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消えた痕と疑念、広がる噂

 窓を打つ雨音で、私は目を覚ました。

 部屋の中は薄暗く、昼なのか夜なのか判別がつかない。

 ぼんやりした頭で自分の腕を見下ろすと――注射の痕は、なかった。


 ……夢だった? いや、そんなわけないよな……。


「あ、ナギノ様! 目が覚めたんですね!」

 のそりと身を起こすと、すぐ傍にいたエフィナが駆け寄ってきた。私の顔を見て、胸を撫で下ろすように大きく息を吐く。

「昨日の昼からずっと寝てたんですよ。具合はいかがですか?」

「えっ……そんなに?」

 驚いて聞き返すと、どうやら丸一日眠り続けていたらしい。今はすでに翌朝だそうだ。


 灯りをともしてもらい、濡れたタオルで顔や体を拭う。用意してもらった水を受け取って口に含むと、エフィナが「すぐお医者様を呼んできます」と言い、私はぶはっと咽た。

「げほっ……ま、待って! お医者さんって、あの女医さん? 他にいないの?」

 しかし医者は基本的に男性で、女医は一人しかいないらしい。しかも寝室には家族や側近以外の異性は入れない決まりがあるため、女医しか呼べないのだそうだ。

「じゃ、じゃあ……せめて護衛騎士の誰かも呼んでくれる? あの人、ちょっと怖いから……」

 既に注射痕は消えてしまっているので、説明もできない。でもせめて誰か、強い人に傍にいてほしかった。

 エフィナは頷き「外にいる騎士を呼んできます」と言って部屋を出て行った。

 間もなく、隣の部屋からイオの声がした。


 イオが帰還していることをすっかり忘れていた。というか、髪や服も寝起きのままということすら忘れていた。

 そのうえ、昨日のお姫様抱っこや、呼び捨てにされた記憶が蘇り――思わず、掛け布団を頭まで被った。


「失礼しま……え、ナギノ様? どうしました?」

 寝室に入ってきたイオが、戸惑いながら近づいてくるのが分かる。

「いや、その……顔が! 髪もぐちゃぐちゃで……! ごめん!」


 三角座りで布団に潜り込む姿は、自分でも異様だと思う。でも顔を見られたくなくて外せないのだから仕方ない。

 ガーゼケットのような薄い掛け布団越しに、イオの姿が見えた。


「何をしているんですか?」とエフィナも寝室に入ってくる。同じように説明すると、呆れた声で言った。

「何言ってるんですか。お医者様も呼びましたし、そんなの被ってたら余計に髪が乱れますよ!」

 容赦なく私から掛け布団を引き剥がそうとする。

「や、やめて。せめて髪くらいは梳かせて……!」

 必死に抵抗すると、エフィナはため息をつき「じゃあ櫛を持ってきます」と再び寝室から出ていった。


「……ふ。ふふ……」

 わずかな沈黙の後、笑いを堪えるイオの声が落ちる。そして、すっと間近に迫る。

「多少乱れてても大丈夫ですよ。……ほら、出てきてください」

 布団を掴んでいた手に、ふわりとイオの手が重なる。そのまま腕ごと頭から布が引き下ろされた。

「……ああ、少し乱れてますね」

 イオは柔らかく笑い、顔にかかった髪を指先でそっと払った。


 ……うわああああ。ち、近すぎる……!


 顔が熱で爆発しそうになり、慌てて膝に顔をうずめる。

 その後、エフィナが戻ってきて髪を梳く間、イオは横でくすくすと笑っていた。


 ……伊織も時々、妙に距離感が近かったんだよな。他に好きな人いるくせに。

 似てる人だとは思ってたけど、まさかイオもそんな所まで似てるとは……!


 内心ぶつぶつ言っていると、チリンと鈴が鳴る。女医が部屋に到着したらしい。

 浮かれた熱をぱっと払い、顔を上げた。


「失礼します」と言って寝室に入ってきた女医は、淡々と診察を始める。

 問診内容も至って普通で、特に変わった様子は何もない。……でも。


 ぎゅっと手に力を入れ、意を決して声を出す。

「……あの。昨日のあれは、一体何だったんですか?」

 心臓をバクバク鳴らせながら尋ねる。だが女医は特に驚きもせず、さらりと「注射のことですか?」と答えた。


「ひどく混乱されていましたので、落ち着いていただくために使用しました。サホノ様もよくお使いでしたから、危険なお薬ではありませんよ。

 痕は消しましたが、驚かせて申し訳ありませんでした」


 ぺらぺらと説明どころか謝罪までされ、……拍子抜けした。

 追及したかったけれど、イオとエフィナもいる手前、仕方ないのでこれ以上はやめておく。

「……処置してくれてありがとうございます。

 でも次は急にやらないでください。すごく怖かったです」

 不満を伝えるものの、またもやあっさりと謝罪されて、気が抜けた。

「異常はないですね。もう普通に生活していただいて大丈夫です」

 女医はそう言い残すと、さっさと退室してしまった。


 ……何なの、あの人?


 不信感を募らせながら出口を睨んでいると、エフィナが声をかけてくる。

「注射って……魔石じゃだめだったんですか?」

 魔石?と首を傾げると、イオが補足してくれる。

「一時的に軽い興奮を鎮める目的なら、通常は魔石を使います。

 薬は主に治療目的か、……よほど手が付けられない時だけです」


 へぇ、そうなのか。私、そんなに取り乱してたっけ?


 曖昧に相槌を打つ。イオが不審な様子で、私の顔をじっと見つめた。

 しかし彼は表情を変え、エフィナに向かってにっこり笑いかける。

「エフィナ。医者の許しも出ましたし、急いで朝食の用意をしないと。他の侍女にも伝えた方がいいでしょう?」

「あっ、本当ですね! すぐ行ってきます!」

 エフィナは慌ただしく部屋を出て行った。

 残された空間で、イオの視線が再び私に向けられる。


「……ナギノ様。昨日は確かに多少混乱されていましたが、『鎮静剤が必要なほど』とは思えませんでした。

 ……医者とどんなやり取りをしたんですか?」


 低い声で問いかけられ、思わず緊張する。


「え……と。普通に診察されて、何で騎士棟からこの部屋に戻って来たの?って訊かれたよ。

 でも、あんまり思い出せない部分があって、おかしいなーって。

 そしたら突然腕を掴まれて、急に注射を打たれたんだよ。めちゃめちゃ怖かった……」

 真面目に答えたつもりなのに、イオの瞳はなおも鋭さを増す。

「……深刻そうには見えません。本当にそれだけですか?」

「え? なにが?」


 するとイオは私へ近寄り、顔を覗き込んでくる。鋭い眼差しから目が逸らせない。


「『イリサグ』が誰か、分かりますか?」

「……誰?」

「護衛騎士の一人です。昨日あなたに危害を加えたはずです。

 ――だから医者は『ひどく混乱していた』と判断したのでは?」

「危害……? なんのこと?」


 イオは私の目の奥に何か見出そうとするかのように、真っすぐ見据えてくる。

 何か良くないことが起きた気がして、胸の奥に、得体の知れない冷たさが広がった。

「……本当に思い出せないんですね?」

 静かな問いに、私は小さく頷いた。


 数秒見つめたのち、イオはすっと身を引いた。

「そうですか。……今は混乱していませんか?」

 再び頷く。

「了承なく注射されたことを思い出しても、平気ですか?」


 確かに昨日は、焦燥感と不安でいっぱいだった。――けれど今は、()()()()()()()()()()()()()不思議と心が凪いでいる。まるで、夢の中の出来事のようだ。


 静かに頷くと、――イオは目を逸らし、眉間に皺を寄せて、そのまま押し黙った。

 何となく怒らせてしまったような気がして、慌てて「ご、ごめんなさい」と口にする。

「……なぜ謝るんですか? むしろ俺の方こそ、色々お尋ねして申し訳ありません」


 ……余計に怒らせてしまっただろうか。何と言うか、表情がちょっと怖い。



 やがてエフィナが戻り、彼女と短く言葉を交わした後、イオは部屋を後にした。



 *****



「――ガルメザル帝国の動きが活発化している」


 窓を叩く雨音が響く、薄暗い会議室。意識して声を落とし、ゴルジョが口を開いた。

「帝国は南方にも部隊を展開しているようだ。

  もし海路から我が国の貿易港を狙うなら、住民には早めに避難を促すべきだろう」

 低く告げられた言葉に、出席者たちは一斉に頷いた。

 その時、書類の束を持ち上げて手を挙げる者がいた。

「それはいいとして……この調整計画案を作成したのはどなたです? 誤字だらけですよ」

 気だるげにファレンが資料をめくる。ゴルジョは深いため息をつき、肩を落とした。

「……俺だ。悪かったな。字を書くのは性に合わん」

「おや、守衛将自らの作成でしたか。それは失礼」

 言葉とは裏腹に、全く悪びれる様子もない。そもそも彼女はゴルジョが作成したことを知っている。

 ゴルジョは軽く睨みつけ、話を切り替える。


「……それで。噂の件は、どう対処している?」

 すると別の者が手を挙げる。

「『再臨の神は魔法を使えず、偽者である』という噂が広まっております。対応はしていますが、拡散が速く……」

 報告を聞きながら、ファレンは手元のペンを器用に回した。

「実際、ナギノ様は魔法に苦戦しておられますから。噂を完全に封じるのは不可能です。多少は仕方のないことでしょう」

 頭を抱えるゴルジョを一瞥もせず、ファレンは手に持っていた資料にさらさらと書き込みをする。

「とはいえ、癒しは時おり発動していますよ。昨日も小規模ながら範囲的に成功したそうです」

 ファレンはぱらぱらと資料をめくり、所々に書き込みをする音が会議室に響く。

「いまだにその程度か……。もし間に合わなかったらどうする?」

 ゴルジョの問いに、一瞬場が凍りつく。沈黙を埋めるのは、ペンが走る音と紙をめくる音だけ。

「そのための調整計画案でしょう?」

 資料を整え、軽く叩いてファレンはゴルジョに差し出す。

「誤字の見直しくらいはしてください」

 そして小さく笑みを浮かべた。

「……努力しようとしているだけでも、彼女は十分可愛らしいと思いませんか?

『圧倒的な魔法』が完成する日まで、見守ってあげましょう」

 誤字を添削された資料を受け取り、ゴルジョは苛立ちを隠さず舌打ちした。

「……生ぬるい。そんなものを見せられたところで、敵味方の誰が止まる?」

 ファレンは鼻で短く笑い、わずかに口角を上げた。

「平和的な解決で構わないじゃないですか。私は応援しますよ。

 ……それで、ひとつ提案があるのですが」


 その時、雨足が強まり、雷鳴の気配が空を覆った。


 窓を叩きつける雨音は低く重く、会議室全体に響き渡った。



女医さん、さっさと出てってしまいました。疑念を深めるイオ。

……そして毎日更新を目指してたんですが、お盆で帰宅が間に合いませんでした……無念。

次くらいから色々と動くといいなと思ってます。

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