忘却録と期待外れの神
地面に落ちた忘却録を拾い上げ、震える手で何ページも繰った。
厚さ3センチほどの本。4分の3くらいまではびっしりと記述があり、その先は真っ白なページが続いている。
息を呑み、最後の記述があるページをもう一度開いた。
一、パティスリーミッシュのケーキのこと
一、ちょっと高いチョコアイスのこと
一、ラベンダーの香りのこと
一、お稲荷さんのお煎餅のこと
一、イリサグのこと
一、イオに呼び捨てされたこと
一、サンドクッキーのこと
一、トルユエとの話し方についてのこと
一、城壁でのこと
「なに……これ、私のことだよね? 多分……」
ページを見つめるうちに、胸の奥で違和感が膨らんでいく。
――今までに、違和感を感じた瞬間は、何度もあった。
初めに抱いた違和感は、エフィナの香りだった。その次がイリサグ。クッキーや、トルユエとの距離感、ルーリの見送りの時のこと……ここ数日が特に、ずっと引っかかっている。
このサホノの本――忘却録には、私が“忘れている記憶”が書かれている……?
「違和感とは合うけど……一体どういうこと? なんで、こんなのが……」
心臓の鼓動が大きく鳴り、血の気が引いていく。
口元に触れた指先まで、すっかり冷たくなっていた。
「……待て待て。勝手に決めつけちゃだめだ。……誰かに相談しなきゃ」
真っ先に浮かんだのはファレンの顔だった。
生活の管理は彼女が取り仕切っているし、パルシーニ達ともすぐ連絡がとれる。さばさばしていて少し緊張するけれど、賢くて頼りになる人だ。
そう決めて、忘却録を枕の下に隠した。隣室で片づけをしていた侍女に頼み、ファレンへの取り次ぎをお願いする。数分後、戻ってきた侍女が首を振った。
「申し訳ありません。ファレン様は今夜は外出中で……明日の朝にお戻りになるそうです」
「……え」
タイミングが悪い……!と心の中で鋭くツッコみを入れる。
けれど居ないものはどうしようもない。代わりにパルシーニ様……と考えかけたところで、侍女が遠慮がちに口を開いた。
「ナギノ様。もう夜も遅くなってきますし、明日ではいけませんか? この時間帯は皆さま自由に過ごしておられますし、急な呼び出しは……」
時計はすでに21時を指していた。
私の感覚ではまだいけるかなと思ったけれど、確かに、就寝前のくつろぎ時間に押しかけるのはちょっと気が引ける。
「……そうですね。すみません、じゃあ明日にします。おやすみなさい」
仕方なく寝室に戻り、ベッドに横になった。
――
「……眠れない」
暗がりで時計を見ると、もう深夜0時を回っていた。
ずっと頭から忘却録のことが離れない。
あれこれ考えては寝返りを打ち、ふかふかのはずのベッドがただの重しのように感じられる。
傍らで侍女がうたた寝しているのを確かめてから、枕の下へ手を伸ばし、本を取り出した。
「『イオに呼び捨てされたこと』って……昨日が初めてだと思ってた……」
昨日の光景が脳裏に蘇る。
真っ青な顔色で「大至急」とトルユエを呼び、誰かへ報告に行くと言っていた。
「まさか……前にも呼び捨てされてた? それを忘れてて、私が『初めて』なんて言ったから、『おかしい』って言ったのかな……?」
思考が連鎖し、イオの言葉がよみがえる。
――最近、おかしくありませんか。
――特に……魔法を使ったあとで。
身体を起こすと、髪がさらりと肩に落ちた。
静かな部屋に、侍女の寝息と時計の秒針だけが響く。
「……わたし、魔法を使うと――忘れる?」
掠れた声が闇に溶ける。私の問いかけに答える人は誰もいない。
瞬きするのも忘れ、ただ忘却録を見つめた。
信じたくない。けれど、周囲の反応は、むしろそれを裏付けている気がした。
「……だめだ。しんどい……」
このままでは疑心暗鬼に潰されてしまう。
胸の重さを振り払うように、夜風にあたろうと思い立ち、傍らで眠る侍女へ小さく声をかけた。
――
寝間着の上からガウンを羽織り、部屋の外へ出ると――そこにはミルクティー色の髪、ぱっちりとしたつり目をもつ、背の高い騎士が立っていた。
……あ、この人が『イリサグ』さんなんだ。
イリサグは何も言わず、ただじっと私を見下ろしている。散歩したい旨は侍女を通して伝わっているらしく、すっと一歩下がって前進を促してきた。
何を言えばいいか分からず、とりあえず「お願いします」と軽く会釈し、廊下を進む。
「どちらへ参りましょう?」
侍女に尋ねられ、私はなんとなく「まだ行ったことのない場所へ行ってみたい」と答える。
少し迷った末に案内されたのは、普段は通らない道を通って、中庭らしき所だった。
「ここは東の中庭でございます。花が綺麗ですよ」
吹き抜けになった中庭からは、1階から4階の廊下、さらに夜空までよく見える。
昼間とは違い、夜の空気はひんやりと冷たい。壁面いっぱいに色とりどりの花や植物が茂り、所々にあるランタンの灯りが、それらをぼんやりと照らしていた。
ゆっくり散策できるようにと侍女は気を利かし、入口に控える。私とイリサグだけが中庭を歩く。彼は少し距離を置いて、静かに後ろをついてきた。
「わあ、可愛い」
大きな鉢に、小ぶりな花々がたくさん寄せ植えされている。思わずしゃがみ込み、顔を近づけてじっくり見ていると、背後から息を吸う音が聞こえた。
「……近ごろ、魔法が成功しているそうですね。おめでとうございます」
不意の言葉に一瞬反応できず、慌てて振り返る。
「え? あ、ありがとうございます……」
……気まずい。
スーウェンやエフィナから、彼がどんな人物かはもちろん、魔石事故や、頭を引っ張られた事件のことも聞いている。ただし私自身には一切、記憶がない。
ぼんやりした灯りに照らされたイリサグの表情はどこか影を帯び、静かに私を見下ろしていた。
「……この前のことですが」
低い声が静寂を破る。
「あれは……ちょっとやり過ぎました。大人げなかった、です」
目を逸らし、ぎこちなく言葉を繋ぐ。その反省が本心と分かり、私は慌てて立ち上がった。
「いえ! もとはといえば、私が魔石で事故を起こしたのが原因です。……しかも、私の名誉のために、あれは『なかったこと』にされたと聞きました」
イリサグの眉がぴくりと動く。視線を受け止めながら、私はなるべく丁寧に言葉を選んだ。
「気持ちを踏みにじる処理でした。イリサグさんが無事で、本当に良かった。……謝って済むことではないですが……本当に、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる。私にできる精一杯の謝罪だ。
しんと静まり返った空気に、風が吹き抜け、葉擦れの音が重なる。
「……『謝るな』と、言ったでしょう。神が謝ったらだめなんですよ」
静けさを破る声に、思わず顔を上げ「どうして、ですか?」と尋ねる。
「――神は絶対だから」
目を瞬かせる私をよそに、イリサグは淡々と続けた。
「私は敬虔な信徒の家系に生まれました。幼い頃、一度だけサホノ様を拝見しましたが……あのお方は本当に素晴らしかった。だから“いつか仕えよう”と誓い、厳しい教えに耐えてきたんです」
ゆっくりと、一歩ずつ近づいてくる。
「けれど、サホノ様はお眠りになり――再臨されたと聞けば、それはナギノ様で。
……あなたにはサホノ様のような雰囲気はない。もごもご喋るし、馬鹿みたいに謝る」
目の前で歩みを止め、真っ直ぐに見据えてきた。
「まるで普通の人間みたいだ。……正直、期待外れです」
低い声に、謝罪の言葉が喉まで出かけて、ぐっと飲み込む。
しかし、その重苦しい空気は次の瞬間、ふっと変わった。
「……でも、一昨日。雨の中、あなたが光線を空へ放ったのを見ました。
暗雲を裂き、陽だまりの中で光へ手を伸ばす姿は、とても神々しくて……サホノ様のようでした」
――ああ、あれか。まっすぐ伸びる光線、流れ星みたいだなって思ったんだよな。
記憶をたどっていると、突然イリサグは両膝を折り、右手を胸に当てて頭を垂れた。
「急にどうし……」
「――魔石の件は、もう気にしないでください。こちらこそ危害を加えてしまい、申し訳ありませんでした」
私の言葉を遮る低い声。頭を下げる彼を見て、開いた口が塞がらない。
――えええ? イリサグさん、聞いてた印象と全然違うんだけど……!?
エフィナの話では「無礼で乱暴な人」だっただけに、戸惑いを隠せない。
「あ、あの……立ってください。ええと……」
どう言えばいいか分からず、あたふたする私の前でイリサグは静かに立ち上がった。
灯りの加減で顔は影になり、口元だけが見える。その口角が、わずかに上がった。
そして、さらに一歩、私へ迫る。
「え、なに――」
警戒の声を上げた瞬間、イリサグの顔が至近距離まで近づいてきた――。
わりと核心に迫る。イリサグも迫る。
次はおやすみなさい。




