消えた日々の痕跡を辿って
喋りながら歩いている途中、突然立ち止まったイオの背中にぶつかりそうになった。
「わ! ……あれ、どうかした?」
顔を上げると、彼は唖然とした表情を浮かべている。
無意識に後ろのエフィナへ視線を向けると、彼女もまた奇妙なものを見るように目を丸くしていた。
「え? 2人とも、どうしたの?」
固まった2人の顔を交互に見ていると、エフィナが戸惑い気味に口を開いた。
「あの……ナギノ様? 『急に』ってどういう意味ですか? さっきまで――」
「エフィナ!」
イオの鋭い声が割り込む。思わず私もエフィナも目を見開いた。
「……とにかく早く部屋へ戻ろう。ナギノ様は、少し疲れが出ただけだ」
エフィナは驚きながらも頷き、「さ、行きましょ。お茶をお淹れしますね」と微笑んで、私の背中を押す。
前を歩くイオの顔は見えないが、普段より歩調が速い気がする。
ぐいぐいと背中を押され、私たちは足早に部屋へ戻った。
部屋の扉の前には、スーウェンが立っていた。どうやら、私が戻るのを待っていたらしい。
……いつも思うけど、護衛のみんなって一体どうやって連絡を取り合ってるの? 私、ひそかに発信機でも付けられてる?
訝しむ私を意に介さず、スーウェンが問いかける。
「ナギノ様。……例の件ですが、私も同席します。よろしいですか?」
例というのは『イリサグ』のことだろう。すぐに頷くと、スーウェンがエフィナへ視線を向ける。
「これから秘匿事項を含む至急の話をする。私が同席するから、君は外で待ちなさい」
「承知しました」
エフィナは頭を下げて下がり、私とイオ、スーウェンが部屋に入った。
席についた私の隣にスーウェンが立ち、正面にはイオが立つ。
イオが深く息を吸い、言葉を切り出す。
「結論から申し上げます。……ナギノ様、あなたは『イリサグ』という人物を忘れています」
――そんな気はしていたけれど、改めて口にされると、胃の底がぐっと重くなった。
「……うん。イオ、朝に言ってたもんね。護衛騎士の一人なんだよね」
「はい」
彼の表情は真剣で、思わず膝に置いた手に力がこもる。
「昨日の事件が起きて、まだ一日です。一時的なものであればいいんですが……」
イオはわずかに目を伏せ、それから真っ直ぐに私を見据えた。
「昨日の出来事だけでなく、……ジョア様との会話から察するに、魔石の事故におけるイリサグ様の関与についても、覚えていらっしゃらないのでしょう?」
私は小さく頷いた。猫のことは覚えてるんだけどな――と考えかけたとき、スーウェンが「待て」と声を掛け、イオを制する。
「ナギノ様の状態を私はまだ直接伺っていない。先にそちらを確認したい」
そう言うと、隣に立っていた彼は跪いた。
「ナギノ様。一つずつ確認させてください。まず、昨日の事件について……」
スーウェンの主導で、丁寧な問答が続いていく。
――まず、私は出来事のすべてを忘れているわけではないみたいだ。
女医とのやり取りや出来事の大筋は覚えている。ただ「イリサグが関わった部分」だけが抜け落ちている。頭痛や髪が抜けたことは覚えていても、彼に直接髪を引っ張られた記憶はない。
そのうえ別の日、私が「魔石でイリサグを吹き飛ばした」らしいけど……それも覚えていない。話を聞いていると頭が痛くなる。
「初めて会った日のことは?」と尋ねられても、記憶は空白のまま。――要するに、彼に関することを何も覚えていなかった。
正面のイオは憂いを帯びた顔で、言葉を失っている。
一方のスーウェンは眉を寄せる場面こそあったが、基本的にずっと無表情。質問も淡々としていて、まるで事務処理のようだ。
「事情は分かりました。『イリサグ』に関する記憶だけが抜け落ちているようですね。
それが分かれば十分です」
立ち上がったスーウェンに、「……何が?」と思わず疑問が漏れる。
「主観的な記憶はなくとも、客観的な情報で埋めれば一時的に対応は可能です。後日思い出すかもしれませんし、そうでなくても今後イリサグと接触する予定はありません。
最低限の情報があれば問題ありません」
……要は、教科書みたいに丸暗記するのね。複雑だけど仕方ないか。
「ちゃんと思い出せればいいんですけど……」
顔を伏せると、イオが小さく息を吐いた。
「イリサグ様はナギノ様の頭部に危害を加えていました。その影響で記憶が欠落したのかもしれません。
……そのせいで、他にも影響が出てないといいのですが……」
心から心配そうな声音。けれど私は顔を伏せていたせいで――彼がさらに何かを言いかけた表情には気付かなかった。
「では、イリサグに関する情報を整理しましょう。ただナギノ様の護衛は1人ですので、イリサグ担当時のやり取りを知る者がいればいいのですが……」
「あ、それならエフィナが分かるかも。
休暇の日を除けば、ほとんどずっと一緒に居てもらっているので」
私の答えに、「……そうですか」と一瞬、なぜかスーウェンの目に険が深まる。
「分かりました。彼女には私の方から尋ねます」
そう言ってスーウェンは扉を開き、すぐ傍で待機していたエフィナを呼び入れた。
エフィナには「イリサグとナギノ様に関する情報を集めている。昨日の事件で一部の記憶が曖昧になってしまったため、過去のやり取りを全て確認したい」と説明された。
彼女は一瞬驚き、不安そうに私を見たが、やがて使命感に燃えたように、はきはきと報告を始める。
「イリサグ様は、初めてナギノ様にお会いした日から本当に無礼でした! 『想像と違って普通』なんて言い放って……。
それに訓練の見学の日だって、私はお茶を運んでいたので全部は分かりませんが……部屋でナギノ様に向かって乱暴に大声をあげていたんです!」
……あ、それ覚えてないけど、多分私も怒ってる。
どんなやり取りがあったかは覚えてないけど、「口論した」ような気はする。
昨日の事件がなくても、エフィナはイリサグに相当腹を立てていたらしい。興奮する彼女を時々なだめつつ話を聞き終えると、スーウェンが深いため息を吐いた。
「……もういい。協力に感謝する。今後は他の護衛騎士が対応するから、君は心配しなくていい。
それと――君は色々な事情を見聞きしているが、ここで得た情報について、他言しないように」
そのままエフィナは退席を促され、扉が閉まる。室内に静けさが戻ると、再びスーウェンが深く息を吐いた。
「……ナギノ様に覚えがなくとも、イリサグの言動について、彼の代わりにお詫びいたします。申し訳ありません」
すぐ隣で両膝をつき、右手を胸に添える。深く垂れた頭に慌てて「大丈夫ですから!」と手を伸ばした。だが彼は頭を上げただけで、跪いたままだ。
「イリサグは、昔から少し拗らせやすいところがあるんです。優秀で才能もあるのに、許せない部分があると攻撃的になると言いますか……。
……彼は彼なりの事情があるのですが、今回は度が過ぎました。私が責任をもって対処します」
スーウェンは悪くないのに、嫌な役を押し付けてしまったような気がする。
私は目一杯の笑顔を作って「本当に気にしないでください」と伝えた。
――けれど彼は何を考えているのか分からない表情のまま、真っ直ぐ私を見つめ続ける。
その瞳は緑色。翡翠のようなファレンとは違い、彼の色は深いモスグリーンだ。吸い込まれるというよ、深みに落ちていきそうな……
「……スーウェンさんの瞳って、綺麗ですね」
思わず口に出してしまう。彼はわずかに呆気に取られ――伸ばしたままだった私の手を、ぱしりと掴んだ。
「え?」と戸惑う間もなく、両手を包み込まれる。近い距離からじっと見上げられ、彼は静かに口を開いた。
「ありがとうございます。……かつて家族にも、同じことを言われました。
ナギノ様の瞳も、透き通った深い琥珀のようで、とても美しいです」
歯の浮くような賛辞に、顔が一気に熱くなる。「え、あの、」と動揺していると、
「……俺は、部屋を出た方がいいですか?」
イオがとても言いにくそうに、目を逸らして伺いを立ててきた。
はっとして「お、お褒めの言葉をありがとうございます!」と慌てて私はスーウェンの手を放した。
スーウェンが「他も調べてまいります」と告げて退室した後、エフィナがお茶を淹れてくれる。
「たくさんお話したから、喉が渇いたでしょう。どうぞ」
花柄の可愛いマグカップに注がれたお茶を口に含む。背後ではイオがずっと黙ったまま控えている。
……とても気まずい。顔が見られない。
私の心中とは裏腹に、エフィナがにっこり笑い、ことりとクッキーの皿を置いた。
「まだおやつの時間には早いですけど。お好きでしょうから」
――分厚い、キャラメルを挟んだサンドクッキー。
さっきの話し合いで疲れたのか、少しぼんやりした頭にはありがたいエネルギー補給だ。さく、と噛むと、香ばしい甘さが口いっぱいに広がった。
「んー! これすごく美味しい。エフィナ、私の好みをよく分かってるね。
初めて食べたけど、私これすっごく好きな味だよ。ありがとう!」
幸せな気持ちでもしゃもしゃと咀嚼する。
バン、と――叩きつけたわけではないが、力強くテーブルに片手を置いたイオが、私を覗き込んできた。
「……初めて?」
突然の距離の近さと、凄みのある声に息が止まる。口の中のクッキーを慌てて呑み込んだ。
「……今までにも召し上がったこと、ありますよね?」
「そ、そうだった? ご、ごめん、あんまり意識してなかっただけかも。私、ぼんやりしてるから……」
弱々しく答えると、彼はじっと私を見据え、低く呟いた。
「……これもイリサグ様の影響……?」
え、と聞き返す前に、すっと身を引く。
「なんでもありません。……突然、すみませんでした」
イオは固く唇を結ぶと、顔を逸らした。
イリサグ忘れられて気の毒。
次はルーリ出立の日。




