09. いつまでもそばに
離縁してほしい、と頼んだら、おかしな反応が返ってきた。
常に冷静で所作の美しいルドヴィクが、ガチャンとカップを取り落とし、アストンからも奇声が上がった。
イリスが目を丸くしていると、
「そ、それはまた、どうして……?竜に変身したルドヴィク様に何か思うところが……たとえば、爬虫類が苦手、だったりとか……?」
青ざめて一言も発しなくなったルドヴィクに代わり、副官がおそるおそる尋ねた。
「いえ、ルドヴィク様が変身した竜の姿は、とっても格好いいと思いました!本当ですよ!」
めちゃくちゃファンタジーなビジュアルで、どちらかといえば興奮した、とイリスは力説した。
それを聞いたルドヴィクの顔が、パアッと明るくなる。しかし。
「そうではなく……ルドヴィク様は王に即位されるかもしれないんですよね。そうなると、押しつけられて結婚した形だけの妻なんて、邪魔なだけじゃないですか?」
イリスの言葉を聞いて、アストンは「あー」と天を仰ぎ、ルドヴィクの顔色がまた悪くなった。
だが、イリスは彼らの様子には気づかず、思ったままを素直に告げた。
「ルドヴィク様に協力しておられる宰相閣下には、パルミラ様というご令嬢がおられます。わたしも面識がありますが、とてもお綺麗で、優しくて優秀な方なんです」
若干ツンデレですけどね、という心の声は口に出さないでおく。見方によっては、それもパルミラの魅力と言えるだろうから。
「僭越ながら申し上げますと、ルドヴィク様が王になられた暁には、パルミラ様を王妃にお迎えなさったらいかがかと。宰相閣下はきっと、全力で後ろ楯になってくださるに違いありません!」
イリスはぐっと拳を握ってパルミラを推した。
……ルドヴィクには優れた王の資質がある、とイリスは思う。
王国の要、辺境伯として領地をきちんと治め、魔獣や魔族を退け、ついでに竜にだって変身できるのだ。
彼は間違いなく、民を思うよき王となるだろう。
……その側に必要なのは、自分ではない。
最初と違い、今のイリスは、ルドヴィクにかなりの好感を持っていた。
少しわかりにくくて若干口うるさいが、彼は優しくてよい人だ。男前なだけでなく、隠れた魅力がたくさんある。
だから彼には王として成功し、幸せになってもらいたいな、とイリスは本心から願っていた。
「王として磐石な体制を整えるなら、平民のわたしがさっさと身を引いて、有力者の縁者かつ有能な妃を迎えられるよう、妻の座を空けておく。それが一番ですよね。
なので、わたしとは早めに離縁なさった方がよいだろう、という結論に至りました」
「……奥方は、実に無欲ですねえ」
感心したような、呆れたような顔でアストンが苦笑する。彼は、「で、どうなさるんですか。我らがルドヴィク様は」と主に水を向けた。
「…………アストン、席を外してくれ。あと、この部屋には誰も入れるな」
「承知いたしました」
さっさと出ていく副官を見送ったルドヴィクは、ふと立ち上がった。
大男だけに威圧感がある。
が、その金色の瞳は物憂げだった。イリスはつい、引き込まれそうになる。
彼はイリスの目の前に立つと、跪いて、自然な動作で彼女の手を握った。
「イリス。俺は、お前を愛してる」
「…………………」
思いもよらない告白に、今度はイリスが固まる番だった。
目を見開き、思考も体も硬直してしまった彼女に、「……聞こえているか?」と低い声が問う。
辛うじて小さく頷き返すと、ルドヴィクはため息をついた。
「はじめの頃、俺は王都から聞こえてくるお前の噂を真に受けていた。『大きな屋敷で意外だ』と言われて面白くなかったし、散財されては敵わないと、咄嗟に『愛することはない』と釘を刺してしまった。だが……」
そんなこともありましたね、とイリスが感慨深く回想していると、手を強く握られて、現実に引き戻された。
「『喜んで!』と答えたイリスは、思ってたのとまるで違っていて」
とても愛らしかった、と聞こえるかどうかの小さな声で、辺境伯は囁く。
「悪評が嘘だとわかった後も、自分から白い結婚を言い出した手前、やっぱりやめた、とは言い出し辛かったんだ」
「いえ、それは、おあいこというか……」
イリスの方も、カロン辺境伯領の悪い噂を信じていた。だから、彼を責める資格なんかない。
それにあの時と今とでは状況がまったく違う。イリスを押しつけた王家は消滅し、彼が王になるかもしれないのだ。
ルシアン王子の婚約者だった時も思っていたことだが、イリスは自分に王妃が勤まるとは思えなかった。それに、何の後ろ楯もない自分を妻にしておくメリットがない。
「で、でも、わたしは平民ですし……」
「そんなことはどうでもいい」
「でも、わたしは……」
「お前が結婚自体に前向きではないことも知っている。それでも俺は、離縁したくない。側にいてほしい」
真剣な金色の瞳に、自分が映っている。
イリスの頬がじわじわ赤くなる。まるで彼の熱が移ったかのようだ。
数十秒が経ち、まだ返事できずにいると、ルドヴィクの瞳に不穏な光が宿った。「離縁するというなら、いっそ……」という呟きを聞いたイリスは、反射的に「わ、わかりました……!」と頷いた。
「では、もう二度と、離縁するなんて言わないでくれ」
「は、はい……」
ダメ押しされて、イリスはコクコクと首を縦に振った。
…………「いっそ」の後、彼が何を言うつもりだったかは、怖くて聞けなかった。
◇◇◇
それから一年が経ち、ルドヴィクは正式に王となった。
戴冠した彼はどこから見ても王者の風格が漂っていて、隣に立つ王妃がこんなに貧相でいいのかとイリスは思ったが、まあ本人がいいと言うんだからいいんだろう。
ちなみに、「いっそ」の後はまだ聞けてないが──というか一生聞ける気がしない──、竜になれたのはなぜか、という疑問は解消した。
ルドヴィク曰く、「王子と王が死亡し、王家が実質消滅したことで、血脈を縛っていた約定が効力を失ったのだろう」という話だった。
加えて、つがい──イリスのことである──の危機により竜の本能が目覚めた、らしい。
それって、イリスが彼から引き離されそうになったり、危害を加えられたら、また竜になって暴れるってことかな……?と思ってしまったが、実際はどうなんだろう。
ヤンデレ暴れ竜とかこわい……
多分、深く考えてはいけない。
一応イリスの方も、聖女として力を尽くしてきたことが評価されており、パルミラが公然と後押ししたこともあって、王妃になった今も大きな波風は立っていない。
だが、王妃としてのイリスが評価されるのは、これからだ。
寝室のベランダで夜風に当たりながら、よし、と気合いを入れていると、
「……働きすぎてまた倒れるなよ」
「ひゃっ」
執務を終えたルドヴィクが、いつの間にか後ろに立っていて、ぎゅっと抱き締められた。
「あの、わたしの思ってることがどうしてわかったんですか。約定が消えて、読心術まで使えるようになったとか……?」
「それはない。だが、お前が考えることは大体わかる」
「ちょ、近いですって……!」
「名実ともに夫婦だからな」
抱き締めながら、頭に頬擦りしたり、頬に唇を滑らせるルドヴィクに、心臓が爆発しそうだ。
真っ赤になったイリスを面白そうに見下ろして、ルドヴィクは「かわいいな」と目を細めて笑った。
その笑顔にうっかり見とれてしまったせいで、夫婦の寝室に手を引かれても、イリスは全然抵抗できなかった。
完結しましたー!
「面白かったよー」と思われましたら、ブクマ・いいね・☆・感想などで応援していただけると非常に励みになります!
お読みいただき、ありがとうございました!




