけで、年間予算を金貨二枚は削減できるのに。
「君の行き先は決めておいた。北の果て、オルグレン辺境伯領だ」
「オルグレン……『魔王公爵』と呼ばれる、ヴァルデズ様の?」
「そうだ。あそこの領地経営は火の車らしい。君のその容赦ないメスで、精々あの冷血公爵と切り結んでくるといい」
男爵は嘲るように笑った。
魔王公爵、ヴァルデズ・フォン・オルグレン。
北方の防衛を一手に担う武門の名家だが、当主のヴァルデズは血も涙もない冷徹な男だと聞く。雇った会計士は三日と持たずに逃げ出し、逆らった部下は氷漬けにされて城壁の一部にされる——そんな馬鹿げた噂すらある男だ。
恐怖?
いいえ、私の胸に去来したのは、奇妙な高揚感だった。
火の車。それはつまり、改善の余地が無限にあるということではないか。
未整理の伝票、無駄な支出、そして何より、私の大好きな「黒字化へのプロセス」。脳内でドーパミンが放出されるのを明確に感じる。
私は辞令をひったくるように受け取ると、優雅に一礼した。
「承知いたしました。その赤字、私が一円残らず駆逐してご覧に入れます」
これが、私と「魔王」との、およそ甘さとは無縁の——しかし、とびきり高価な恋の始まりだった。
◇◇◇
王都を出て十日。
風景から色彩が消えた。
窓の外に広がるのは、見渡す限りの雪と氷の荒野。吐く息が白く濁り、粗末な乗り合い馬車の隙間風が頬を刺す。
「ひぃっ、出たぞぉぉ!!」
御者の悲鳴と共に、馬車が急停止した。
慣性の法則に従って体が前の座席にぶつかる。痛む額を押さえながら窓の外を見ると、そこには絶望が立っていた。
白い体毛に覆われた、巨人のような魔獣——スノー・オーガだ。しかも三体。
馬車を取り囲み、太い棍棒を振り上げている。
(生存確率は……限りなくゼロに近いわね)
私は震える手で、懐の帳簿を抱きしめた。死ぬのは怖い。けれど、この世には死よりも恐ろしいことがある。それは、計算が合わないまま決算を迎えることだ。せめてこの帳簿だけは守らなければ。
「グオォォォッ!」
オーガの棍棒が振り下ろされる。
私はギュッと目を閉じた。
——その時だ。
ヒュンッ。
風を切る鋭い音。
直後、ドサリという重い音が響き、顔に温かい液体が飛んできた。
恐る恐る目を開ける。
目の前で、オーガの巨体が崩れ落ちていた。その首は綺麗に切断され、雪原に赤い花を咲かせている。
「……汚れるな」
低く、地を這うようなバリトンボイス。
オーガの死体の向こうに、一人の男が立っていた。
闇夜を吸い込んだような黒髪に、返り血一つ浴びていない漆黒の軍服。そして、こちらを射抜くようなアイスブルーの瞳。
美しい、と本能が理解するよりも先に、生物としての警鐘が鳴った。
この男は、オーガよりも危険だ。
彼が軽く剣を振ると、付着していた血が遠心力で雪に散った。その所作一つ一つが、無駄がなく、洗練され尽くしている。
彼はゆっくりと馬車に近づき、窓越しに私を見下ろした。
「王都から送られてきた新しい『生贄』か? 会計士というのは」
「……生贄ではなく、監査官のエリス・クラークです。ヴァルデズ・フォン・オルグレン閣下とお見受けします」
震える声を必死に抑えて答える。
これが、魔王公爵。
彼は私の顔を見ることもなく、興味なさそうに視線を外した。
「乗れ。城へ連れて行く。だが期待するな。前の男は、帳簿を見た瞬間に泡を吹いて気絶した」
彼は私の返事も待たずに馬に飛び乗った。
そして一時間後。
オルグレン城の執務室に通された私は、彼の言葉の意味を——そして「本当の絶望」を理解することになる。
「……なんですか、これは」
私の目の前には、天井まで積み上げられた羊皮紙の山脈があった。
床が見えない。机も見えない。
領地の収支報告書、魔獣討伐の報酬請求、資材の購入履歴。それらが一切の分類なく、地層のように堆積している。
カオス。
数字への冒涜だ。
「見ての通りだ」
ヴァルデズ閣下は、その紙の山の奥にある椅子に座り、不機嫌そうに頬杖をついた。
「金がない。なぜないのかも分からん。武具の補修費も払えん状況だ。……これをどうにかしろと言った王家の無茶振りには呆れるが」
彼は私を値踏みするように見た。
「どうせ君もすぐに逃げ出すだろう。帰りの馬車代くらいは出してやるから、明日の朝にでも——」
「ふざけないでください」
私の口から、低い声が漏れた。
ヴァルデズ閣下の目がわずかに見開かれる。
「……あ?」
「ふざけないでくださいと言ったんです!!」
私はドカドカと紙の山に歩み寄り、その一枚をひっつかんだ。
恐怖? 魔王への畏敬?
そんなものは、この「汚い帳簿」を見た瞬間の怒りで吹き飛んでいた。
「日付順にも並んでいない! 費目ごとの分類もない! しかもこれ、3年前のパンの領収書の裏に、昨日の武器購入申請が書いてあるじゃないですか! 公文書をメモ帳代わりに使うなんて、万死に値します!!」
「は……?」
歴戦の猛者であるはずの魔王公爵が、初めて動揺の色を見せた。
私は眼鏡の位置を直しながら、彼を指差して言い放つ。
「逃げる!? まさか!! こんな……! こんなにやりがいのある『不良債権』を目の前にして、おめおめと逃げ帰るわけがないでしょう!?!?」
私は上着を脱ぎ捨て、腕まくりをした。
「閣下、覚悟していただきます。この部屋の紙切れ一枚に至るまで、私が完全に管理してみせます。今日から私が、この領地の法律であり、財布の紐です!」
呆気にとられる美貌の公爵。部屋に散乱するゴミのような書類の山。
こうして、私の「魔王城再建」という名の戦争が幕を開けたのだった。




