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守りたい

 どうしてこうなったのか。

 目の前には鷹人と鷹人の父さん、隣には朝見が座っている。ダイニングテーブルに置かれた四つのグラスはどれも同じ色を見せているが、それを囲む四人の表情はまったく違っていた。正面の鷹人は明らかに緊張していたし、俺はどうしてここに引き留められたのか、どうして朝見がいるのかわからず戸惑っている。隣の朝見はなんの感情も見せずに向かいに座る鷹人の父さん――小林先生をじっと見つめている。

 ――え、なんで? と朝見に問いかける暇もなく「ああ、ちょうどよかった。遼平君も座りなさい」と促され、わけもわからずこの場に残ることになった。

 カラン、とグラスの中の氷が溶けても、エアコンの風が向きを変えても、ピンと張りつめた静けさは変わらない。

 この状況を作った人物である鷹人の父さんが話し始めるのをじっと待つことしかできない。

 鷹人とは小学校からの付き合いとはいえ、普段仕事に出ている鷹人の父さんに会うことは滅多になかった。さっきまで写真を見ていたからすぐに認識できただけで、街中で会っても気づかなかっただろうな、と思う。それでも強く記憶に残っている場面もある。

 鷹人とふたりで覗きに行った高校のグラウンド。今は有名な強豪校で監督をしている鷹人の父さんだけど、俺たちが小学生だったときは歩いて行ける距離にある公立高校の先生をしていた。

 敷地内に勝手に入ることはさすがにできなくて、俺たちはグラウンドを囲むフェンスに張り付いていた。道路沿いのフェンス越しにグラウンドで練習する陸上部員たち――とくに走高跳をしている選手たちを食い入るように見つめた。するとうっかり鷹人の父さんと目が合ってしまったのだ。目が合ってしまっただけでなく鷹人の父さんはまっすぐこちらへと歩いてきた。覗いているだけでとくに悪いことをしているわけではなかったのだが、部活中の厳しい姿が目に入っていたので怒られるのではないかとふたり揃って体を固くした。

 けれど足音が止まって最初に聞こえたのは優しい声だった。

「中で見るか?」

 言われた言葉をすぐには理解できなくて戸惑う俺の隣で、鷹人はすぐに返事をした。

「うん! 中で見たい!」

「あ、俺も! 俺も中で見たいです!」

 その瞬間――それまで少し怖く感じていた表情が柔らかくなったことは今でもよく覚えている。

 斜め向かいにあるのはあの時の笑顔とは違う。眼鏡の奥の目尻を下げ口角を小さく上げてはいるが――明らかに作っている表情だった。

「私が遼平くんに聞きたいのはたったひとつだけだよ」

「え」

 引き留められたとはいえ、まさか自分に話を振られるとは思わず、肩とともに声が小さく跳ねた。

「君は、あの『朝見凛』がコーチをするほどの選手になれるかい?」

 穏やかな声。薄く弧を描く口。細められた目元も変わらない。それでもレンズを通過する視線の強さに、問いかけられた言葉に、静かな圧を感じる。

 ――あの『朝見凛』がコーチをするほどの選手。

 問われた意味をうまく掴みきれず、声が喉に詰まる。なれるか、と問われて「なれる」とも「なれない」ともすぐには言えなかった。それでも何か返すべきだと口を開いた瞬間に言葉は重ねられた。

「その覚悟がないなら、今のうちに離れなさい」

「え?」

「これはふたりのための――いや、陸上界全体のための提案だよ」

 突然大きくなった話にますます頭がついていかない。ふたりのため? 陸上界全体? どうしてそれが俺と朝見が離れることに繋がるのか。戸惑いを隠しきれずに隣を振り返れば、鷹人の父さんの言葉も朝見へと方向を変える。

「朝見だってわかっているだろう? このままあそこにいてもコーチとしてのキャリアにはならない。もっと実力のある選手をみるべきだ。お前を欲しいという学校も企業もいくらでもいる。もっとその才能を活かせる場所にいくべきだろう」

 ――コーチとしてのキャリア。実力のある選手。才能を活かせる場所。

 放たれた言葉にようやく理解が追いつく。

 視界の中の朝見は表情を変えることなくただ静かに座っていた。透き通るほどの白い肌。すっと伸びた鼻筋。まっすぐ前を見据える強い瞳。見慣れた横顔にいつもの柔らかさはない。でも、ここにいるのは朝見だ。突然グラウンドに現れた、同じ食卓に並んで座っていた、陸上部のコーチでもある朝見だ。ここにいるのは――俺の隣にいるのは――あの『朝見凛』だった。

「小林先生。それは以前にもお伝えしたはずです。僕はコーチをするために戻ってきたわけではないと」

 視線を逸らすことなく、落ち着いた声で返した朝見に、吐き出されたのは小さなため息だった。保たれていた笑顔が静かに消えていく。

「遼平くんのためと言ったね。それなら、なおさら離れた方がいいんじゃないのか?」

「それは……」

 聞こえたのはわずかに強張った声。朝見がこんなふうに言葉を詰まらせるのを見るのは初めてだった。

 どんなときでも余裕があって、自信があって。相手の言葉を丁寧に受け止め返してくれる。たまに強引なときもあるけれど、それも決して追い詰めるような言い方はしない。柔らかな風となって触れてくれる。だけど今、隣にいる朝見からは風を感じられない。朝見自身が飲み込み、閉じ込めてしまっている。

「私はふたりの恋愛事情にまで首を突っ込む気はないよ。だけど、陸上を続けるなら、遼平君が走高跳を続けるなら、離れた方がいいと言っているだけだ」

「どうして走高跳を続けるなら、離れた方がいいんですか?」

 頭で考えるよりも先に言葉は落ちていた。

 朝見がほかの場所に行った方がいい、というのはなんとなくわかる。うちの部は最近になって変わったとはいえ、今もまだ弱小であることに変わりはない。全国で戦えるだけのレベルには明らかに達していない。そんな場所ではなく、朝見にはもっと優秀な選手を、というのもわかる。それが陸上界全体の底上げになるのだろうということも。だけど……それがどうして「俺が走高跳を続けること」に関係するのか。「俺のため」になるのか。

 向けられた視線の奥、薄いレンズ越しに見える瞳は鷹人と同じ黒色をしていた。

「――良くも悪くも、君が今いる環境は君を守ってくれているのだろうね」

 ため息とともに落とされた言葉。続きを遮るように鷹人と朝見の声が重なる。

「父さん」

「小林先生」

 それでも俺を見据えたまま言葉は続けられた。

「朝見にコーチをしてほしい選手はいっぱいいる。それこそ全国レベルの選手になればなるほどその思いは強い。君はまだその場所にいない。だからその思いに気づかずにいられる。自分へと向けられている嫉妬や羨望のまなざしに未だに気づいてはいないのだろう?」

 嫉妬や羨望。視界の端に映りこむリビングの一角。栄光を手に入れた証も、届かなかった記録も目に見える形で飾られている。写真の中には本気で同じ競技に取り組む選手たちの顔が並んでいる。

 ――平井は走高跳だからさ、もっと朝見コーチに教わりたいんじゃないかなって。

 そう問いかけたのは自分だった。平井は「いいの、いいの」と笑っていたけど。それは平井だからだ。ほかのひとは違うかもしれない。むしろ違って当たり前だ。中途半端な俺が許されていたのは仲間だったから。朝見を理由に信頼を向けてくれるようなやつらばかりだったから。たまたま、本当にたまたま周りに恵まれたにすぎない。そんな当たり前のことに今さら気づかされる。

「……」

 自分が手にしているものの大きさ。狭すぎる世界しか見えていなかった自分。気づかせないよう、触れさせないよう守られてきた自分。近くにいすぎて、いつの間にかそれが当たり前になっていて、気づけなかった。気づこうとしていなかった。

「今はまだそこまでではないだろうが、いずれ大きくなるのは目に見えている。朝見でも守ることはできないかもしれない。君に向けられるのは決して優しい言葉ばかりじゃないよ」

 だから、ふたりのため――か。俺が朝見をコーチとして独占する。完全に独占していたわけではないけれど特別扱いをされていたのは確かだった。うちの陸上部のみんなは優しいからそれを当たり前に受け入れてくれた。同じ種目の平井でさえ文句を言うどころか恩恵をありがたいと言っている。学校だって町だってみんな感謝を示すことはあっても悪く言ってくることはなかった。良くも悪くも今の狭い環境が俺を守っていた。

 そうは思わない人たちがいるのも当たり前なのに。

 朝見は、あの『朝見凛』なのだ。陸上界のプリンス。伝説の存在。朝見を求める人は、朝見を欲する人は数えきれないほどいる。実力のある選手なら、いや、選手でなくても思うはずだ。

 ――どうして『朝見凛』はこんな選手のコーチをしているのだろう、と。

「ふたりが恋愛関係にあるのなら、なおさら問題はないのでは? 恋人だろうと婚約者だろうとその関係がなくなるわけではないのだから。陸上とは切り離して考えることもできるだろう?」

 朝見のキャリアのため。朝見を求める選手のため。これだけなら朝見はいつものようにさらりとかわしていただろう。余裕の笑みで返していたに違いない。だけど。

 ――俺のため。

 その一点が朝見から言葉を奪っていた。

 ――コーチをするために戻ってきたわけではない。

 朝見は確かにそう言った。キャリアも優秀な選手も関係ない。そこに望むものはないのだとはっきりと言葉にしていた。俺が走高跳を続けるなら支えたいと、応援したいのだと朝見は思ってくれているのだろう。だけどそのこと自体が周りからの反感を買い、俺を傷つけることになるかもしれなくて。

 朝見が『朝見凛』である限り、存在する問題。

 もし俺と朝見が選手とコーチの関係をやめたとしても、それは本当の意味での別れではない。朝見がコーチでなくなるというだけ。陸上部に来なくなるというだけ。それだけのことだ。

 陸上部の仲間は残念がるだろうけど、もともと朝見の存在を奇跡のように感じていたのだから、短い間でもみてもらえてよかった、と言うだろう。もらったものは確かにこの手に残っていると感謝の気持ちを示すだろう。学校も町もずっと朝見がいることを期待してはいなかったはずだ。突然やってきた幸運はいつか去ってしまうのだとわかっていたはずだ。

 ――何もわかっていなかったのは俺だけだ。

 いつも隣で当たり前に笑ってくれなくても。いつでもそばで名前を呼んでくれなくても。自覚した想いを告げたなら、思い出した約束を話したなら、朝見はきっと受け入れてくれる。ふたりの関係は前に進む。それだけで十分なのかもしれない。十分だと思うべきなのだろう。

 離れた方がいい理由を挙げようと思えばいくらでも挙げられる。そのどれもが客観的な正しさを持っている。憧れ続けた背中も、信頼していた手も、自分だけのものではない。それ以外を与えてもらえるなら満足しなくてはいけない。朝見は『朝見凛』なのだから。誰もが憧れる、誰もが焦がれてやまない、誰もが欲する、そういう存在なのだから。

 ――手を離すべきなのだろう。

 朝見のためにも、自分のためにも。

 朝見が『朝見凛』でいることを変えることはできないのだから。

「あの」

 お腹にぐっと力を入れて震えないように声を絞り出す。隣から視線を向けられたのがわかったが、今はレンズの奥にある瞳から視線を逸らさないことだけを考えた。

「俺――」

 ――朝見とは離れます。

 そう続けようと口を開いたのに。言葉が声に変わる前に浮かんだのは、選手としての朝見で。次に見えたのはコーチとしての朝見で。――隣でご飯を食べる、笑って名前を呼ぶだけの、それだけの朝見が手に入るなら、と思っていたはずなのに。

「っ……」

 吸い込んだ息は次の瞬間、別の言葉を伴って吐き出された。

「――なります」

 三人の視線が一瞬にして強められる。

 誰も予想していない、期待していない言葉だったからだろう。それでも俺は言葉を重ねることをやめなかった。

「なればいいんですよね?」

 自分で放った言葉が自分自身へと返ってくる。

 ――それだけでいい、なんて俺は思えない。

 伝説の選手である、陸上界のプリンスである『朝見凛』も。真剣な顔で向き合ってくれる、陸上部のコーチである朝見も。そばで名前を呼んでくれる、そっと抱きしめてくれる朝見も。そのすべてがあって、その全部があってこその朝見なのだから。

 どんな朝見も朝見には違いなくて。だからこそ俺はその全部が欲しい。

 欲張りだと言われようと、ずるい奴だと指をさされようと、朝見の全部を知りたいし、朝見の全部が欲しかった。切り離せるものではない。どれも『朝見凛』で、どれも朝見に違いないのだから。

「あの『朝見凛』がコーチをするほどの選手――に、俺がなればいいんですよね?」

「遼平……」

 隣から漏れた声は小さな揺れを含んだまま届いた。視線を斜め前に固定したまま、膝の上で握っていた手をそっと動かし、俺と同じように固められていた拳へと重ねる。

 触れるだけでもうわかる。見えなくても、声をかけなくても。何度と繋げたこの温かさを体が覚えている。

 ゆっくりと握りを解かれた手は自分よりも大きい。合わせればその大きさを実感する。まだ自分では包み込みきれないのだと。それでも……こうやって重ねることはできるから。

 だから、ここに――この手の届く場所にいてほしい。

 ――離れた方がいい。

 どうしてこんなことを言われるのか。どうしてこんなことで悩まなくてはならないのか。朝見が『朝見凛』だから、じゃない。すべては俺に実力がないからだ。

 周りを納得させられるだけのものが俺にないから。俺が弱いから朝見は俺を守ろうとするのだろう。俺を守るために望まないところに行こうとするのだろう。

 全部、全部、俺のためで、俺のせいだ。

 ただ守られるだけの存在でなんかいたくない。

 俺が朝見を守るなんてまだ言えないけど。それでもせめて自分のことは自分で守れるくらいに、朝見が俺のために何かを犠牲にすることがないように、俺はなりたい。

 触れていただけの手をぎゅっと握り締め、吸い込んだ空気をまっすぐ吐き出す。

「なります。なってみせます。だから――俺は朝見とは離れません」

 俺を映していた瞳がそっと瞼の奥に消える。ただ一度の瞬きが永遠にも感じられるほどの長さをかけてなされる。再び現れた黒い水面はレンズを貫くほどの視線をするりと隠した。一瞬にして柔らかく目尻を下げると、鷹人の父さんは言った。

「三日後の競技会に君も参加しなさい」

「え」

「父さん、それは」

 鷹人の声が被せられたが、鷹人の父さんは気にすることなく俺だけに向けて言葉を繋げた。

「ちょうど鷹人の枠がひとつ空いているから、そこに私から君を推薦しておくよ。現状を自分で把握するためにもそれがいいだろう。言葉だけでは納得できない、と言うのなら。君は君自身で自分の立場と実力を知りなさい」

 ――実際に触れることで納得しなさい、という意味だろう。俺を守るために朝見が隠してきたもの。見せないようにとしてくれたもの。そこに足を踏み出すことを朝見は望まないかもしれない。だけど。

「わかりました。参加します」

 何かを訴えるように握り返された手に、自分の体温が流れていくのと同じで。ゆっくりとでも伝わればいい。この想いはそんなことでは折れないのだと。誰よりも俺のことを信じてくれた朝見だから。だから、信じてほしい。

「では三日後を楽しみにしているよ。それまで朝見はちょっと借りておくことになるけどね」

「え」

 動かされた視線につられて隣を振り返れば、そこにはいつもの朝見がいた。声はもう強張ってはいなかった。いつもと同じ、耳慣れた柔らかな音が凛とまっすぐ芯を持って響く。

「この前の――体育祭のときの借りをお返しするだけです。僕が遼平たち以外をコーチするのは今回だけですので」

 重ねていたふたつの異なる体温が溶け合い混じり合う。直接言葉を交わさなくても、視線を繋げなくても、同じ温度になったその手がすべてを伝えてくれていた。


 家に帰りが遅くなることを連絡した俺と朝見は、昨夜と同じ場所で車を降りた。緩やかな斜面を昼間の温度を失くした風が駆けていく。薄い雲さえない空には昨日と同じように数えきれないほどの星が広がっていた。

 ――少し、話をしよう。

 鷹人の家を出てすぐ、車に乗り込んだ瞬間に落とされた言葉が思い出される。溶け合った熱が消えないことを願いながら、離された手を握り締めたことも。

「――遼平」

 ゆっくりと足を止めた朝見が振り返り、離れたままの手がふわりと揺れる。

 俺の肩には昨日と同じように朝見の上着がかけられている。冷たい風が触れるたびに浮き上がる柔らかな匂いにきゅっと胸が締まり、そっと温かくなっていく。

「ありがとう」

 外灯のない空間に慣れた視界が朝見の顔を捉える。不安と戸惑いを浮かべたまま、朝見は頼りなく笑った。

「遼平が僕と離れないって言ってくれて嬉しかったよ。コーチとしての僕を必要としてくれて、本当に嬉しかった」

「あさ」

「でも、僕のせいで遼平が傷つくのはやっぱりイヤなんだ」

 途切れた言葉に澄んだ青色が揺れる。

「小林先生が言った競技会は、規模は小さいけれど、インターハイを控えた選手たちも来るんだ。大会前の最終調整をするにはちょうどいいから。小林先生の推薦とはいえ、そこに参加すればどうなるか……」

 言葉を濁した朝見をまっすぐ見つめる。

 ――自分へと向けられている嫉妬や羨望のまなざしに未だに気づいてはいないのだろう?

 鷹人の父さんの声が耳の奥で蘇る。俺が向かおうとしているのは、そういう――俺のことをよくは思っていない人たちが集まる――場所だ。自分が気づこうともしなかった、見ようともしなかったものが集まる場所。そこに行けばどうなるのか、想像しかできなくてもわかる。朝見が行かせたくない気持ちもわかる。だけど。

「わかってるよ。そこがどんなところか、なんて」

「いつもの陸上部の仲間はいない。僕も同行はするけど、ずっとそばにはいてあげられない。きっと遼平にとっては辛い場所でしかないよ」

「そんなのわかってるよ。だけど俺は」

「僕はそんなところに遼平を連れて行きたくないよ」

 被せられた言葉の重みに、向けられる視線の強さに続くはずだった言葉は押し戻された。

「自分と直接関わりのないところであっても。受け取るつもりがなくても。聞こえた言葉をなかったことにはできない。どんなに無責任なものでも。どんなに些細なものでも。自分へと向かってきたものは簡単には振り払えないんだよ」

 朝見が『朝見凛』として受け止めてきた言葉の数々。それは俺の想像では遠く及ばないほど多いに違いない。優しい言葉だけではなかったはずだ。走高跳へ転向したときも、引退を発表したときも向けられた多くは好意的なものではなかったのだから。それでも、その全部を受け止めて歩いてきた朝見だから。その辛さも怖さもわかっている朝見だから。向けられる言葉には簡単には振り解けない力があった。

「朝見……」

 たぶんこれは朝見が他人には見せてこなかった部分だろう。隠されていたところ。踏み込めなかった場所。そこに今、自分は触れることを許されたのだと思うと――向けられているのが自分を止めようとしている言葉であっても――嬉しさに震えが走った。

「やっぱり僕がどうにかするよ。遼平が今のままでいられるように」

 強くはなかった。静かな労りをもって響いた言葉。俺を思って落とされた言葉。見えていたはずのものが奥へとしまわれていく。すべてをひとりで背負う強さに隠されてしまう。

「……っ」

 朝見が考えるのはいつだって俺のことだ。それが痛いくらいにわかるからこそ、すぐには言葉を返せなかった。俺はもう「今のまま」でいたいわけじゃないのに。朝見に守られるだけの自分でいたいわけじゃないのに。

 どうしたらわかってもらえる?

 どうしたら伝えられる?

 声が届く距離にいるのに。

 手を伸ばせば触れられるのに。

 お互いの顔を瞳に映しているのに。

 こんなにも近くにいるのに、うまく伝えられないもどかしさだけが積もっていく。ぎゅっと握り締めた手は夜の空気に晒されて冷たかった。消えないでほしいと願った熱はもう残っていない。それでも――ここにあったのは確かだから。

「あさ……」

 伝えようと口を開いた先、いつもの微笑みを取り戻した朝見が声を重ねる。

「これは全部僕の問題なんだ。僕が『朝見凛』だから。だから――」

「俺は朝見が『朝見凛』じゃなければよかったなんて、一度だって思ったことない!」

 言葉は反射的に飛び出していた。

「みんなの憧れだから? 伝説の存在だから? だから譲れ? どんな『朝見凛』も朝見なのに? 朝見は今、俺の目の前にいる一人だけなのに?」

 どうやって? どんなふうに? 伝え方なんてどうだっていい。ここにある想いに気づいてさえくれれば、それだけでいい。たとえ朝見が受け入れてくれなくても、俺の気持ちはもう変わらないのだから。

「切り離せるものじゃないだろ。どれも全部お前なんだから。俺はその全部を守りたいんだよ」

 手を伸ばせば届く。

 引き寄せれば距離は縮まる。

 かかとを上げさえすれば触れられる。

「りょ」

 聞こえるはずだった自分の名前は、唇の先で押し潰した。

「……」

「……」

 瞼を上げ、掴んでいた襟元から手を離す。できた隙間を埋める空気はまだどこか熱を保っていて。一瞬、触れただけにすぎない柔らかな感触が鮮明に刻まれる。ドクドクと追いかけてくる鼓動に熱が上がっていく。下ろしたかかとが地面の感触を掴みきれないほど、動揺が押し寄せてくる。――今、俺、自分で……。

「あ、えっと」

「りょう、へい……?」

 揺れる水面は、視界を閉じる前と変わらず丸く大きな空を見せていた。

 何が起こったのかわからないという表情に。戸惑いを隠さず揺れて響く声に。自分がとってしまった行動の恥ずかしさを掻き消してしまうほどの愛おしさが湧き上がってくる。静かに息を吸い込めば、当たり前に柔らかな甘さが広がっていく。

「――朝見」

 誤魔化そうとはもう思えなかった。体の中で膨れ上がる心臓の音も。体温を奪おうと触れてくる風も。降り出しそうなほどたくさんの星も。今だけは意識の外でいい。目の前にあるこの光だけを感じていたいから。

「好きだ」

 震えることなく響いた自分の声。大きくはなかったけれど、朝見には聞こえているはずだ。小さく隙間をあけたまま固まる唇に、朝見が呼吸を止めたのがわかる。これ以上ないくらいに見開かれた目に、ふっと頬が緩んでしまった。

「好きだよ、――凛」

 ――りん。

 舌が弾くその感触に、口の先で響くその音に、懐かしさが込み上げてくる。

 ようやく呼ぶことができた名前。

 かつて呼んでいたはずの名前。

 胸の奥で広がる温かさに笑わずにはいられない。

「……遼平」

 未だ戸惑いの中にある顔から視線を移していく。柔く滑らかな肌で覆われた白く大きな手。そっと掬い上げれば、抵抗することなく重みだけを乗せてくれる。指先から伝わる冷たさに向かって自分の熱が流れていく。右ひざが柔らかな地面を捉え、ゆっくりと降りていた視界が止まる。

「お迎えにあがりました。マイプリンセス」

 先に約束をしたのは自分だった。この言葉を贈ったのは自分の方だった。だからこそ俺が自分で思い出さなくてはならなかった。

 もう離さないのだと決めたその場所へ、そっと口づける。かつての自分よりは大きくなったはずの手に力を込めて。

「遅くなってごめん」

 見上げれば満点の星に囲まれてもなお強く輝き続けるふたつの光がある。夜の色に染まることのない、真昼の空。強く鮮やかに広がる水面が揺らぎ始める。

「りょう、へい」

「凛は本当に駆けつけてくれたんだな」

 ――あなたがピンチのときは必ず駆けつけます。

 それはたった一度交わされただけの小さな約束だった。

「……っ」

 笑いかければ笑いかけるほど揺れていく瞳。透明な膜が分厚くなっていき、零れるかと思った直後、結んでいた手がぐっと引き上げられた。

「当たり前だろう。僕は遼平のヒーローになりたいんだから」

 目を細めて笑う声に触れ、自然と体は着地した。甘く柔らかな香りのする方へ。強く優しい腕の中へ。重なり響き合う心臓を求めて。胸が痛くなるほど震える体温を求めて。

「お前はヒーローじゃなくて『王子様』ってかんじだけどな」

「そうかな。まあ本当にそうだったから仕方ないか」

「陸上界のプリンス、だもんな」

「あ、いや、そうじゃ……」

 声はこちらへと届く前に、風に攫われ掻き消された。

 夜の空気の中で揺れる前髪に、何かを確かめるように繰り返される瞬きに、無意識に言葉が吸い寄せられる。胸の高鳴りが形となって零れる。

「凛」

 呼びかければ少しだけ腕の力が緩められる。見つめ合える距離の分だけ体を離せば、自然と互いの顔が映りこむ。

「俺も一緒に戦うから。だから――」

 思い出に残っている言葉をうっかり言いそうになって、急ぎ飲み込む。

 この言葉は今じゃない。もっとずっと後でいい。

「だから、俺と一緒に空を見にいこう」

 今はこの約束だけ。

「俺にも凛を守らせて」

「遼平……」

 再び距離をなくして触れ合えば、温かな息が耳に直接落とされた。

「――好きだよ」

 鼓膜を震わせた音が言葉として染み込んでいく頃には、胸の奥で溢れ出した温かさが全身に広がっていて。声は小さく弾んだ。

「知ってる」

 ――もうずっと前から。

 愛情に変わるずっと前から。友情と呼べばいいのかさえわからない頃から。本当は、ずっと知っていたんだ。

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