おやすみなさい
至近距離まで迫ったイリサグの顔は――そのまま私のすぐ横を通り過ぎ、寄せ植えられた花鉢へ向けられた。
長い指がすっと伸び、ぷちん、と小さな花を一輪摘み取る。
そして、体を起こした彼は何の前触れもなく、私の耳元へその花をそっと挿した。
「…………へ?」
唐突な行動に、思わず間抜けな声が漏れる。
指先で確かめると、稲穂のようにしなやかな黄色い小花が、ラベンダーを思わせる形だった。
イリサグは無言のまま私を見下ろしている。背が高いため、私はほとんど真上を仰ぐ形になる。
「ありがとう、ございます……?」
意味が分からないまま、とりあえず礼を口にした。だが彼は返事をせず、じっと視線を重ねてくる。
やがて低い声が落ちた。
「……あなた、少し雰囲気が変わりましたね」
「雰囲気? ど、どこが?」
――まさか、記憶がないのがバレた……?
不安が胸をよぎる。しかしイリサグは答えず、ただまっすぐに見つめてきた。
そのとき――
「……ナギノ様っ!!」
鋭い声が夜気を裂いた。全身がびくりと震える。
軽く息を荒立て、駆け寄ってきたのは――スーウェンだった。鎧ではなく黒いチュニックに剣だけ佩いた姿で、初めて見る軽装だ。
イリサグは振り返り、スーウェンと視線を交わす。スーウェンの眉間には深い皺が刻まれていた。
「イリサグ。……何をしている?」
「別に、何も。ナギノ様が『眠れない』と仰ったので、散歩にお供していただけです」
淡々と答えるイリサグをしばし見据え、スーウェンは小さく息を吐く。
「……何もないなら、それでいい。ナギノ様、こちらへ」
すっと差し出された手に戸惑いながら、ぎこちなく手を重ねると、ぐいっと強く引き寄せられ――そのまま彼の胸に押し当てられて、息が詰まった。
「ぶふっ。ご、ごめんなさ……スーウェンさん?」
慌てて離れようとするが、彼の腕が肩を抱き留め、力はむしろ強まる。
胸元に押し込められたまま、息も整わない。対峙する二人の間に張り詰めた空気が漂った。
「……少し、侍女とともに下がっていろ」
低く命じるスーウェンに、イリサグは静かに頭を下げ、その場を去っていく。
足音が遠ざかると、彼の胸からほんのりと漂う匂いに気づいた。
白檀に似たような、少し甘く懐かしい香り。危うく心地よさに浸りかけた瞬間、腕の力が緩んだ。ハッと我に返り、慌てて全力で飛び退く。
「すすす、すみません! 嗅いだりなんてしてませんから!!」
余計な弁明まで口にしてしまい、後悔する。だがスーウェンは目をわずかに見開いただけで、特に何も言わなかった。……ほっ。
彼は気を取り直すように、淡々と口を開く。
「イリサグと接触していると聞いて、急ぎ参りました。……何もされていませんか?」
ああ、だから来てくれたんだ。……でも、誰がわざわざ知らせたんだろう?
その点が少し引っかかりつつも、私は素直に答えた。
「はい。あ、でも花をいただきました。イリサグさん、聞いてた印象よりずっと穏やかで……びっくりしました」
耳の横の花を指さすと、スーウェンがそっと手を伸ばし、指先で花に触れる。
伏せた瞳のまま、ふっと口元がわずかに緩んだ気がした。
何も言わず手を戻した彼は、静かに問いかける。
「……『眠れない』というのは、何か気になることがあるからですか?」
「あ……うん。まあ……」
胸に抱え込んでいた不安を思い出し、乾いた笑いで誤魔化す。
「あはは……最初はファレンさんに相談しようと思ったんですけど、今夜は外出中で。だから、明日になったら話そうかなって」
指先で髪の毛先をいじっていると、落ち着いた声が落ちてくる。
「でしたら、私に話してみませんか?」
暗がりの中、モスグリーンの瞳が静かに光る。
――どうしよう。
誰にでも話していい内容じゃない。けれど、スーウェンさんなら……。
胸の奥で揺れていた疑念を、早く誰かと共有したかったの気持ちもあり、私はすぐに決めた。
小さく息を吐いて、ポケットに手を差し入れる。
「あの、実はこれ……」
取り出したのは「忘却録」と記された本。閉じたまま差し出す。
「中身は見せられませんけど……ここに書かれた内容と照らし合わせると、私、イリサグさん以外にも“忘れてること”があるみたいで……」
忘却録に記された項目、日常で時おり感じる違和感、周囲の反応――それらを順に伝えていく。
「『特に魔法の後がおかしい』って、イオに言われたんです。だから……私、魔法を使うと、記憶を失ってしまうんじゃないかって……」
冷静に話したいのに、感情が昂り、言葉が震えて上手く話せているか分からない。
それでもスーウェンは遮らず、ただ静かに相槌を打ちながら聞き続けてくれた。
やがて一通り話し終えると、スーウェンは深く息を吸い込み、静かに吐いた。
「……そうでしたか。それは、とても不安ですね」
その言葉を聞いただけで、胸に絡まっていたものが少し解ける気がした。誰かに聞いてもらえただけで、ようやく大きく息ができる――そう思った、瞬間。
「そうだとしても――ナギノ様に今さら下りていただくことは出来ません」
低く冷たい声が、耳の奥に響いた。思わず息が詰まる。
どういう意味なのか分からず、私は彼を見上げた。灯りの少ない夜気の中で、彼の顔に影が濃く落ちている。
「既に昨日、ルーリ達も演習に出発しました。恐らく帝国との衝突は、もう目前です。
その戦いは、ナギノ様の魔法を前提に作戦が立てられている」
一歩近付いたスーウェンの指先が、私の髪を一筋すくい上げた。
「だから――たとえ記憶を代償にすると分かっていても、“圧倒的な魔法”を行使していただくしかない。……元々そういう約束だったのでしょう?」
胸が強くざわめいた。
この世界に来た日。……いつだったのか、別の日にもファレンに釘を刺された内容だ。細かい記憶は曖昧なのに、その重みだけははっきりと覚えている。
「でも……」思わず声が漏れた。けれど、続く言葉は出てこない。
――分かっているようで、分かっていない。
ただ「”圧倒的”な、強い魔法を見せれば止まってくれる」と信じたい気持ちと、本当にそんな甘い話で済むのかという疑い。考えれば考えるほど、答えに近づくのが怖くて、それ以上深く考えたくない。
……だって、私はただの大学生だ。賢いわけでも、専門知識があるわけでも、特別な力があるわけでもなかったはず。魔法なんて現実味のない言葉で、いまだに口にすると浮いてしまう気がするのに……。
沈黙のまま、スーウェンの指先が再び髪から首筋、そして頬へと移る。ぞくりとして後ずさろうとした瞬間、その手が頬を包み、逃げ場を塞いだ。鼓動が速まる。
「このことは――まだ、誰も知りませんか?」
低く問いかけられ、私は小さく頷いた。
その仕草に彼の手がさらに熱を帯びる。まるで捕らえられたようで、息が詰まった。
「私に最初に話してくださって良かった。……ですが、どうか誰にも言わず、胸に秘めてください」
感情を表に出さない顔。けれどその瞳は、鋭く冷たい。
怖い、と感じた瞬間、彼の手は頬から離れた。だが頬に残る温度が、まだ捕まっているような錯覚を覚える。冷や汗が背を伝った。
「……手を出してください」
命じる声に一瞬ためらったが、彼は私の反応を待たずに手を取った。
手のひらを上に向けさせると、どこから取り出したのか、大きな白い魔石を載せる。
「……白い魔石? 今までのは黒っぽいのに……これは?」
「加工された魔石です。握ってみてください。心が落ち着きます」
さらにもう一方の手も取り、両手で魔石を包む形に導かれる。スーウェンの大きな手が上から重なった。
「今日は朝から、色々ありましたから。お疲れでしょう。
……だから今日の出来事は、全部、忘れていい」
彼の声が一層低く響く。手のひらの魔石がじんわりと熱を帯び――次の瞬間、強烈な眠気が全身を覆った。腕も足も力が抜け、身体が崩れ落ちる。
しかし落ちる前に、スーウェンの腕がしっかりと私を支える。耳元に温かな吐息がかかり、柔らかい声で囁きが落ちた。
「おやすみなさい」
意識が溶けゆく中で、その声だけが鮮明に響いて――静かに、目を閉じた。
――
……突然、瞼に差し込む光が、容赦なく視界を刺した。思わず手で遮り、身をよじると――柔らかな枕に顔を埋まった。
「――ナギノ様、朝ですよ! そろそろお目覚めください」
弾むようなエフィナの声が耳に響き、のそのそと身体を起こす。視線を巡らせると、そこは見慣れた寝室だった。エフィナはすでにきびきびと掛け布団を畳み、ぼんやりした私をベッドサイドへと導いた。
冷たいタオルを手渡され、顔に押し当てる。ほんのり甘い香りが沁み込み、少しずつ意識が浮上していく。
「おはよう。……ねえ、わたし昨日、いつ部屋に戻ったの?」
問いかけると、エフィナが水を注ぎながら目を丸くした。
「いつ、って……何の話です? 夜にどこか出かけてたんですか?」
「え? いや、だって……昨日の夜、わたし――」
言いかけて、そこで言葉が途切れる。
言葉が――思い出そのものが掻き消えたかのように。
「……ううん、なんでもない。夢でも見たのかも」
確かに覚えていた気がする。けれど、その像は靄の中に溶けてしまった。
まだ寝起きの頭では深く考えることもできず、とりあえずエフィナの差し出す水を一口飲む。冷たい水が喉を落ちていくのに、ぼんやりとした靄は晴れない。……考えようとする気持ちも薄れていった。
着替えを済ませる頃には、私はもう――何を疑問にしていたのかさえ、思い出せなかった。
白檀の匂い、個人的に大好きです。
次はお嬢様。




