仕事開始②
アルベルトと昼食を済ませリオナは庭園に来ていた。良い天気なので室内に籠るより外に出た方が良い。
「本日は他国語を勉強されたと聞きました。ですから、少し体を動かす為に追いかけっこをしましょう」
「やる!ねえ、リオナはぼくを追いかけてね!」
アルベルトがそう言うと走って行った。
「この芝生の敷地から出てはいけませんよ!」
リオナの声にアルベルトが手を上げて答える。
さて、とリオナは息を吐いた。走ることなど久しぶりだ。貴族子女として全力で入ることなどはしたないことだし、走る機会も最近なかった。学院時代の運動の時間以来かもしれない。芝生の隅に立ち手を振るアルネベルトに手を振り返すとリオナは駆け出した。
気持ちいい風が頬を撫で、走ることが楽しく感じる。こんな自由に動けるのが久しぶり過ぎて、リオナは逃げ回るアルベルトを追いかけながら笑みを浮かべた。
スカートの裾が翻ることも気にせずアルベルトを追いかける。逃げ回るアルベルトからは笑い声が上がり、元気に駆ける姿をミリアたちも微笑ましそうに見ている。
直ぐ捕まえてしまえば拗ねてしまうだろう。だが手を抜くのはアルベルトに失礼だ。適度な距離を保ちつつ、徐々に逃げる場所を潰していく。
すばしっこいアルベルトに翻弄されることもあるが、やはりまだリオナの方が足が長く体力もある。時折振り返りながら走るアルベルトの背に狙いを定めると、リオナは全力で走りアルベルトを後ろから捕まえ抱き上げた。
そんなリオナを情けなさそうな顔で見下ろすアルベルトを抱きしめると、アルベルトがリオナの首に腕を回して来た。
「ズルいよ~。リオナは大人なんだから大目に見てくれないと」
「あら、私が手を抜いてしまってはアルベルト様に失礼ですよ。これからどんどん大きくなられると、私の足では到底追いつくことができなくなりますから。これからはアルベルト様の成長を知る為に時折こうやって追いかけっこをしましょうね」
「ん~。そのうちリオナは捕まえられなくなる?」
「ええ。もちろん。もっと背が高くなって手足が長くなり、剣術などで鍛えたアルベルト様には私は追いつくことはできないでしょう。だから私にとってアルベルト様を捕まえられるのは今だけの特権ですよ」
「じゃあもう1回!今度はもっと逃げられるようにするからやってみようよ」
「そうですね。ではもう一度してみましょう」
アルベルトを下ろすと、手を振り走り去っていく。芝生の庭は周りを低木で囲っているため飛び出すことはできない。良い遊び場だ。奥に木が生えているが、花は咲いていない。ミリアに聞けばライラックだという。ならば春に見ごろになるだろう。
ライラックが満開になる頃もまだ自分がこの場所にいられるようにと願いながら、ライラックの側まで逃げたアルベルトを追いかけた。
「マクシム。どう思った?」
昼食後に訪ねて来たマクシムに問う。
「どうと申されても、何のことか私にはわかりませんが」
落ち着いたマクシムの返答にデルフィーノは言い方を変える。
「彼女の事をどう思った?」
「リオナ様のことでしょうか?それならば、大変真面目な方だと思いますよ。几帳面ですし。黙々とお仕事をされているようですね。伯爵家で領地経営を手伝われていたのか、手際も良いのではありませんか?
下の階で少し話を聞きましたが、評判は大変よろしいようですね。綺麗な方が来られたと皆喜んでいるようですよ。貴族家の令嬢でありながらも、偉ぶることなく丁寧な言葉と所作に和んでいるようです。ご心配ですか?」
マクシムの言い方に違和感を覚えながらデルフィーノは眉間に皺を寄せた。
「そういったことではない」
「と申しますと」
デルフィーノは溜息を吐くと苛立たし気にカップをソーサに置く。
「彼女の服だ。物は悪くないように見えたが、伯爵家の令嬢としては些か質素過ぎではないか?辺境伯家の秘書として相応しい身だしなみの為にと支度金を渡してあったにも関わらず」
「そうでございますね。秘書として勤めるということで、敢えて質素な服を選ばれたのかもしれません。それに清潔感があってよろしいのではありませんか。華美なドレスで仕事をされるよりようございますよ」
「それにしてもだ。宝飾品もかなり質素だった。母上や義姉上はもう少し明るい服を着ていたと思うのだが」
「それはそうでしょう。辺境伯夫人や次期辺境伯夫人と同じように考えるのは些か難しいかと。リオナ様もそれを踏まえてお選びになられたのではないでしょうか」
「それだけではない。先に送られて来た荷物も少なかったと聞いている。こちらに来る時に持って来るのかと思ったら、小さなトランク2つだったそうだな。いくら働くとは言え、少ないと思って当然だろう?
渡した金があれば、華美でなくとも、もっと良い服を準備できたはずだ。髪も後ろで結い上げ地味な髪留めで留めているだけ。いくらなんでも伯爵家令嬢とはかけ離れている」
「それはリオナ様の仕事へ対する心構えですとか、好みとかもございますでしょう。デルフィーノ様は派手で動きにくいドレスで仕事をされる方をお望みではありませんでしょうに」
「それは。確かに今の服の方が、仕事をする上では良いだろう。だが、昨晩の晩餐でも今朝の朝食の席でも質素な服だった。貴族家の令嬢は、食事と普段の生活では着る服を変えるのが一般的と聞いている。
しかし彼女は、朝食の席の服のまま仕事をしていた。おかしくはないだろうか?」
「そうですね。確かにご令嬢としてここで過ごされるのであれば、それはおかしいことだと思いますが、リオナ様はお仕事をされるために来られたので、そういったことを割愛されてらっしゃるのかもしれませんよ」
マクシムの言うことはもっともだ。仕事をするのであれば、動きやすい服の方が良いだろう。リオナ自身も使用人だと自分のことを言っていた。それならばおかしなことはない。だがひっかかるのだ。今のリオナを見れば、伯爵家令嬢と思う者はいないだろう。まさしく文官と言った具合だ。
一点を睨み考えるデルフィーノにマクシムが声をかけてきた。
「他に気になることがありますか?」
「彼女は二十歳だ。働きたいと以前から思っていたのら、もっと早く、学院を卒業した後に、王宮女官や侍女になる方法があったはずだ。伯爵家の令嬢であれば、王妃付き侍女なども望めただろう。だがそれを選択していない。何か理由があったのではないか?支度金にしてもそうだ。いざという時の為に貯めておくという選択肢もあるだろうが・・・」
「まさか支度金をリオナ様が受け取っていないのではと思われているのですか?」
デルフィーノは頷いた。
「彼女は伯爵家の長女であると同時に、アクリオン公爵の姪だ。雇った私が言ってはなんだが、何故彼女はこの仕事を受けたのだろうか?アクリオン公爵は妹君に似ている姪を我が娘のように可愛がっていると耳にしたことがある。それなら、縁談は事欠かなかっただろう。伯爵家のみならず公爵家が後ろ盾というのは引く手あまたのはずだ」
「そうでございますね。ですが、伯爵の話では、リオナ様が結婚はしたくない。独立して働きたいと言っているとおっしゃってました。実際リオナ様もそのようにおっしゃっていますから、伯爵の話もあながち嘘とも思えません。
ただ確かに、貸し馬車であった事には驚きましたし、荷物も少ないのは事実です。ミリアが言うには、部屋の装飾品は花瓶1つと母君の姿絵だけだそうですよ」
デルフィーノの目とマクシムの目が合った。
「お調べしましょうか?」
「頼む。何もなければそれで構わない。何らかの原因で結婚を厭い働きたいと考えているならそれで良い。だが、もし意に添わぬことで働くことになったのだとしたら、それは彼女を解放せねばならない」
デルフィーノは自分で言っておきながら、何もなければ良いとふと思った自分に戸惑った。
「とにかく、アルベルトのためだ。至急調べてくれ」
「かしこまりました」
マクシムが部屋を出て行く。結果が出るのはそう遅くはないだろう。マクシムの人脈は広い。いざとなれば辺境伯領は王都から離れているにも関わらず、様々な情報を入手してくるのだ。
デルフィーノはぬるい水で喉を潤すと仕事を再開した。
「あのね、今日はリオナと追いかけっこしたんだよ。リオナは大人なのに直ぐぼくを捕まえるの。ばあやなら絶対捕まらないのに」
アルベルトがそう話し出したのは夕食の時間だ。かぼちゃのスープ、レタスとハムのサラダ、豚肉の香草焼きの横にはトマトと和えた大豆が付いていた。どうやらアルベルトは大豆も苦手らしい。
もごもごとした食感が嫌だと初めて食べて以来食べていなかったらしいが、しかし体に良い大豆は是非食べられるようになって欲しいとボルガが出したらしい。
リオナが食べさせてみると存外食べられると思ったようで、以前よりは味覚が変わっているのか、更にリオナが食べさせることで食べる勇気が出て、そして案外美味しいなというとことらしい。
それだけボルガが美味しく調理しているのだが、食べず嫌いだったものに対してはどんどん挑戦させていきたい。夕食もデルフィーノの真似をしながら食べる姿から目を離せないが、徐々に慣れて行けば良いのだ。アルベルトの口元を拭うとリオナは自分の食事に手を付けた。
「楽しかったか?」
「うん!今日はたくさん走ったから夕食が美味しいの。特にこのかぼちゃのスープは美味しいね!」
「かぼちゃは今の季節の食材だからな。季節の食材は体に良いからたくさん食べると良い」
デルフィーノの言葉にアルベルトがスープのおかわりを要求し、パンを頬張っている。
「リオナがぼくを捕まえられるのは今だけなんだって。デルはぼくを捕まえられるでしょ?リオナはデルを捕まえることはできる?」
「それはできませんね。デルフィーノ様は鍛錬を欠かさないとお聞きしていますから、私の足では到底捕まえるだなんて恐れ多いことです」
「ふーん。じゃあぼくもデルみたいになったらリオナは捕まえられないってこと?」
「もちろんです。それどころか、もうしばらくすれば、私では捕まえることはできなくなるでしょう」
「つまんないの。リオナと追いかけっこするの楽しいのに」
「ですから、今はまだお相手できますからね。天気の良い日に存分にしましょう」
「うん!そうだね。ぼくがデルみたいになるまでまだまだだもん。明日は晴れる?」
「私は天気に詳しくありませんが、先程空を見たら雲一つありませんでしたから、少なくとも午前中は晴れるでしょう」
「いや、明け方には降るぞ」
静かな声にリオナはデルフィーノを見た。
「申し訳ございません。無知なことを言ってしまいました」
「謝る必要はない。王都では今の空では明日も晴れるだろうが、この辺りは山が近いからな。風が少し湿っているから明日には降り出すだろう。それだけだ」
「じゃあ追いかけっこはできないの?」
「そうだな。昼前に止んでも芝生は湿っているだろうから難しいだろう」
「え~。じゃあ明日は何をして遊ぶ?」
小首を傾げてリオナを見上げるアルベルトは残念そうだ。
「そうですね。では絵本を読みましょう」
「う~ん。体を動かす方が好きなんだけどな。邸内で追いかけっこは?」
「いけません。晴れたら体を動かす。雨が降れば室内でできる遊びをする。その方が気持ちの切り替えもできますしね。明日までに面白そうな絵本を図書室で探してきますので楽しみにしていてください」
「え~。つまんないよ。絵本はばあやとも読めるもん」
口角を下げて不満を口にするアルベルトがリオナの手にその手を載せて来る。
「そうですね。でしたら、お菓子作りをしましょうか」
「え!お菓子を作るの!」
「はい。私は幼い頃、よく母と一緒に作りました。今もできるかはわかりませんが、ボルガさんたちに手伝ってもらえばできるかもしれません」
「やってみようよ!」
「ではボルガさんに頼んでみますね」
満面の笑みを浮かべるアルベルトに気を取られていたが、視線を感じて目をやると、デルフィーノがこちらを見ていた。その視線はもの言いたげで、リオナと一瞬視線を交わしたがデルフィーノから視線を逸らされことに少し安堵した。デルフィーノの視線はリオナたちを見守るようで柔らかさがあった。
慣れてはいけない。咄嗟にその思いが宿る。あの視線に慣れるのは良くない。直感だった。慣れるのが怖いとさえ感じるその視線を、リオナに向けて欲しくない。
いや、きっとアルベルトを見ていただけで、リオナを見ていると思ったのは気のせいだ。とんだ思い上がりだと自己嫌悪し、そんな自分を情けなく思う。気にかけてくれたと一瞬でも思ったのがそもそも間違いだ。自分の役目をこなすだけ。リオナは不思議そうに見上げて来るアルベルトに笑みを返しながら食事を再開した。




