記憶の靄とお姫様抱っこは針先の向こうに
イオとトルユエは、面食らったような顔をしていた。
「さっきから2人とも、誰の話をしてるの? 『イリサグ』って……誰?」
問いかけても、2人は顔を見合わせるだけで何も返事はない。
わずかに沈黙した後、トルユエが「……それは、どういう意味ですか?」と重く、口を開いた。
「え? 意味もなにも……。さっきから何度も『イリサグ』って、誰の話ですか?
それに、怪我って? 私、別にどこも痛くないけど……」
思わず自分の身体を見下ろす。ぱらりと前に髪が垂れた。
「あれ? 今日、髪くくってない……?」
いつも適当にポニーテールにしているのに変だな――と思った瞬間、がしっと両肩を掴まれた。
「……ナギノ様!? ご冗談ですよね!?」
鬼気迫る表情で、イオは私から目を逸らさない。
「え……なに、が?」
尋常じゃない空気を感じる。でも必死に考えようとしても、妙に頭がぼんやりして、思考がうまく回らない。
見かねたように、トルユエがイオの腕を掴んだ。
「イオ、恐らくナギノ様は直後で混乱してる。すぐ部屋へ連れてって、医者に診せるぞ」
イオは唇を結んで深く頷くと、「失礼します」と言うなり、私を抱き上げた。
「え!? ちょっ、な……!?」
突然のお姫様抱っこで、大聖院の廊下では、人々が私たちを見るなり何事かと驚いた顔をして見ている。もう恥ずかしさで爆発してしまいそうだ。
「イオ! わ、私、普通に歩けるから! おろして!」
「少しのご辛抱ですから」
私の必死の訴えに彼は取りつく島もなく、足早に突き進む。
4階にある部屋へ向かう階段の途中、トルユエは「俺は先に医者を呼ぶ!」と3階へ駆けて行った。
周囲に人影はなく、ここまで私を抱え速足で昇ってきたイオの荒い息づかいと、汗が近くに感じられる。
「ほんとに大丈夫だから! 重いし早く……」
「平気です。訓練で慣れてます」
イオは私を抱きかかえ直すと、有無を言わさず再び階段を昇り始める。
「イオ……!」と懇願するように名前を呼ぶと、彼はぴたりと足を止めた。
息を整えながら、すぐ傍にある私の顔をじっと見つめ、わずかに目を細める。
「……お願いだから、じっとしてて。……ナギノ」
柔らかい声に、息が詰まる。
「なん、で……」
――何で急にそんな呼び方するの、と尋ねたいのに、言葉が声になる前に消える。
イオは視線を逸らさない。間近で見る彼のこげ茶色の瞳は、思っていたより深い色だった。
「以前に言ってましたよね。名前も呼び捨てで、普通に接してほしいって。
……あと少しで着くから、しっかり掴まって」
そういえば以前――イオが護衛騎士になってくれた日に、そんなお願いをしていたな。
一応了承してくれはしたものの、実行する様子がないから、てっきりもう無かったことになっていたのかと……。
……いや、でも今この距離で言うのは、ちょっと反則だって……!!
ただでさえ熱かった顔に更に熱が集まって、私は両手で覆い隠す。
でもすぐにイオの言葉を思い出し、仕方なくそろそろと彼の肩に掴まると、硬い胸当てへ隠すように顔をうずめた。
イオが私を見て、その口元が柔らかく緩んだことに、私は気付かなかった。
部屋に着くと、侍女たちに慌てて迎え入れ、私はずっと抱きかかえられたままベッドまで運ばれた。
そっと下ろしてもらう時、なぜかイオの指先がわずかに私の頬に触れて――そっと離れると、「失礼します」と小さく囁く。
そしてそのまま踵を返すと、イオは寝室から出ていった。
入れ違いに女医と侍女たちが入ってきても、私は離れた熱を惜しむように出口を見つめていた。
――入院してるわけでもないのに、ベッドで医者に診察されるというのは、何となく不思議な気分だ。
女医の問診に答えていると、アラフィフくらいの女医は、眉をひそめて私を見つめた。
「……ナギノ様? 少し、眠いですか? ぼんやりとしているように見えますが……」
……確かに頭に靄がかったように、ぼんやりする。
「別に眠いわけではないと思うんですけど……少し頭がぼーっとします」
そう答えると、女医は私の目を数秒間じっと見つめると、静かに口を開いた。
「……非常に個人的な、込み入ったご質問をします。
どうか他の方々は少しの間だけ、部屋の外へ出ていただけるようお伝えしてもらえませんか?」
え、どんな話……!?と内心びくびくしながら、とりあえず言われたとおりに侍女たちへお願いする。2人きりになることを侍女たちは心配していたが、私が「大丈夫だから」と念押しすると、全員出て行ってもらった。
人払いされた寝室で、女医と私だけが残る。
女医が「いくつかお尋ねします」と居住まいを正し、思わず背筋が伸びた。
「どうしてあなたはこの部屋まで来たのですか?」
……質問の意味がよく分からなくて、「ど、どうしてとは?」と聞き返した。
「本来は何か……例えば訓練だとか、目的があって騎士棟へ行ったのでしょう?
それなのに、なぜ今この部屋に戻ってきているのでしょう?」
「あ、ああ、そういう意味ですか。そうですね、魔法の練習をしようと思って訓練場へ向かいました。それで、」
……どうしたんだっけ?
さっきまで覚えていた気がするのに、口に出そうとすると、言葉になる前に泡になって消えた。
これ以上消えないように頭を押さえると、今朝からの行動を一つずつ思い返していく。
「朝はトルユエさんが来て……今日の講義は午後で……護衛騎士はもっと雑に扱うもんだって言われて……」
渡り廊下を歩いて――正面から、誰か来た?
「誰か来ました。何か話して……トルユエさんが壁にぶつかった? エフィナも……」
ぶつぶつと呟く私の話を、女医は相槌も打たずにじっと聞いていた。
手に小さい何かを握りこんでいるようだったが、今はそんなことより記憶の方が気になる。
「そしたら……そうだ、イオが来たんだ。「大丈夫」って、私の手を胸に押し当てたんです」
ごほん、と女医が咳払いをした。
でも別に何か話すわけでもなさそうなので、私は構わず話し続ける。
「それから、スーウェンさんが来ました。……あれ、トルユエさん、血が出てた? エフィナも怪我? それでヘアゴムを外した? ……んんん?」
……自分で話しててよく分からなくなってきた。
「あ、そうだ! 頭が痛くて、触ったら髪の毛が抜けました! めちゃめちゃホラーだったんですよ!
それでスーウェンさんが『何の騒ぎですか?』って。……あれ、おかしいな」
……私は、何かを「なかったこと」にしようとしたんだ。
でも、それは何だったのだろう。
思い出そうとしても、指の間から砂がこぼれるみたいに消える。
そして誰かを見て、治りますように――そう思ったら魔法が発動して、怪我が治った。
「ああそうか、それでもう頭痛くないんだ。
……『もう』って何? 私、ずっと頭、痛かった?」
無意識にこぼした自分の言葉に、引っ掛かった。
胸がざわめき、脈が速くなっていくのを感じる。すると、ぎゅっと女医に手を掴まれた。
「しばらく、目を閉じてください」と女医は私の瞼の上に手を置く。驚きつつも、とりあえず指示された通り目を閉じた。
そっと女医の手が瞼の上から離れ、がさがさと音が聞こえ、腕を捲られる。
「少しご辛抱ください」
女医は短くそう言うなり、――針を刺した。
針が刺さる鋭い痛みに「痛!」と言って腕を引っこ抜こうとするが、女医の腕力が意外と強い。見ると、注射器が刺さっていた。
血の気が引いて逃げようとしても、冷たい指が腕を押さえつけ、まるで鉄の枷のように動かない。
「え、なに!? 一体何の……」
「大丈夫。とてもよく効くので、すぐ眠れますよ」
何かは教えてくれない女医に、底知れない恐怖を感じ、寝室の外にいる侍女を呼ぼうとした――が、さっきまでとは比べ物にならないほど、頭の中の靄が一気に濃くなる。
抗いがたい眠気に、視界が閉ざされていった。
予告詐欺というか、ただの問診になってしまった……。ちょっとサスペンス?
次は護衛騎士たち。




