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鷹人

 ――遼平。

 いつでも温かく聞こえていた。どんなときでも優しく触れていた。朝見の呼ぶ自分の名前は、どこか特別な響きをもって胸に届いていた。それなのに。

「……っ」

 振り払わずにはいられなかった。こんなのは朝見じゃない。俺の知っている朝見じゃない。そう思わずにはいられないほど、胸が苦しくてたまらなかった。

「なんで、あんな」

 ――部室に戻りなさい。

 朝見なら心配してくれると思っていた。早く行ってあげた方がいい、と言ってくれるのだと思っていた。

 ――今、遼平がやるべきことは鷹人くんに会いに行くことじゃないよ。

 勝手に思い込んでいたのだろうか。俺が大事なものは朝見も大事にしてくれるのだと。

 ――遼平が行っても治るわけじゃないよね?

 勝手に期待していただけなのか。いつでも味方になってくれるのだと。

「……なんで」

 朝見の言葉に自分でも驚くほど動揺していた。勝手に信じて、思い込んで、期待したのは自分なのに。苦しくてたまらなかった。怒れたならよかった。憎めたならよかった。何度再生しても苦しさと悲しさが膨らむだけで、怒りの感情は一滴も出てこない。それどころか、慣れ親しんだ「遼平」と目を細めて笑う柔らかな表情の方が思い出されてしまい、益々どうしていいのかわからなくなる。

 こんな思いをするくらいなら。こんな気持ちになるくらいなら。いっそ最初から優しくなんて――。

 ガタン、と背中から伝わる振動で電車が停止したのだと気づく。車内アナウンスはかつて住んでいた駅名を流していた。座席から立ち上がり、開いたばかりのドアへと足を向ける。今、俺が気にするべきは朝見のことでも自分のことでもない、と言い聞かせて。

 乗り換えも含めて電車で二時間弱。

 行こうと思えばこんなにも簡単に行ける場所だったのか。四か月前まで当たり前に使っていた駅は記憶にある姿と少しも変わってはいなかった。吸い込んだ空気にはパンの焼ける匂いが混ざっていて、部活帰りに鷹人と寄り道したことを思い出す。構内を抜ければバスロータリーが広がっていて、信号の先のファストフード店でよくテスト勉強したな、と懐かしさが蘇った。

 足は自然と進んでいく。頭に地図を思い浮かべるまでもない。何度と通った道だ。鷹人の家までの道順は目を閉じていても歩けるくらいに体に染み込んでいた。

 信号を渡り、大きな通りから一本横に入れば商店から住宅へと景色が変わっていく。建物が密集する路地は無人に等しい。七月下旬の昼過ぎ。太陽は真上を通り過ぎていたけれど、気温は今が一番高い。汗は止まることなく顎の先へと流れていった。

 迷いなく足を進めた先、記憶にあるままの大きな公園が目の前に広がる。

 開けた視界に伸びた木々が音を立て、むわりと湿気を含んだ生ぬるい風が肌に触れる。遠くで聞こえていた蝉の声が体を包み込むように大きくなり、吸い込んだ空気からは濃い緑の匂いが流れ込む。ブランコや滑り台など遊具の置かれた場所と広いグラウンドが併設された公園。それらを隔てるフェンスに沿って反対の出口へと抜けるのが鷹人の家への近道だった。降り注ぐ強い日差しの下、濃さを増す影を引き連れ進んでいく。今は鷹人のことだけを考えよう。べたつく暑さを振り払うように、気づけば駆け出す寸前のスピードで歩いていた。

 ――それなのに……なぜか、足は止まってしまった。

 どうしてなのか、自分でもよくわからなかった。鷹人に会いに行こうと、鷹人の家を目指していたはずなのに。目的地はもうすぐそこだというのに。足は止まり、何かに惹きつけられるように振り返っていた。

 蝉の鳴き声。熱を含んだ日差し。浮かぶ汗はあっという間にシャツに染み込んでいく。敷地を取り囲むように伸びる木々が風に合わせて葉を鳴らせば、すぐそばで別の音も鳴り出した。

 視界を覆うのはグラウンドを囲むように設置されたフェンス。花の時期を過ぎてしまった植物が絡み付き、風の強さに合わせてカタカタと不規則に揺れる。手前に置かれたベンチは、ペンキを塗り替えられたばかりなのか、目立った傷もなくクリーム色を艶めかせていた。

「……」

 頭の奥。記憶の扉。ずっと昔に置いてきてしまったもの。それは随分と遠くにある。手を伸ばしても指先すら触れられない。それでも、伸ばさずにはいられない何かがそこにはあった。ここで、この場所で、俺は何かを見つけた。理由もわからず、不思議な確信だけが静かに広がっていく。

「俺は、何を」

 言葉は一瞬にして攫われる。下から吹き上げるように駆けていく風を追って、自然と顔が上を向く。瞳に映るのは濃い青。鮮やかな青。白く膨らむ雲を引き立てながら自らも存在を主張する強い夏の色。毎年見ているはずの景色が、今だけは深く胸に落ちてくる。

「……そ、ら?」

 自然と零れた自分の声に「思い出してくれたんだね」と柔らかな声が耳の奥で重なった。

 思い出す? 思い出すってなんだ? 俺は何を忘れているんだ? この美しい空を、俺は――。

「遼平?」

 呼ばれた声に勢いよく振り返る。視界に入ってきた姿を頭で認識するよりも早く、口は勝手に動いていた。

「鷹人!」

 ほんの数メートル先、見慣れない制服を着た鷹人が驚きを隠しきれない表情のまま立っていた。不安気に揺れる瞳には戸惑いが浮かんでいる。わずかに合わない視線に、鷹人の身長が自分よりも高くなっていることに気づく。ずっと同じくらいだったのに。――でも、変わって見えるのはそれだけだった。両脇に伸びる松葉杖も、左足首に巻かれたテーピングもあったけれど、鷹人自身は何も変わらない。伝わってくる空気は同じだった。

「電話、無視すんなよな」

「……うん、ごめん」

 鷹人がふっと空気を緩ませたのがわかる。困ったような顔で笑うのも、日焼けしやすい肌も、毛先しか揺れない短い髪も――俺の知っている鷹人のままだった。


 カランカラン、と氷の落ちる音がはっきりと耳に届く。それほど家の中は静かだった。

 安静にした方が、と言った俺に「そこまでじゃないから」と揃えた松葉杖を壁に立てかけて、鷹人はキッチンに入ってしまった。庇うような歩き方ではあるものの、確かに鷹人が言うようにそこまで重症には見えない。

 とりあえずは安心してもいいのだろうか……。

 鷹人の気配を背中で感じながらそっと視線を巡らし、ソファへと腰掛ける。小学校の頃から来ていた場所は記憶にあるものとあまり変わってはいなかった。

 ――棚に並ぶ写真や盾が増えたくらいだろうか?

 鷹人の家は「陸上一家」だ。父親は走高跳の選手として、母親は長距離走の選手として有名だった。子供の頃から鷹人には当たり前に陸上があって、当然のことのように陸上選手になることを望まれて育ってきた。俺だったら反対に陸上を嫌いになりそうなところだけど、鷹人はそういうものを全部笑って受け止めていた。

 中学三年のときに全国大会に行ってからは、より一層プレッシャーを感じてもいただろうに飾られた写真の中の鷹人はどれも笑っていた。

 カタン、とテーブルの上で弾けた音に振り返ると、鷹人が隣へと腰を下ろした。ソファが軽く軋み、体の中へと小さな振動が流れてくる。目の前に置かれたふたつのグラスは琥珀色で満たされていた。

「たか」

「部活さぼったの?」

 俺が話し出すよりも一瞬早く、鷹人が小さなため息とともに言った。申し訳なさそうに眉を少し下げて。

「休みじゃないよな?」

 鷹人の視線がちらりとソファの横に置かれた荷物へと向けられる。終業式だけ、とは明らかに言えないであろう大きなスポーツバッグ。置きっぱなしの教科書類も入ってはいたが、部活に使うものが大半を占めていた。

 鷹人が心配でいてもたってもいられなくて、ここまで来てしまった。故障したと聞いて、昨夜の電話を思い出して、どうしても会わないといけないと思った。だけど、鷹人が見せるこの表情には「会えて嬉しい」よりも「自分のせいで部活を休ませてしまった」という苦しさの方が浮かんでいる。そんな顔をさせたくて来たわけじゃないのに。部活をさぼってまで会いに来たのは俺の勝手なのに。優しい鷹人はこんなことでも責任を感じてしまうのか。鷹人の困ったように笑う表情に胸が痛くなり、自分の考えの至らなさにすぐには声を出せなかった。

「会いに来てくれて嬉しいけど。でも、ほんと、そんな心配するようなことじゃないから」

「鷹人……」

「だから俺のことは気にせず、遼平は遼平のやるべきことを――」

 聞こえた言葉に反射的に口が開く。

「俺にとっては部活よりも何よりも鷹人の方が大事だったから。だから来たんだよ。これが今の俺のやるべきことだと思ったから、だから」

 来ない方がよかったのか。会わない方がよかったのか。何も気にせずいつも通り跳んでいればそれでよかったのか。一瞬浮かんだ後悔をすぐに打ち消す。――そんなの言い訳だ。鷹人に会いに行かなかった理由を並べたくなんかない。

「俺が心配したらいけないのかよ。電話出てくれないし、メッセージだって返ってこないし、故障のことも何も知らなかったし……。それでも俺に気にせず跳べ、って鷹人は言うのかよ。そんなの……無理に決まってるだろ」

 小さく息を呑む音。見開かれた瞳が揺れていく。

「心配って、こんなのたった二週間で治る程度の、その程度のものなんだよ。インターハイだってこれで最後ってわけじゃ、ないし。だから」

「え、二週間ってことはもしかしたら間に合うってこと?」

 インターハイに出られないというからにはもっとひどいのかと思ったけど、二週間で治る程度なら可能性はまだあるのではないだろうか。微かに見えた希望に俺が声を弾ませたのとは反対、鷹人の声は先ほどよりも低く落ちていった。

「……無理なんだ」

「でも」

「父さんが許してくれないから」

 耳に触れた声は震えていた。小さく笑おうとした鷹人の顔が崩れていく。

「たとえ奇跡的に間に合ったとしても、そんな状態でいい成績が残せるはずないから」

「それって」

「だから……いい、って言ったじゃん」

 震えはもう声だけではなく、全身に広がっていた。

「いい、って言ったのに。なんで、来るんだよ」

 逸らされた視線が膝に置かれた手の上へと落ちる。

「……っ」

 噛みしめた唇から漏れるのは言葉にできない想い。ぐっと強く固く握られた手。ギリギリのところで張られている薄い膜。ほんの少しでも触れたなら、きっと簡単に壊れてしまう。

 こんな鷹人を見るのは、初めてだった。

「鷹人」

 ゆっくりと手を伸ばす。無理に壊したいわけじゃない。張られたままでも構わない。全部を見せてくれなんて、そんなこと言わないから。だから、どうか触れさせてほしい。弾けてもいいから。溢れてもいいから。今度は俺が受け止めるから。

「りょう、へい……」

 そっと抱きしめた体は俺よりも少し大きくて。触れた肌はエアコンの影響で一瞬だけ冷たく感じたけれど、すぐに内側から発せられる体温で熱くなった。こんなふうに鷹人を抱きしめるなんてふたりで入賞を決めたとき以来だろうか。あの頃よりも大きく逞しくなった体にツンと胸が痛くなる。自分とは違う。鷹人は休むことなく努力をし続けてきたのだと伝わってくる。だからこそ苦しくてたまらない。なんで、鷹人が故障しなくてはならなかったのか、と思えてならない。

 すぐそばで発せられた声は音というよりも振動に近く、熱となって息とともに触れた。

「な、んで」

 ――なんで抱きしめてるんだよ。

 ――なんで会いに来たんだよ。

 途切れた言葉の続きはどちらだったのか。どちらでもいい。どちらでも構わない。返すべき答えはひとつしかないのだから。――鷹人が大事だ。今はそれだけだ。

「今なら泣いても、顔見えないよ」

「……っ、だれが……」

 絞り出された声に混じる嗚咽が、シャツ越しに感じる熱が、震え続ける肩が先ほどまでそこにあったはずの膜が消えたことを教えてくれる。何にも守られていない無防備な姿を晒し、大きな体を縮めるようにして鷹人は泣いていた。俺はこれ以上何を伝えればいいのかわからず、ただそっと抱きしめている腕に力を入れた。


 水面には溶けて小さくなってしまった氷が浮かんでいた。グラスを傾けると、流れ込んだ液体が体の芯に向かって落ちていく。喉を通る心地よい冷たさに、気づけば半分ほど飲み干していた。カタン、とグラスを戻した音に重ねられたのは小さな声。

「なんか、ごめんな」

 そっと吐き出された言葉に顔を向けると、鷹人はふにゃりと気の抜けた顔で笑った。目元も鼻もまだ赤みが残っている。それでもその頼りない笑顔にホッとし、同時にきゅっと胸の奥が痛くなった。

「あんな電話したら誰だって心配するよな」

「まあな。でも、俺は嬉しかったよ」

「え」

「鷹人のあんな声、初めて聞いたからさ。心配だったけど、俺のこと頼ってくれたのかなって、嬉しかった」

 いつも鷹人は少しだけ前にいた。隣に並んでいるようで隣にはいなかった。手を伸ばせば届くのに、その背中を捕まえることはできなくて。触れた先から離れていってしまうような、もどかしい距離の先に鷹人は立っていた。追いつきたくて、抜かしたくて。誰よりも身近で、誰よりも遠い。親友でありライバル。

 俺が走高跳を辞めてしまっても、その距離は変わることがなかった。

 だからこそ嬉しかった。鷹人に頼られることは、求められることは特別なことだった。ようやく隣に立てた気がして嬉しかったのだ。

「遼平……」

「お前が泣くところなんていつぶりに見ただろ? 全然思い出せないんだけど。え、でも俺ら小学校からの付き合いだから一回くらいはあるよな?」

 記憶を掘り起こしてみるが、一向に鷹人の泣き顔は出てこない。

 大会で思うような結果を残せなかったときも、鷹人は悔し涙ひとつ見せずに「また次頑張るわ」と言って笑っていた。常に前を向き続ける鷹人の姿に何度も励まされて、そのたびに敵わないな、と思い知らされてきた。

「あのさ、遼平」

「あ、あれって」

 ほんの一瞬、先に言葉を被せてしまったのは自分だった。

「あれ?」

 鷹人が何を言いかけたのか気になったものの、続きを促されソファの後ろへと視線を向ける。白い壁には写真だけでなく、新聞や雑誌の切り抜き、ネットからプリントアウトされた記事などもフレームに収められて飾られていた。印刷の鮮やかな新しいものには鷹人の名前が、色褪せて年代を感じさせるものには鷹人の両親の名前がある。そのちょうど下、腰の高さほどの棚の上に大きな写真立てが置かれていた。

「朝見、だよな?」

 視線を重ねた鷹人が、ああ、と小さく息を吐き出し答えてくれる。

「父さんが監督してる陸上部が朝見凛のところと合同練習したときだって」

「高校生、だよな」

「うん。朝見凛がまだ一年のときだからそこまで結果は出せていなかった頃のだけど……遼平?」

 気づけば自分でも無意識のうちにソファから立ち上がり、引き寄せられるように棚の前に立っていた。近くの高校同士、監督同士の結びつきにより合同練習するのはよくあることだった。高校生の、陸上部の、当たり前の出来事。そこに朝見がいるのも驚くようなことではない。集合写真なのだから大勢の顔が並んでいるのも、そこに朝見の顔が同じようにあるのも何もおかしくはない。

 それなのにどうしてこんなにも惹きつけられるのか。

 今の自分と同い年の朝見。今と変わらない柔らかな髪は少し短くて。作られた笑顔はどこかぎこちなくて。全体的に幼さの残る顔立ちをしていたけれど、白い肌は今と変わらない。周りの部員が日に焼けて黒くなっているので透き通った白さが余計に目立つ。何よりも細められた目の奥にある瞳が、褪せることも揺らぐこともないその色がとても印象的で。

 大勢が写る中のたったひとり。指の腹にも満たない大きさでしかない顔。瞳の色なんて判別できるかどうかも怪しいくらいなのに。俺は自分の中にしっかりとその色を捉えることができてしまう。

 ――鮮やかな夏の空の色を。

「……そ、ら?」

 カチャリ。自分の言葉が落ちた――その瞬間、胸の奥で音が響いた。ずっと閉じられたままだった扉が開く音。それは唐突に。確信を持って現れる。

 俺はこの頃の朝見に会ったことがある。

 ドクン、と心臓が大きく音を立てる。自分で思ったことなのに、戸惑いと混乱が広がっていき、うまく頭が回らなくなる。いつ? どこで? 届きそうで届かなかった場所へと必死に手を伸ばした俺は……。

「――い、遼平!」

 すっかり記憶を掘り起こすことに夢中になっていた俺は、鷹人がすぐそばに立っていることに気づいていなかった。

「あ、ごめん」

「あのさ……正直に答えてほしいんだけど」

 一瞬の間を置き、息を吸い込んだ鷹人の視線が揺れることなくまっすぐ向けられる。

「遼平は朝見凛のことが好きなのか?」

 自分へと向けられた言葉の意味がすぐには理解できなかった。

「――え?」

「正直に答えてほしい」

「正直に、って朝見はただの……」

 鷹人の真剣な表情に続くはずだった言葉が押し返される。冗談のように笑い飛ばすことも、誤魔化して逃げることもできない。嘘をつくつもりも、適当にあしらうつもりも元からなかったけれど。

 ――遼平は朝見凛のことが好きなのか?

 鷹人の声が頭の中で再生される。

 ――好きなのか?

 まっすぐ問われて。確かな形を持った言葉が落とされて。沈んだ先の胸の中で波紋が広がる。思えば誰にも問われたことはなかったのだ。誰も俺自身の気持ちを確かめてはくれなかった。自分自身でさえ真剣に問いかけたことはなかった。

 小さな、小さなたったひと雫。けれど水面は確かに揺れる。円がゆっくりと外側に向かって広がり、大きくなっていく。それは自分でも意識しない場所へと届いてしまう。

「ただの……」

 ――遼平。

 最後に聞いた冷たい声。予想もしていなかった言葉に動揺し、背を向けてしまった自分。「こんなの朝見じゃない」と言えるほどに俺はまだ朝見を知らないのに。知らないからこそ、初めて見る朝見に動揺して、怖くなって、逃げ出した。知らないことがいっぱいで、知らないことで傷つく自分がいる。

 ――知りたい。

 朝見のことだけではなく。朝見に対する自分の気持ちも本当はずっと知りたかった。知らない朝見に不安になる自分。傷つく自分。こんなにも苦しくてたまらないのに。そばにいると不思議と安心できてしまう。差し出された手を振り払ったのは自分なのに、今はまた手を伸ばしたいと思っている。ぐちゃぐちゃで矛盾だらけでちっとも理解できないのに。自分の中が朝見のことでいっぱいだということだけはわかってしまう。

「ただの――」

 憧れの存在。信頼できるコーチ。

 それで正しいはずなのに。思い浮かぶのはテレビの向こうの朝見でも、陸上部で接する朝見でもなかった。

 頭に浮かぶのは、思い出してしまうのは、隣でご飯を食べながら笑う朝見で。ふざけているかと思えば急に真剣な顔をする朝見で。大きな体を縮めて子犬のように見せてくる朝見で。童話の王子様みたいなことを平然とやるくせに、不意に照れたように頬を薄く染める朝見だった。

 ――遼平。

 名前を呼んで柔らかく笑う朝見。その声の響きも、甘い香りさえ鮮やかに思い出せてしまう。俺の中を一瞬にして満たしてしまう。それは風のように優しく。光のように温かく。――夏の空のように眩しかった。

 もう一度いつものあの声で呼んでほしいと思っている自分に気づいてしまう。

「ただの……じゃなくて……」

 知りたい、と思うのも。会いたい、と願うのも。触れたい、と焦がれるのも。

 ――朝見だから。

「……っ」

 本当はもうずっと前から自分の中にあった。気づかなかっただけで、気づかないようにしていただけで。単なる憧れだったらテレビの向こう側の存在でよかった。単に信頼を向ける相手だったら陸上部のコーチというだけでよかった。それなのに、今、自分が求めているのは違う。違う、から。

 思い浮かぶのは、胸を締め付けるのは、体じゅうに広がってしまうのは、ただ隣で笑っているだけの、俺の名前を呼ぶだけの、それだけの……朝見だから。

 ――ああ、もうダメだ。

 一度自覚してしまったら、一度口にしてしまったら、きっともう戻れない。

 怖かった。本当は怖くてたまらなかった。変わってしまう。変えられてしまう自分が怖くてたまらない。だけど――。

 問いかけてくれた親友の言葉を、自分へとまっすぐ向けられる瞳を、気づいてしまった自分自身を――誤魔化すことなんてもうできなかった。したくなかった。

 胸が苦しくて。瞼の裏が熱くて。鼻の奥が痛くて。もう溢れてしまうのだと自分でもわかる。止めることはできない、ということも。開いた喉に風が通り、熱が残される。声は情けないくらい震えていた。

「鷹人……俺、朝見のことが……す」

 吐き出しかけた息が押し戻される。鷹人の太い指に唇の先を潰され、口全体を自分のではない体温で覆われる。目の端から零れ落ちた雫が触れ合う肌の隙間へと染み込んでいく。

「……なんで、だよ」

 落とされたのは震える声。見上げた位置にあったのは苦しげに歪められた顔。何が鷹人にこんな表情をさせているのか、すぐにはわからなくて。

「(……鷹人?)」

 口を押さえられたまま呼びかけることしかできない。

「ずっとそばにいたのは俺なのに。ずっと一緒にいたのは俺なのに。それなのに……遼平はたった二か月前に現れた朝見凛のことが好きだって言うのか?」

 触れていた熱が消え、すっと冷たい空気が肌に触れる。離れた手は震えたまま俺の目の前で強く握られる。何かに耐えるように固く閉じられる。

「鷹人……それって……」

 伸ばしかけた手は震える拳の先で弾かれた。

「――ごめん、帰って」

 それだけ言うと鷹人は背を向けた。後ろからでも震えているのがはっきりとわかり、俺は動くことができなかった。目を離してはいけない気がして。今の鷹人をひとりにしてはいけない気がして。

「でも」

「お願いだから、帰ってくれ」

「鷹人、俺」

「……っ、どうして放っておいてくれないんだよ」

 振り返った鷹人が伸ばされていた俺の腕を掴む。あまりにも強く握られ、体が反射的に後ろへと逃げる。それでも鷹人は手を離してはくれず、開いた距離を越えて詰めてきた。ぐっと力が込められ手首から痛みが走る。

「鷹人、ちょっと」

 抜けだそうと手を引けば倍の力で引き戻され、バランスを崩した俺はそのまま鷹人の胸に抱き寄せられる。ほんの少し身じろぎしただけでさらに抑え込まれ、回された腕が離すつもりがないのだと伝えてくる。自分が抱きしめたときとはあまりにも違う状況に頭が混乱する。ドクドクと触れた肌から伝わる心臓の音に、閉じ込められた熱にどうしていいのかわからなくなっていく。――と同時に、朝見にはこんなにきつく抱きしめられたことがない、と気づく。

 強引なくらいに話を持っていくのに、断れないとわかっていて詰めてくるのに、朝見は俺を無理やり閉じ込めようとはしなかった。ちゃんと振り解ける力でしか触れてはこなかった。朝見が優先するのはいつだって俺の気持ちで、守ろうとするのは俺のことだった。

「……っ」

 強く、痛いほど強く流れてくる鷹人の想いと体温。目を背けることはもうできない。はっきりとした言葉で伝えられたわけではなかったけれど、わかってしまった。鷹人が俺に向ける瞳は、俺が朝見に向けるものと同じ色で染められている。胸の奥から溢れてくる熱も、このうるさすぎるほどの鼓動も、全部同じだ、と。

 鷹人の気持ちに応えることはできない。でも、それでも、鷹人とはこの先もずっと親友でいたい。変わらず一緒にいたいから、だから――。

「鷹人、俺」

「帰れ、って俺は言ったからな」

 不意に落とされた言葉は、声よりも先、振動の方が速く伝わってきた。

「え――?」

 思わず上げた顔に触れたのは太い指先とその体温。顎から耳にかけて鷹人の手の感触が伝わってきて、逃げる間もなく力が加えられる。

「っ……ん……」

 指ではなかった。自分の唇を押したのは、指ではなくて。顔に触れる手も体を抱きしめる腕も強い力を感じるのに、その感触だけは無防備なほどに柔らかくて。状況を理解するよりも先に体が反応した。

「や……やめ、やめろよっ!」

 鷹人を突き飛ばした反動で自分も後ろへと倒れ込む。肩と頭に固い衝撃が走り、ガタガタ、とぶつかってしまった棚が音を立てた。手近にあった取手を掴んだものの、体にうまく力が入らず、そのまま床に座り込む。

「な――」

 なんで、とは問いかけられなかった。視線を向けた先、鷹人も同じようにバランスを崩して床に座り込んでいる。足首に巻かれたテーピングが目に入り、「……っ」と痛みに眉を寄せた表情が見えて、故障している鷹人を突き飛ばしてしまったことに胸が痛んでしまう。無理やり引き剥がした拍子に切れたのか、唇の端は赤く血が滲んでいた。

「……っ」

 なんで、も。どうして、も。言えない。言えるわけがなかった。その理由を一番わかっているのは俺だったから。俺が鷹人を追い詰めたのだとわかるから。

 どうすればよかったのだろう。どうしたらよかったのだろう。手の甲で押さえた自分の唇は震えていた。熱はもうない。ない、けれど――。

 ――どんなキスであっても、僕が遼平にするものにはすべて愛がこもっているから。

 こんなときでさえ浮かんでしまうのは朝見のことで。

 ――あれ? 口がよかった?

 思い出された言葉に、柔らかく笑った顔に胸が痛くてたまらなくて。何をどう考えればいいのか、何をどうやり直せばいいのか、押し寄せる後悔に苦しくなって……どうしようもなく朝見に会いたくなった。

「……帰る」

 静かな部屋の中、自分の落とした声だけが響く。

 俺が立ち上がっても鷹人は何も言わなかった。ただ強く唇を噛みしめるだけで。苦しそうに顔を歪めるだけで。止まることのない涙だけがぽたぽたと床に落ちていく。

「たか……」

 呼びかけた名前を途中で飲み込む。何も言えない、と気づいて。これ以上俺ができることはないのだと、そう思って荷物を取りに背を向けたときだった。

「――ごめん」

 落とされた声に、その響きに、振り返らずにはいられなかった。

「ごめん、遼平、ごめん……」

 ごめん、と繰り返す鷹人が両手でどれだけ拭っても涙は止まらなくて。大きな肩を縮めて泣き続ける鷹人に思わず足が動いた。

「鷹人」

 踏み出した足の先で、カタ、と棚の扉が音を立てて開く。さっきぶつかった衝撃と掴んでしまった取手が原因だろう。

 視線は自然と落ち――声は出なかった。

 写真やトロフィーが載せられた棚の中には、飾り切れない記事やメダルと一緒に使い古されたスパイクやジャージなどもしまわれていた。そこにはもちろん俺にも見覚えのある鷹人の中学時代のものもあった。

 棚の一番上。キレイに畳まれているのはスカイブルーのタオル。鷹人と俺の名前が入ったそれは忘れられない記憶と深く結びついている。

「なんで……?」

 鮮やかな夏の空。浮かび上がる白い文字。自分の名前の横には小さな花の刺繍が入っていた。

 それは母さんがタオルを見て喜びのあまり勝手にやったことで。俺のタオルであることを示す何よりの証拠で。でも俺のはあのとき切り裂かれたはずで。こんなところにあるはずがなくて。ここにあるのが俺のなら、じゃあ、あれは、あのタオルは一体、誰の――?

「鷹人……これって……」


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