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公開プロポーズ

 その色を見つけた瞬間から――きっとすべては決まっていたのだろう。


 目の前には空の青を映しこんだ丸い瞳。白く長い指が俺の手をそっと掴む。立ち上がれば見上げるほどの身長も片膝をついている今は腰ほどしかない。

「お迎えにあがりました。マイプリンセス」

 柔らかな夏前の風に乗って落とされた声は、鼓膜の奥、胸の真ん中まで震わせる。傍目には童話の中のワンシーンに見えるだろう。王子様がお姫様の手をとりプロポーズをしている感動的な場面。色素の薄い柔らかな髪は緩やかになびき、薄いピンク色の唇が弧を描く。

 ――王子様、に見える。

 事実、彼は数年前まで『陸上界のプリンス』と呼ばれていた。

 けれど今、その大きな手が触れているのは柔らかく小さなお姫様の手ではない。日焼けし骨ばった男子高校生の手である。微笑み返すお姫様なんてここにはいない。

「――は?」

 先ほどの彼よりも数段低い声が落ちた。ふわりとグラウンドの砂が舞い上がり、俺と同じジャージ姿の仲間たちが見守る中、目の前の王子は言った。

「私のお嫁さんになってください」

 聞こえた言葉の意味がわからず、戸惑いがそのまま声に流れていく。

「いや、意味が……」

「きゃー!」

 この謎のワンシーンを見つめていたギャラリーたちから悲鳴にも似た歓声が上がり、言葉はあっけなく掻き消される。静かだったグラウンド内は一気にざわめきで溢れ返った。

「聞いた? 聞いた?」

「うお、すげぇ」

「プロポーズじゃん!」

 好き勝手に騒ぐ部員たちの声が、目の前の現実を受け止めきれない俺を余計に混乱させる。再び視線を戻せば、変わらず手をとり微笑む男の顔がある。

「どうぞよろしく、遼平(りょうへい)

 丸い青色の瞳がゆっくりと白く薄い瞼に隠される。並んだ睫毛の影が頬に落とされるのと同時に柔らかな感触が手の甲に触れた。さらりと軽く、でも確かに触れたとわかる小さな熱。離されたばかりの唇がそっと引き伸ばされ小さく笑ったのだとわかる。

 手を振り払わずにいたことを今さら後悔しても遅く、再び姿を現した瞳にはどうしていいかわからないまま固まる俺の顔が映る。ゆっくりと細められていくその隙間から目を離すことさえできず、俺にはもう夏へと変わっていく緩やかな風も、グラウンドの砂の匂いも、騒ぎ続ける人の声も届かなかった。

 どうして自分の名前を、笑顔を向け続けるこの王子――朝見凛(あさみりん)――が知っているのかを疑問に思うことさえできなかった。


「オニ・ギリ・パンチ! 今日もご飯がおいしいぞ! オニ・ギ」

 陽気な音楽とともに流れ出したテンション高めの声が、いつも通り朝を告げる。

 半開きの視界のまま桃の形の頭を勢いよく叩くと、セリフを繰り返しかけた声がむなしく途切れた。このキャラクターは小さい頃に見ていたヒーローアニメの主人公だ。俺はひとつ前のシリーズの方が好きだったけど、それはあまり人気がなかったらしく一周年を待たずして終わってしまった。

「んー……」

 ゆるく引き伸ばされた声は少し掠れていて意識をわずかに夢の中に残す。体を包む温度は布団によって適温に保たれており、どこまでも沈んでいけそうなほど心地いい。覚醒へと向かっていくわずかな時間。ゆっくり瞬きを繰り返せば、見慣れた自分の部屋が輪郭を整えていく。そっと上半身を起こせば、いつもとは違う体の強張りを感じる。抜けきらなかった疲れが昨日の記憶を再生し始める。

「……夢、だよな?」

 ぼやけていた映像が鮮明さを取り戻すにつれ胸の中が騒ぎ始める。緩やかな風に吹かれてグラウンドの砂が舞い上がり、そばにいるはずの仲間たちが遠くに見え、自分の目の前には伝説の――。

「いや、ないでしょ」

 その姿はいつもテレビの向こう側にあった。直接会ったことも、ましてや話をしたこともない。そんな彼が突然目の前に現れ、あんなことを言うはずがない。――ない、よな?

「うん、あり得ない。夢だ、夢」

 自分で自分に突っ込みを入れて、無理やり頭の中の(夢に決まっている)映像に停止ボタンを押す。今日も昨日と同じいつも通りの一日が始まるだけのはずだ。柔らかな布団を勢いよく捲り、体に触れていた熱を逃がす。足をベッドから床へ下ろすと同時に枕元に置いていたスマートフォンを手に取った。立ち上がった勢いで全身を大きく伸ばし、天井へと向かっていた手を戻しながら画面を確認する。習慣化された動きにようやく違和感が消えていく……ハズだった。

「は?」

 表示されている通知件数を目にした俺の口からは驚きが零れる。見たこともない数にバグでも起こしたのかと訝りながら指を伸ばしたが、それを確かめる前に部屋のドアが突然開けられた。

「遼平!」

「うわ、なに?」

 なんの前触れもなくいきなり開けたかと思えば、母さんはどこか慌てた様子でズカズカと部屋に入ってきた。

「なんだよ、ノックくらい」

「ちょっと! 初日から何やってるのよ」

「え、初日ってなに……」

「いいから、早く!」

 俺の疑問に答えることも、これといった説明もなく、母さんは有無を言わさず腕を引っ張っていく。一体、朝からなんだっていうんだよ?

 勢いにのまれた俺は抵抗することもできず一階へと連れていかれた。このままリビングまで引きずっていきそうな勢いだったが、母さんは廊下の途中にある洗面所の前で立ち止まると「顔だけでも洗ってから来なさいね」と言い残し俺を解放した。

 わけがわからないままにとりあえず顔を洗い、母さんと父さんのいる食卓へと向かうべく体の向きを変える。改めて振り返った廊下の奥、開け放たれたままのリビングの扉に足が止まった。

「え……」

 母さんは扉の開け閉めや靴の揃え方に厳しい。それなのに、開いている。風で偶然開いたとは言えないくらいに開け放たれている。先ほどまでの様子を思い出した俺は、無意識のうちにコクリと唾を飲み込むと、わずかに残っていた眠気を振り払い、静かに扉の先へと足を進めた。

 窓の前にレースのカーテンだけが残された部屋には見慣れた朝の明るさが満ちていて。いつも見ている情報番組のアナウンサーの声も。ゆったりと設計された大きめの三人掛けのソファも。その奥にある父さんがこだわって買った大画面のテレビも。どこにも変わったところなんて見当たらなかった。小さなため息とともに父さんがすでに座っているであろうダイニングへと視線を動かそうとした、そのとき。

 見覚えのある光景――さっきまで自分の脳内を流れていた映像――が視界に映りこんだ。

 俺は驚きのあまり、その場から動けなくなった。ニュースからエンタメコーナーへと切り替わったタイミング。テレビ画面に映る綺麗な顔は寸分の狂いもなく記憶と一致する。数年前のものではない、少し大人びた表情をした今現在のもの。何度も再生された現役当時の映像ではない、最近撮られたばかりのもの。画面の下、でかでかと表示されたテロップに並ぶのは『陸上界のプリンス、公開プロポーズ』『お相手は男子高校生』の文字。

 ――は?

 声すら出なかった。大きな四角い枠の中を流れていく映像に、驚きを含めた声でコメントをするアナウンサーに、俺の中には戸惑いと混乱が渦巻いていく。靴下すら履いていなかった足からは床の固い感触と冷たい温度が伝わってくる。まるでこれが夢ではない、と教えるかのように。

「おはよう、遼平」

 テレビ画面から目を離せなくなっていた俺のもとに夏の朝を思わせる爽やかな声が響いた。鼓膜に触れた瞬間の空気の震えが脳から直に体の中心へと落ちていく。リン、と鳴らされた鈴が音ではなく水となって滲み込んでいく感覚。決して大きくはないのに、振り向かずにはいられない。視線が、意識が瞬間的に引き寄せられる。

「え……」

 目の前の光景は、テレビ画面の向こう側よりもさらに大きな混乱をもたらした。見慣れたダイニングの風景。キッチンカウンターの前に置かれた四人掛けのダイニングテーブル。奥の窓を背にする形で父さんが、隣に母さんが、その向かいに俺がいつも座る。椅子は四脚あるがうちは三人家族なので父さんの向かいは常に空いていて、気づくとその椅子には雑誌や広告が置かれてしまっていた。だけど、今は違う。いつもは空いている、適当な物置に使われているその椅子が「これが本来の使い方ですよ」とばかりに人を座らせ朝の食卓風景に馴染んでいる。

 ――いや、馴染ませようとしていた。

 なんの変哲もない一般家庭の中の、なんの特徴もないダイニングという場所であっても、彼がそこに馴染むことなどあり得ないのだから。窓からの日差しと天井からのライトだけが光源であるこの空間に、そこだけ決して消えることのない光が滲み出ている。彼の周りにだけ見えるそれをオーラと言うのだろうか?

「このお味噌汁、とっても美味しいです」

 点けっぱなしになっているテレビを流れていく映像。その中に映る顔が、目の前でお味噌汁をすすって微笑んでいた。父さんはちらりと俺に視線を向けたが何も言わない。いつも通り白いワイシャツを着て、結んだネクタイの先を胸ポケットに入れたままご飯を食べている。いや、なんか言ってくれよ。何も言われない方が怖いから。無言の父さんに代わり、キッチンに入っていた母さんが俺を促す。

「お口に合ってよかったわ。ちょっと遼平、何ぼーっとしてるのよ。早く座りなさい」

 座るように言われて自分の席を見れば、その隣には背筋をまっすぐ伸ばし柔らかな髪を光に透けさせる彼がいる。その隣に座るのか? 俺が?

「……」

 何度瞬きしようと目の前の状況が変わることはなく、そこに座る以外の選択肢は見つけられない。朝ごはんを食べないことには朝練に行くこともできない。言葉にならないため息を吐き出してから俺は覚悟を決め、足を進める。なるべく距離をとるように椅子を引き、彼を視界に入れないように前だけを見て座る。「いただきます」と両手を揃え、箸へと手を伸ばした、その瞬間。

「体調は大丈夫かい?」

 間近で響いた柔らかな声にうっかり心臓が跳ね、カシャン、と箸を掴み損ねた。テーブルからの落下は免れたが「何してるのよ」という母さんの声は飛んできた。今、話しかけられた? 大丈夫かいって……。体調どうのよりこの状況がちっとも「大丈夫」ではない。そう言ってやりたい。言ってはやりたいが、振り返った瞬間に返り討ちにされるのは目に見えている。視線を向けなくてもわかる。今この部屋の中を満たしているやけに澄んだ空気は俺の左隣から発せられているものなのだと。ひとまずここは自分を落ち着けることが先だろう。

 俺は隣を振り返ることも、かけられた言葉に答えることもせず、両手で丁寧に揃えた箸を右手に置き、左手をお味噌汁のお椀へと持っていく。ふわふわと揺れる湯気が薄く昆布出汁の香りを纏い、鼻先に触れる。指先から伝わる温かさに少しだけ力が抜けていく。ゆっくり一口すすってから、ようやく視線だけを隣に向けた。

「あの、なんでいるんですか?」

 さきほどの彼の言葉に対する答えではなく、ずっと頭の中にあった疑問の方を口にする。

 テレビの中でしゃべっているコメンテーターの言葉なんかどうでもいい。『婚約発表はいつ』とか『空白の五年間』とか気になるワードではあったけれど、それよりも今は目の前の現実の方が大事だった。――現実、だよな?

 カタン、と丁寧に箸を置き、両手を合わせた彼が「ごちそうさまでした」と声にしてから振り返る。

「遼平は昨日、意識を失っていたから覚えていないよね。説明が遅れてしまってすまない」

 ――え、俺、意識失ったの?

 耳に届いた言葉に驚き、手の中でお味噌汁が波立った。零れはしなかったが、このまま話を聞いていたらひっくり返しそうな予感しかないのでとりあえずテーブルに戻す。

「急に倒れたって聞いてびっくりしたんだからね。なんともなかったからよかったけど。病院の検査から家に連れて帰るまで全部朝見さんがしてくれたのよ」

 いつのまにか会話に割り込んだ母さんが洗い立てのイチゴを入れた器をテーブルの真ん中に置いた。朝からフルーツが出てくるなんていつぶりだろうか。

「よかったらこれも食べてね」

 父さんでも俺でもなく朝見に向かって母さんが笑顔を向けると「ありがとうございます」と朝見もにこやかに返す。母さんは今にも花をまき散らしそうな空気でそれぞれの食器を重ね「遼平、朝見さんにお礼言ったの?」と声に冷たさを忍ばせて俺を振り返った。

「あ、いや、まだ……」

「遼平は目覚めたばかりですから。それに僕は当然のことをしただけですので。どうかお気になさらず」

「本当にすみませんね。こんな息子で」

 本人を前に言うことか? と突っ込みたいところだけど。世話になったのは間違いないらしいし、ここで母さんの機嫌を損ねるのは得策ではない。朝見のおかげで笑顔を貼り付けているが、いつ剥がれるかはわからないのだから。

「……あの」

「さっきの質問だけど」

 お礼を、と言いかけた声は一瞬早く口を開いた朝見の言葉に上書きされる。

「しばらくこちらでやっかいになることになったんだ」

 少し照れくさそうに、はにかみながら朝見は言った。俺の目をまっすぐ見つめたまま、薄い青色をゆっくりと細めて。陶器のような白い肌が軽く持ち上がり、微笑まれたのだとわかる。――わかる、が。問題はそこじゃない。コチラデヤッカイニナルコトニナッタ……って? え? なに? どういうこと?

 柔らかく優しく響いた朝見の声がぐるぐると頭の中を回るが理解にまでは達しない。何も言えず固まった俺にキッチンカウンターの奥から再び母さんの声が飛んできた。

「うちの周り、空き家は多いけど新しいところなんてないでしょう? 朝見さんに変なところに住んでもらうのは困るからって、矢崎(やざき)さんに頼まれたのよ」

 矢崎さんはこの町の町長だ。しかもうちの向かいに住んでいる。ここに越してきてまだ二か月しか経っていない俺たち家族にとても親切にしてくれる気のいいおじさんだ。

「頼まれたって、なんでうち? そもそもなんでこんなところに住むんだよ?」

「なんでって」

 母さんの視線が点けっぱなしになっているテレビへと向けられる。

 画面の向こうの話題は未だ変わっていなかったが、流れる映像は昼間のグラウンドではなく薄暗さの中でライトを向けられる朝見の姿に切り替わっていた。おそらく昨日の夜に撮られたものだろう。それもうちの目の前で。奥にしっかりと『瀬永』と書かれた表札が映りこんでいる。女性が朝見にマイクを向けると、朝見は慣れた様子で静かに笑ってみせた。

 ――五年前に仰っていた『大事な人』とは彼のことですか?

「ええ、そうです」

 ――どういった経緯でお知り合いに?

「それは僕と彼だけの秘密です」

 ――式のご予定は?

「すぐにでも挙げたいところですが、そこは彼の意思も尊重しなくてはならないので」

 ――陸上界への復帰はお考えですか?

「考えていません。ただ、彼を支えたいとは思っています」

 四角い枠の中、現実の俺の目の前で微笑んでいる男の顔が、アップで映し出される。

「どうか温かく見守ってください。よろしくお願いします」

 ゆっくりと視線を戻した俺に、画面越しの声とは違う、本物の声が発せられた。

「どうぞよろしく、遼平」

 柔らかな、けれどハッキリと耳に響く声。先ほどよりも深く刻まれたえくぼ。向けられた瞳はどこまでも澄んでいて、その美しさに思考が奪われていく。受け入れるつもりなんてこれっぽっちもなかったはずなのに。言葉は勝手に零れていた。

「……よろしく」

 ――俺は昨日どうして自分が意識を失ったのか、わかった気がした。



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