神様の本と棺と、訓練場と
「いえ、俺はただ、普通に拾っただけで……」
イオは私が何度も取りこぼしていたので、ただの親切心で「どうぞ」と拾ったらしい。
「……あたしも触ってみていいですか?」
エフィナがそう言って本に触れてみる。だが、すぐに苦しげな表情になってしまい、イオが彼女を支えた。
「すみません……あたしはもう平気です。
でも、どうしてイオ様は平気なのですか?」
「……分かりません。ナギノ様、もう一度本をお借りしてもよろしいですか?」
私が本を差し出すと、少し躊躇いながらイオが手を伸ばし、そのまま本を受け取る。
「し、しんどくない? 大丈夫?」
「……いえ、何ともありません」
閉じた状態の本を色々な角度から観察する。
「中身も見れるんですか?」
エフィナが尋ねると、イオは長い指先でそっと表紙をめくった。1ページ目の『他の人には絶対に見せてはならない』の文章があって、エフィナは内容を見ないように慌てて目を手で覆う。
ぱらり、と2ページ目を開く。――イオは眉間に皺を寄せているものの、別に苦しそうな様子はない。
「読める?」
私の質問を聞きながら、イオはぱらぱらとページをめくっていく。
「いえ、書かれてある文字は読めません。でも気分は問題ないです」
めくり終えて、ぱたんと本を閉じる。もしかしてイオも読めるんじゃないかと一瞬期待した私は、「そっか……」と小さく息を吐いて、本を受け取った。
「もう閉じました? ……その本、どうします?」
エフィナは覆っていた手をそろそろと外して問いかける。彼女に見えないように、私はもう一度本の内容を確認する。
「うーん。魔法の使い方でも書いてあったら、ぜひ読みたいと思ったんだけど……それらしい内容が無いっぽいんだよね」
どのページも箇条書きで、内容に一貫性もなく、「コバのこと」とか「リンレのこと」とか……何というか、備忘録という感じだ。
「……うっかり誰かが触ったり見ちゃったら危ないし、やっぱり元に戻しておこうか?」
日本語の本という意味では気になるけれど、他の人に害が及ぶかもしれないし、何だか呪いの本っぽくて正直ちょっと不気味だ。
「しかし護身用という意味では有効だと思いますよ。もし危険を感じたら、その本を触るか見せるかすれば、相手は怯むわけですから」
それは確かに一利ありますね、とエフィナが感心したように頷く。
少し悩んだけれど、結局その本は護身用にするということで、私が持つことにした。
ぬるくなったタオルはエフィナに渡し、私は本を両手でしっかり掴んで「お借りします」とサホノに声をかけると、私たちも部屋を後にする。扉を出る時、ちらりと部屋を振り返った。
ーー天窓から柔らかな光が降り注ぎ、サホノの入る棺だけが静かに佇んでいる。
扉をぱたりと閉めるとーー部屋の中は、静寂に包まれた。
「そういえば、さっき誰が来てたの?」
回廊を歩きながら、先ほど扉をノックされていたことを思い出した私は、エフィナに尋ねる。
「ああ、神官ですよ。ファレン様の指示で来た方で、ナギノ様にこちらのご案内をするかどうか尋ねてこられました」
そういえばファレンが、そんなような内容をエフィナに言っていた気がする。
「魔法の習得に向けて、ナギノ様が練習できる場所が必要でしょう、って。
”練習場所だけでなく、主要施設などもある程度、位置関係を把握しておいた方が良いと思います”、だそうです」
確かに、ここの建物はみんな内装が似てるし、とにかく大きくて広い。
まあエフィナ達がいるから迷子になる心配はないと思うけど、どこが何の建物だとかは分かっておいた方がいいと思う。
さっきまで泣きじゃくって最悪の気分だったけれど、鼻水も涙もすっかり止まったし、泣いて少しすっきりしたみたいだ。
……泣いてても、早く帰れないもんね。
これからここにいつまで滞在するか分からないし、泣いてばかりだと家族や伊織に知られたら、笑われちゃうかもしれない。
……いつまでも泣いてばかりじゃいけない。私、頑張らなきゃ。
「さっきは間が悪かったので、とりあえず神官には帰ってもらいました。
ナギノ様が希望されるようでしたら、このまま神官のいる所まで向かいます。いかがなさいますか?」
前を歩くエフィナが足を止め、尋ねてくる。
「うん。色々見てみたいし、神官さんの所へお願いするよ」
「かしこまりました」
ではこちらです、とエフィナが進行方向を変える。その後ろを遅れないように付いて歩いた。
「――あちらに黒い旗のついた建物が見えるでしょう? あれが統制院です。
その隣の青い旗の建物が、騎士団の騎士棟です。そして大聖院は白い旗なのです」
白いローブを着た男性神官に案内され、私たちは中央庭園と呼ばれる3つの施設の中央に立っていた。
庭園はきっちり刈り込まれた緑の葉が太陽の光を受けて煌めき、大きな噴水や小川も流れている。緑溢れる中、あちこちに目が醒めるような鮮やかな赤色の花が咲いていた。
「綺麗でしょう。サホノ様もよくいらっしゃったと聞いています。
この時期ですと東の中庭も花が見頃ですから、ぜひ見てみてください」
一言に中庭と言っても何ヵ所もあるらしい。一人で歩いたら絶対に迷子になるな、なんて考えていると、エフィナが小声で近付いてきた。
「東の中庭では花だけじゃなくて、香草もたくさん育てているんですよ。あたしも大好きな所です」
「香草ってハーブのことだよね。さっきのタオルもそうだったけど、エフィナもいい香りがするよね」
「うふふ、分かります? 最近流行ってるんですよ」
エフィナは垂れた三つ編みの髪を触る。髪に香水のようなものを着けているのか、時々風が吹くと、エフィナから甘いラベンダーのような香りがした。
「では先に、ナギノ様の練習場所となる所へご案内いたします」
男性神官に先導され騎士棟の前を通り、いくつか回廊を抜けて階段を降りると、訓練場のような場所に出た。
少し大きいフットサルコートくらいの広さがあり、左右は白い石の壁が立っていて、正面は低い崖のような切り立つ岩肌が見える。岩肌に沿って見上げると、木々が生えている向こうに大聖院の建物が見えた。
「昔はよく使われていましたが、今はあまり使用されていないそうです。しばらくナギノ様の練習場所として押さえてありますので、お好きな時にお使いください」
「ここは……騎士団の訓練場ですか?」
「はい。騎士団から許可も下りておりますので、お気になさらずご利用ください」
こ、こんな広い場所いらない気が……いやいや、用意してもらったんだ。感謝しなきゃ。
お礼を言おうとすると、「ナギノ様!」と背後から威勢たっぷりの声が響く。振り返ると、ボディビルダーみたいに大きな身体の人が何人も跪いていた。がしゃりと音をたてる銀色の鎧が窮屈そうだ。
「ーーわが騎士団へお越し下さり、心より歓迎いたします!!
騎士団の団長として守星将を務めます、ゴルジョと申します! お会いできたことを大変嬉しく思います!」
集団の真ん中にいたのは、さっきも会った騎士団の団長さんだ。そう言えばそんな名前だったな。守星将ってなんだろ?
あくまでイメージだけど、外国人ボディビルダーの優勝者!みたいな人だ。肌は日焼けして真っ黒で歯は白いし、剣より拳で戦った方が強そう。というか、身体だけでなく声も大きいのね……。
「ど、どうも……。わざわざこの場所を用意していただいて、ありがとうございます」
「いいえ! 個人訓練ぐらいでしか使用していないので、問題ありません! もし何か不足や要望があれば、何なりと仰ってください!」
語尾に全部「!」が付いて聞こえる。応接間や儀式ではあんな空気みたいに静かだったのに……。
私は目の前に居るのに、距離感を間違えてやしないだろうか。
「……ありがとうございます。もし何かあれば言いますので、ご迷惑おかけしますがよろしくお願いします。ーーさ、次へ案内をお願いできますか?」
私は男性神官に案内を促し、名残惜しそうなゴルジョに気付かないふりをして、その場から逃げるように退散した。
「ナギノ様。……何かありましたか?」
階段を昇りながら、イオが小声で尋ねてくる。よく気が付く人だと思う。
「……私、大きい音や声がちょっと苦手なの。剣道の先生思い出しちゃって、怖いんだよね」
「あの、“ケンドウ“ってなんですか?」
階段を昇り終えると、話が聞こえていたらしいエフィナも会話に加わってきた。
ーー小学3年生の時、伊織が習い始めた剣道教室へ「伊織がやるなら私もやる!」と言って、心配する伊織を意にも介さず、私も入会した。
でも……先生の声が、とにかく大きかった。普段だけでなく、稽古や注意指導の時なんかもう、雷が落ちて爆発したかと思うくらいに大きかった。
結局1年も経たずに辞めてしまったけれど、それ以来、私は大きな声や音が苦手になってしまった。もはやちょっとしたトラウマだ。
「それは大変でしたね……。でもナギノ様は剣術を習ってたんですね、すごいです!」
「いやいや。伊織はずっと続けて全国大会行っちゃったけど、私はせいぜい耳栓つけて、試合の応援するのが精一杯のレベルだよ」
エフィナの言葉に顔をひきつらせて笑っていると、イオが眉間に皺を寄せて、なぜか難しい顔になっていた。
「……その、“伊織“様は、その後見つかりましたか?」
イオが尋ねてきて、私は首を横に振った。
「ううん。あっちの世界の人だから、こっちの世界にはいないと思う。昨日はごめんね、イオと間違えちゃって」
「……そうでしたか。俺は別に構いません」
そう言って、イオは目を反らした。
どうしたの、と尋ねようとしたけれど「イオ!!」と前方から声がかかる。
今度は誰?と思って前を向くとーー昨日見たベリーショートの女性騎士が、立ち塞がるように仁王立ちしていた。
大きな声や音が苦手なナギノ。怒声とか爆音って怖いよね。
次は騎士のあれこれです。