忘却録に刻まれたもの
仕事があるからとファレンたちが退室し、寝間着のままだった私はイオにも一度外に出てもらった。着替えを済ませて椅子に腰を下ろすと、チリン、と入室の鈴が鳴る。
「あれ、スーウェンさん? イオは休憩ですか?」
「彼は急用ができました。すぐ戻ります」
そう答えたスーウェンは、ゆっくりと私に歩み寄る。そして机に片手を置いて、覗き込むように顔を寄せると、低く抑えた声を落とす。
「……あの医者に、何をしようとしたのですか」
何のこと?と一瞬迷い――女医に手をかざしかけてスーウェンに止められた場面を思い出す。
「何をって……無意識だったんです。特に意味は……」
「――魔法で傷つけるつもりだったのでは?」
声は冷静だが、鋭い威圧感が漂い、胸が詰まる。
「ち、違います……!」
彼は無言で私をじっと見据えている。重い沈黙が落ちる。
やがてふっと、威圧感が緩んだ。
「……それなら良かったです」
身体を離し、表情もいつもの淡々としたものに戻る。
「魔法はしばらく使用しないでください。……とにかく今は、身体を休めましょう」
その言葉に、ようやく大きく息を吐いた。
――チリン、と再び鈴が鳴く。
「あ、イオ、おかえり。もう用事終わった?」
「……はい」
戻ってきた彼は浮かない顔をしていた。スーウェンへの礼も、声に力がない。
スーウェンが退室した後、私はイオに尋ねてみる。
「イオ、どうしたの? 元気なさそうだけど……」
「……いいえ、気になさらないでください。――ところで、朝は『訓練場に行きたい』と仰っていましたね。何かありましたか?」
にこりと笑いかけられたものの、その笑顔はどこか線を引いたように見える。それ以上は追及せず、話を戻すことにした。
「うん、そのことなんだけど……」
――イオが傍にいる時だけ、魔法が発動するのか。
……でも、スーウェンに「使うな」と言われたばかりだしな。訓練場には行けなさそうだ。
けれどもし仮説が正しければ、過去に失敗続きだったことにも説明がつく。
「ね、2人とも。ちょっとお願いがあるんだけど……いいって言うまで、1人ずつ部屋の外に出てくれる?」
唐突な頼みにイオとエフィナが目を瞬かせる。理由を説明しようとしたけれど、そもそも魔法の使用を反対されるのが目に見えたので、敢えて伏せておく。
怪訝な顔を浮かべつつもイオが部屋を出て、私とエフィナだけが残った。
「何をするんですか?」
「内緒。結果が出たらちゃんと話すよ」
机の上のお茶のカップに手をかざす。
――昨日は“虹”や“流れ星”をイメージしたら、それっぽい魔法が出た。もちろん断言はできないけど、多分、魔石と同じで”イメージ”が大事なんだと思う。
そして今朝は周囲の反応からしても、恐らく大きい魔法を使ったようだし、だとすればMPも相当減っているはずだ。昨日の3回目の時みたく、小さい魔法しか出ないだろう。
……お茶がキンキンに冷えて、氷みたいに凍るイメージで――。
そっと手をかざす。だが薄黄色の液面は揺らぐこともなく、変化がない。
あー、やっぱり変わらないか……なんか、ちょっと理科の実験みたい。
「ありがとう、エフィナ。次はイオに来てもらうね」
彼女にバレているかどうかは分からないが、じっとりした目を向けられる。何か言われる前に背中を押して部屋を出てもらい、入れ替わりでイオが入室した。
「ちょっと近くに立っててくれる?」
彼を自分の隣に立たせ、改めてカップに手をかざし、イメージを膨ら……
「――っ!」
かざした手を、横から強く掴まれた。ぐいと引き上げられ、至近距離にイオの顔が迫る。真剣な眼差しで、鋭く声を落とした。
「……今、魔法を使おうとされましたよね? ファレン様も仰っていたでしょう、『しばらく休んだ方が良い』って。覚えてますか?」
「お、覚えてるよ。ただ、1回だけ……試したいことがあって」
「試したいこと? ……そういえば、講義の前に呟いていましたね。何を試すんですか?」
「えっ、聞こえてたの? よく覚えてるね……!」
思わず感心したが、彼の真剣な眼差しに射抜かれ、ハッと我に返る。
「……もし違ってたら、ものすごく恥ずかしい仮説なんだけど……笑わないでくれる?」
視線を逸らしながら言うと、イオは手の力を緩め、私の手を放した。
「笑いません。教えてください」
とても恥ずかしいが、腹をくくって彼を見上げる。
「『イオが傍に居る時だけ、魔法が発動している』って思ったんだよ」
イオは一瞬まばたきし、驚いたように問い返す。
「……俺が? どうして?」
――過去に挑戦した時のこと。居合わせた人物や、結果について、全部説明する。
イオは初め半信半疑だったけれど、やがて口元に手を当て、真剣に考え込む。伊織もよくそんな仕草をしていたな、と密かに胸が締めつけられた。
しばらく沈思した後、イオが言った。
「……もしそれが本当なら、非常に重要な情報ですね」
「うん。信じてくれる?」
「当たり前です。状況と結果を照らしても、その可能性は十分あります」
即答で「当たり前」と言ってくれたのがちょっと嬉しくて、胸の奥がじんわり温かくなる。
「――だとしても、俺はあなたに魔法を使ってほしくない」
しかし思いがけない鋭い拒絶に、息を呑む。
「ど、どうして……?」
イオは一瞬躊躇し、真っ直ぐに見つめ返した。
「……心配だから、です」
その沈痛な声に、胸がざわめいた。
「え、あの……休めって話なら、ファレンさんが処置してくれたし……試すのも1回だけだから……」
苦しく弁解すると、イオは片手で顔を覆った。
「それはそれとして、先に確認したいんですが……最近、何か“忘れている”と自覚していることはありませんか?」
「ええ? 忘れてること?」
唐突な問いに、私は首を捻る。
「うーん……イリサグさんのこととか、今朝のルーリの出発の時のこととか?
他にも……まあ、違和感は色々あるんだけど……」
ぶつぶつ呟いていると、イオが顔から手を下ろし、ぐっと私を見据えた。
「……ナギノ。お願いだから、全部話して」
縋るような響きに、思わず目を見開く。――でも、それ以上に。
「わあ……! イオ、初めて名前呼んでくれたね!」
「……え?」
胸が一気に熱くなり、彼の疑問の声が耳に入らなかった。
「前にお願いしたもんね? 名前で呼んでほしいって。砕けて喋ってほしいって言ったのに、全然呼んでくれないから……もう無かった話かと思ってたよ。
ありがとう、すごく嬉しい。なんか、すごく照れるな」
思わず饒舌になって頬が緩み、笑みがこぼれる。
――だが次の瞬間、イオの顔が蒼白に染まった。肩をがしりと掴まれ、指先に力が食い込む。
「……絶対におかしい。すぐに報告してきます」
そう言うと彼は鎖を首元から引き出し、焦った様子で握りしめた。
「――大至急、交代していただけませんか。浴室へ向かいます」
鎖を仕舞いながら、早口で続ける。
「ナギノ様、そろそろ入浴の時間ですよね。丁度いいです。エフィナ達にも伝えますから、このまま浴室へ向かいましょう」
「え? お風呂?」と間の抜けた声を出す私を置き去りに、イオは部屋を飛び出し、外のエフィナへ話を通してしまった。彼女も驚いていたが、ちょうど夕方は入浴の習慣があるため、すんなり承諾される。
ばたばたと準備して少し離れた浴室へ向かう。振り返ったイオの顔は、焦燥に張り詰めていた。
入浴を終えると、浴室前にトルユエが待っていた。首筋には汗が伝っており、駆けつけたのが一目でわかる。
「はぁ……『大至急』なんて言われたから、めちゃめちゃ焦ったぞ……」
「す、すみません。私も何が何だか……」
「ったく、あいつも何も言わんで行くし。何やったんだ?」
……魔法発動の検証はしようとしたけど、それ以外は何もやってないです。
心の中で返事をしつつ、あはは……と乾いた笑いを浮かべた。
でも結局、夕食の時間になってもイオは戻らなかった。
「イオ、大丈夫かな……」
心配が滲み出る。するとトルユエに頭をぽん、と叩かれた。
「気にすんな。どうせ夜は交代だ。夜当番が来るまで、このまま俺が居てやるよ」
その言葉に背中を押され、仕方なく食事を口にする。途中、トルユエに連絡が届いたようだったけれど、「気にするな」の一点張りだった。
「……今日は何時間も伏せていたのですから、早めに寝てくださいね!」
夕食後、エフィナには強く念押しされた。……正直全く眠くないが、渋々、支度を始める。
他の侍女と交代したエフィナも部屋を去り、一人で寝間着に着替えていた時――ふと、ポケットの膨らみに目が留まった。
……サホノ様の本だ。
「最近、これ全然見てないや」
文庫本ほどの大きさで、厚みはあるのにやたらと軽い。最初はよく見たけど、近ごろはポケットに入れっぱなしで、もはやアクセサリーのように持ち歩いているだけだった。
「……そういえば、この本って誰も触れないのに、イオだけは触れるんだよな。……魔法といい、何か関係あるのかな」
久しぶりにぱらぱらとページを繰る。かれこれ約2週間ぶりだ。
暗い空、食べた味、コバ、リンレ……以前と同じ記述が並ぶ。
――だが、その中に『イリサグ』という文字を見つけた。
「……『イリサグのこと』? ……え、うそ?」
『ラベンダーの香り』『呼び捨てされたこと』『城壁でのこと』――以前にはなかった記録が、全部で7つも増えていた。
知らない。……そんな記憶、私にはない。
驚きに指先から力が抜け、本が床に落ちる。
その瞬間、裏表紙の隅に刻まれた文字がはっきりと目に入った。
――『忘却録』。
「……なに、これ……」
固まったまま、本を見下ろす。
その三文字が目に焼き付き、なのに全身は凍るようで、呼吸が浅くなる。
掠れた声が喉から漏れた。
「わたし……もしかして、これ全部……忘れてる……?」
忘却録。
一部プロット練り直してたら時間かかっちゃいました。
次は久しぶりの人。




