そして、静寂は破られた
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月のない未明の空に、星だけが瞬いていた。
星明かりの下、ゆるやかに蛇行する大河。その細長い橋のたもとに設けられた陣地を、松明の炎がゆらゆらと照らしている。
「……霧が出てきたな」
見張りに立つ兵の声が、闇に吸い込まれた。
森と岩山が迫る川面には、うっすらと白い霧が静かに流れている。
隣の兵が口元をほころばせる。
「お前の親父さんが言ってたっけな。『霧は戦の前触れ』だって」
「またその話か……。ロアンは親父の話をよく聞いてくれて助かるよ」
同郷の仲間にロアンが笑い返す。今は同じく徴兵された身だが、互いの顔を見れば、不安よりも気丈な笑みが浮かぶ。
松明の明かりは橋の手前と中州をわずかに照らすだけで、霧の向こうは深い闇に沈んでいる。
川のせせらぎと、自分たちの呼吸音だけが夜の中に響いた。
「静かだな……」
ロアンの掠れた声が、夜気に溶ける。
――その瞬間。対岸の闇の中で、きらりと閃光が走った。
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遠くで、雷が落ちたような音がした気がした。
ぼんやりと意識が浮かび上がる。次の瞬間、誰かに肩を激しく揺さぶられた。
「ナギノ様、起きてください!」
「なに……?」と目をこすりながら上体を起こすと、ルーリの声が張りつめていた。
「――敵に動きがあったそうです。すぐにご準備を!」
その一言で、夢の残滓が一気に吹き飛んだ。
慌てて支度を整え、幕の外へ出る。外では「点呼!」と叫ぶ声や、馬の嘶き、走る足音が交錯していた。
まだ夜明け前で、空は真っ暗。けれど松明と照明が焚かれ、村全体がざわめきに包まれていた。
幕の前では、トルユエ、イオ、イリサグがすでに待機していた。
ばちっとイリサグと目が合う――が、一昨日の侵入の件が脳裏をよぎって、どう顔を向ければいいか分からない。先に目を逸らしたのは、彼の方だった。
「……何か用ですか?」
ぶっきらぼうな声。左右のイオとトルユエの眼光が、鋭く光る。
「おい。お前、言うことあるんじゃねぇのか」
トルユエの低く刺すような声に、イリサグがわずかに眉をひそめた。
「……一昨日は、申し訳ありませんでした」
私を一瞥し、早口で短く言葉を残す。
――彼はただ、話したかっただけだ。私がすぐ起きていれば、あんな大事にはならなかったのに。
「私も、」と口を開きかけた瞬間、イリサグが舌打ちして睨んできて、慌てて口を閉じる。
「謝ったら怒りますよ。……ほら、スーウェン様が来ました」
苛立った彼の言葉通り、規律正しい足音が近づく。
スーウェンが現れると、全員の顔を順に見渡し、私に視線を止めた。
「――複数地点で、帝国の動きが確認されました。
ナギノ様には、これより中央小橋へ移動していただきます。一部はすでに先発しました」
彼の声に緊張が走る。
「先に馬を」と短く告げると、スーウェン以外のみんなは素早く駆けていく。
すると幕の中のエフィナが「ナギノ様、忘れ物!」と叫び、私の手に木製の小さな耳栓を押し付けた。
「わ、ありがとう! 持ってくの忘れるところだった!」
「もう、危なかったですね。どうかお気をつけて」
くしゃっと笑ったエフィナに「行ってくるね」と告げ、スーウェンと共に幕を後にし、ルーリ達の向かった方へ歩く。
いくらも進まないうちに、スーウェンが立ち止まり、身をかがめて耳元で声を落とした。
「――『イオが傍に居る方が、魔法が安定して発動する』という話。誰かに、話しましたか?」
「え? は、はい。イオにだけ……」
ふっと、スーウェンは小さく笑う。影で表情は見えないが、耳に触れた吐息に、ぞくりとした。
「恥ずかしがり屋のあなたが、こんなに早く口外するのも、本人へ直接話すのも、少し意外でした。……他の者には、言わないでください」
「どうし……」
「――ところで。ナギノ様は一人で馬に乗れないでしょう。私と相乗りしますから、そのおつもりで」
「……ええ!?」
疑問が吃驚で吹き飛ぶ。スーウェンはもう身を離し、いつもの無表情に戻っていた。
「同性だし、ルーリとじゃダメですか……!?」
「ルーリとイオは衛騎士で、魔石の使用が認められていません。最も安全なのは、私の傍です。移動距離も短いですから」
顔を引きつらせて苦言を呈してみるも、きっぱりと否定され、彼はさっさと踵を返した。
……最近のスーウェンの言動を考えると、正直、ためらう気持ちが大きい。
けれど文句を言っている暇もない。私は小さく息を吐き、彼の後ろを足早に追った。
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私と護衛騎士たち以外にも20人の騎士が同行し、青白い灯りを頼りに、川沿いの暗い森を進む。
松明の光が木々の影をゆらめかせ、蹄の音だけが静寂を刻んでいた。
突如――雷が落ちたような轟音が、連続して鳴り響いた。
「きゃ……!」
全身がびくりと震え、馬上で体のバランスが崩れかける。でもすぐ後ろでスーウェンの腕と太腿が支え、動きを固定した。
「……魔石による破裂音でしょう。敵の攻撃かと思われます」
淡々と告げるスーウェンは、まるで動じていない。けれど私の心臓はばくばくと暴れ続けていた。
慌ててエフィナから渡された耳栓を取り出そうとすると、すかさずスーウェンの声が飛ぶ。
「侍女から何を受け取っていました?」
「あ、耳栓です。私、大きい音が苦手なので……」
「――渡してください」
ぴしゃりと、冷ややかな声。彼は片手で手綱を操りながら、空いた手を差し出した。
言われるままに渡すと、スーウェンは「トルユエ!」と隣へ呼び、そのまま彼へ投げ渡した。
「え!? あ、あの!」
「装着されては困ります。私の指示が聞こえなくなりますから」
「そ、それは分かってますけどっ……! でも、ほんとに苦手で!」
「問題ありません。すぐに、怖くなくなりますから」
――音に慣れるってこと? いや、それができたら苦労しないよ……!
淡々とした口調に、涙目で心の中で叫ぶ。だが返してくれそうにない。
がっくりと肩を落とし、反論の言葉を飲み込んだ。
「落ち着けよ。出発の挨拶の時は、平然としてたじゃねぇか」
並走するトルユエが、からかうように笑う。
「いや、正直怖かったです。でも、あの時はまだ想像できたから……。こんな突発的なのは、ほんとに苦手で……!」
――小学3年生の時の記憶がよみがえる。剣道場の先生の、雷が落ちて爆発したような大声。
『……怖いものは怖いから。無理しない方がいいよ』
伊織の言葉が脳裏を掠めた。あの大声が原因になって、大きな音は全般的に怖い。
視線を落とすと、馬の足取りがゆるやかな坂道を登っていることに気付いた。
「……あれ? 橋に向かってるんですよね?」
「はい。ただ我々のみ、少し寄り道をします。間もなく合流地点です」
首を傾げていると、やがて隊列が止まり、馬を降りた。
しばらくも経たない内に、森の向こうから一人の兵士が現れ、私の前で膝をついた。
「ロアンと申します。本物の神様とお会いできて光栄です」
兵士は顔を上げる。四十代ほどの、よく日焼けした肌の男性。
「彼は地元民です。ここからは彼の案内で進みます」
スーウェンが説明すると、ロアンはにっと笑う。深く皺が刻まれて、親しみやすそうだ。
「橋の状況は?」とスーウェンが尋ねると、彼は表情を硬くする。
「敵の攻撃は音と光ばかりで、まだ目立った被害はありません」
「聞いていた状況と変化はないな。早速、案内を」
頷いたロアンが立ち上がる。私と護衛騎士たちだけが彼の後に続き、暗い森へ進んで行った。
――轟音がだんだん近付く中、頼りない灯りしかないのに、ロアンはまるで昼のようにすいすいと進む。時折、心配そうに振り返った。
「神様、大丈夫ですか? もうすぐ着きますから」
「は、はい……」
私は――冷や汗だらけで、ずっと血の気が引いた状態だ。音に慣れる気配は、全くない。
「……この辺りは岩山が川の近くまで迫っていて、上からは中央小橋がよく見えるんです。
俺は漁師でしてね、魚もよく獲れるし、川も綺麗ですよ」
緊張を和らげようとしてか、ロアンは気さくに話しかけてくれる。気遣いが温かくて嬉しいのに、返事がぎこちなくなる。
「そ、そうなんですね。落ち着いた時に、ゆっくり見てみたいです」
「ぜひ! トーのみんなで案内します」
聞けば、"トー"とは私たちが拠点として利用している漁村の名前で、ロアンは村の住民だそうだ。徴兵された者以外の人は近隣の町や村へ避難しているらしい。
スーウェンが軽く咳払いをすると、ロアンは慌てて前へ向き直し、歩調を速めた。
やがて足が止まり、ロアンは前方を指差した。
「この上です。ここなら川からは見えません」
灯りを向けると、ごつごつとした岩肌が段々に重なり、上へと続いている。
「音が止んでいる間に登りましょう。足元に気をつけて」
スーウェンが促す。確かに今、周囲は静かだ。……登っている最中に、また音が鳴りませんように。
ロアン、ルーリ、スーウェンに続いて岩場へ手をかけた。傾斜はきつくないものの、みんなが腰に提げている腰の灯りだけでは足元がよく見えない。
列の前後から心配されながら、慎重に、なるべく急いで登る。――その時、唸るような轟音が夜気を震わせた。
「――っ!」
体が跳ね、足が滑る。咄嗟にイオとイリサグが両側から支えた。
「ちょっと、気をつけてください」
イリサグの声に、「ご、ごめん……」と謝る。
「……音、大丈夫ですか? 苦手でしたよね」
反対側のイオが小声で尋ねてきた。
――平時なら、イオはきっと「無理しない方がいい」と言ってくれるんだろう。
でも今は違う。不安でたまらないけれど、我が儘なんて言っていられない。
「き、気合いでなんとか……する!」
震える声で言うと、イオは苦笑して頷いた。
「……頑張って」
彼の手が、そっと背中を押す。
岩肌の冷たさよりも、掌の温もりが確かに伝わった。
私は息を吸い込み、再び手足に力を込めて――夜の岩場を登り始めた。
更新が遅くなりました。やっと出発できました。
次はどかーんとしていきます。




