「君を愛することはない」と言われるはずだった
思い込んだら猪突猛進の田舎者伯爵令嬢×表情筋が死滅している冷徹(???)な公爵令息(次男)
テンプレート的令嬢ものの設定ですが、もともと読み専なのでふわっとした感じで書いています。読み手さまに置かれましても、爵位とかそういう辺りはふわっと受け止めていただければと思います。
途中で視点が変わります。
◆
マリアベル・グノーは何の変哲もない伯爵令嬢である。領地は僻地、すなわちド田舎にあり、王都や流行の何たるかも知らずに、森と農地と家畜に囲まれて生きてきた。齢十八で成人を迎え、いよいよ誰かお相手を探して嫁がねばなるまいと両親に言われたマリアベルが、重い腰を上げ、婚約者探しという名目で王都にある叔母のタウンハウスに身を寄せておよそ二週間。それは、数度のお茶会の後、初めての夜会に出席した翌日のことであった。
――まるで、巷で流行りらしいあの恋愛小説のようだわねえ。
マリアベルは他人事のように乾いた笑いを零した。その手には、この国でみっつしかない公爵家のうちのひとつ、デュナン家の紋章が刻印された封筒が、居心地悪そうに収まっている。
開いた便箋には、美しい文字が綴られている。その内容を端的に纏めれば、公爵家の次男様とマリアベルの婚約を希う、というものだ。
――デュナン公爵家の次男さま、って。ええと。
マリアベルはぐっと眉間に皺を寄せて思い返してみるが、脳内にあるはずの貴族名鑑はちっとも仕事をしてくれなかった。
「マリアベル、何をぼうっとしているの!? 早く領地の義兄上に連絡を!! 勿論、デュナン公爵家にもお返事をするのよ! ああ、お返しに相応しい便箋の用意はあったかしら!?」
叔母が落ち着きなく部屋をあっちへこっちへうろつきながら、マリアベルのみならず、目に付いた使用人たちに次から次へやることを投げて寄越しているのを見て、マリアベルは心の中でうーんと唸る。まだマリアベル本人からこの件について何も語ってはいないのに、叔母の中で話が特急列車より速く突き進んでしまっている。当然、公爵家からのお申し出を、マリアベルのようなしがない伯爵令嬢がお断りできるはずもない。さすがのマリアベルだってそんなことは分かっている。分かってはいるが。
「おばさま。……おばさま?」
「何、マリアベル。用意は済んで?」
「まさか。違います。先方にお返事をする前に、おばさまにひとつ聞いておきたくて」
マリアベルは美しい文字を綴る黒いインクを指で辿り、小さく首を傾げて続けた。
「わたし、……一体どこで、その、デュナン公爵令息さま……? に、見初めて頂いたのでしょう?」
叔母がぽかんとした顔でこちらを見ているが、マリアベルだって皆目見当もつかないのだ。
「昨日の夜会でお会いしたのでは、ないの?」
「いえ、昨日の夜会では殿方とお話もダンスもした覚えが……、あっ」
「マリアベル……?」
よくよく叔母にチャンスをもぎ取ってこいと言いつけられていたのに、気乗りがしないあまり、素敵な御馳走と美味しいお酒を存分に頂いたあとは、バルコニーでゆったり涼んで、いいように時間を潰していたマリアベルなのである。叔母の無言の視線が痛い。目線をゆっくり逸らしながら、誤魔化すように封筒で口元を隠す。
「とっ、ともかくですね。わたしのような田舎出の伯爵令嬢が、初めての夜会で公爵家のご子息なんて大層な方とお話する機会が得られるとお思いですか? 何かの間違いではないかと思うのですよ」
「この際間違いでも良いわ。こんなチャンス、もう二度とないもの」
間違いで良いわけがない。相手は公爵家だっていうのに! マリアベルは叔母の暴走に目の前がくらむような心地だった。
そんなマリアベルに構わず、叔母は捲し立てる。
「まさかと思うけれど、マリアベルあなた、その手紙の送り主がどなたかもよく知らないのではないでしょうね!?」
マリアベルはぎくりとした。けれども、未だにマリアベルの貴族名鑑はうんともすんとも言わないのだ。デュナン公爵家の次男さまで、これが直筆であるならば、とても美しい字を書かれる、ということ以外、申し訳ないが何も知らない。
叔母が悲鳴のような声を上げる。
「な、なんてこと! 王太子付きのヴィンセント様よ! 本当に知らないの!?」
残念ながら本当に知らないわけなのだが、叔母の口から飛び出た言葉は聞き捨てならなかった。王太子とかいう大層な単語が飛び出た気がするんだが。
――どうしよう。これは益々、あの小説みたいなことになってきたぞ。
マリアベルは手にした封筒を前に、引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。
◆
マリアベルがその小説の話を聞いたのは、王都に来て初めてのお茶会でのことだった。流行の端くれも知らない田舎者のマリアベルに、トレンドの最先端をゆくご令嬢たちが、そんなことも知らないのという意味を言外に込めて教えてくれたものの一つである。
曰く、下位貴族令嬢がある日突然、分不相応な婚約を言いつけられることから話が始まる。令嬢は断るすべもなく、見目麗しくも冷徹だと噂高い歳若き宰相の男性の元へ嫁ぐことになったが、その理由は分からぬまま。そして見も知らぬ旦那様となったその男性に、結婚式では一瞥もくれられず、初夜に至っては冷たく突き放されるらしいのだ。
「君を愛することはない」、と。
そこから紆余曲折あって、ふたりは真実の愛によって結ばれ、つまりまあラブラブイチャイチャするらしいのだが、マリアベルにはどうしてそこからそう展開するのか、実際の小説を読んでいないのでさっぱり分からない。
さて、件のヴィンセントさま、とやらが、見目麗しく冷徹な男性なのかは分からないが、突然婚約という話が舞い込んだのも、その理由がとんと知れないのも、余りにも状況が似ている。結末が同じになるかは別として、まずはじめに「君を愛することはない」と言われる可能性自体はとても高いのではないだろうか。突然のことに混乱していたマリアベルは、天啓を得たようにそう理解した。することにした。
あのあと数十分、部屋にこもって封筒と睨めっこしていたのだが、ここでついにマリアベルの心は決まった。
そうとなれば話は早い。そのつもりで嫁げば良いのだ。心の準備さえできていれば、幾らでも対応のしようもあるだろう。あるはずだ。あるに違いない。マリアベルはすぐさま便箋を取り出して、実家と公爵家に手紙を大急ぎで認める。
このように、思い込んだら一直線なのが、マリアベルのいいところでもあり、悪いところでもあった。
マリアベルが腹を括ってから、本当に直ぐに、僅か数日で婚約は結ばれた。叔母はずっと踊り出しそうなくらい大喜びであったし、領地の両親も最初こそ非常に驚いたようだったが、想像以上の良縁を掴んだ娘に浮かれた様子の手紙が速達で飛んできた。
しかし、代理人による文書上のやり取りだけで、ヴィンセント本人とマリアベルの顔合わせは結局叶わなかった。王太子様が急遽、公務で数週間にわたって隣国へと行かれることになり、それに暫し同行することになった、と説明をされた。
なるほど、それもきっと建前に違いない。マリアベルは受け取った懇切丁寧な謝罪の手紙を前に、分かってますよとばかりにうんうんと頷いた。
――こんなに婚約を急いでおいて、わたしに会うつもりはないなんて。これは「君を愛することはない」に違いない。もう、絶対そう!
マリアベルの思い込みは深まる一方である。実際そう言われたときにどんな風に反応を返すか、何通りもシミュレーションしているくらいだ。
――でも……。
マリアベルは優しい緑の便箋をなぞる。黒いインクの、美しい文字。何度も眺めて目に焼き付いてしまった流麗な筆致。
マリアベルは、ヴィンセントの手紙が、その文字が、とても好きだと感じていた。数度のやり取りだけであるし、文面が全てまことのことなのかは分からない。それでも、ヴィンセントからの手紙はいつも優しく、マリアベルの心をあたためた。
たとえ、「君を愛することはない」、そう言われても、とマリアベルは思う。この手紙だけでも、マリアベルには既に十分だった。嘘いつわりであったとしても、こんなに心を尽くして貰えたと、この手紙だけでマリアベル自身は思うことができる。
マリアベルは単純で、純粋無垢な娘だった。数通の手紙のやり取りだけで、十分恋の気分を味わわせて貰えた、と笑えるほどに。
◆
マリアベルの結婚の準備は着々と進んだ。何故か最短スケジュールで組まれた結婚式の日取りは、婚約が決まってから僅か三ヶ月後のことだった。
王太子様の長期公務が終わられ、国に戻られたと新聞で見たのは、結婚式の二週間ほど前の出来事であった。
それはマリアベルが衣装合わせの最終調整で、予定より少し早くサロンに出向いたときであった。見覚えのない男性が、見覚えのあるタキシードに身を包んでいた。マリアベルより頭一つ分は高いだろう上背、髪色は透き通るような金色で、項の辺りで紐でひとつにくくっている。来店ベルの音を聞いて、不意にこちらを振り返る、その双眸は碧。硬い印象ではあるが、見目麗しい、と評して間違いない顔立ちであった。
「……ヴィンセント、さま?」
マリアベルは思わずそう呟いてからハッとした。婚約者とはいえ初対面であるのに、不躾に名前で呼んでしまった。これでは初夜を待たずに「君を愛することはない」が発動、となりかねない。さすがにそれは予定外だ。マリアベルは顔を青くしながら口元を震える指先で抑え、恐る恐る目線をあげた。
「……、マリアベル」
その表情に笑みこそなかったが、よく通るテノールの声に怒りや苛立ちは感じられない。名前を、呼ばれた。マリアベルの心臓がその事実に忙しなく鼓動する。
――ど、ど、ど、どうしよう。というか、そうだ、ご挨拶……!
マリアベルは慌ててどうにか震える脚を引き、カーテシーの体勢を取る。多少不格好かもしれないが、構っている場合ではない。
「はいっ、ま、マリアベル・グノーです! はじめまして、その、お帰りなさいませ……!」
「っふ、」
空気が揺れるような声が聞こえて、マリアベルは硬直した。
――わ、わら、笑われた!?
カーテシーの状態のまま、マリアベルは大混乱に見舞われていた。動けずにいる間にコツコツと足音がして、そのうち下げた視界に磨かれた靴先が映る。かと思ったら、白いスラックスが膝をつき、なんと碧色の瞳が覗き込むようにこちらを見あげてくるではないか。
――ひ、跪かれてる!
「ただいま。きちんとした対面が遅くなってすまない。……無礼極まりない婚約者をどうか好きなだけ罵ってくれ」
「へぁえ!?」
思わず体勢を崩して数歩後退る。淑女とはかけ離れた声が飛び出てしまった。マリアベルの背中を冷や汗が伝い落ちる。
とにかく、高貴な身分である彼を、膝を折らせたままにはしておけない。マリアベルは迷った挙句、失礼を承知でヴィンセントの前にかがみ込んで手を伸ばした。なんと声を掛けるのが正解なのか、さっぱり分からなかったからだ。
二度ほど瞬いたのち、ヴィンセントは意を汲んでその手を取ると、マリアベルごと立ち上がった。その間ずっと、先程聞こえた笑い声は聞き違いだったのではと思うほど、ヴィンセントの表情は硬いまま変わらない。ただ、不思議と冷徹だとはマリアベルには感じられなかった。
便箋に綴られた文字たちの印象が、彼の立ち姿に重なる。
「今日会えたのは幸運だった。しかし……、次は式の当日になってしまうかもしれない。本当に、面目ない」
碧眼を伏せ、殊勝な顔でヴィンセントが呟く。思わずマリアベルはぶんぶんと勢いよくかぶりを振った。
「お気になさらないでください。式の手配はお言葉に甘えて、全て公爵家に任せきりですし……。お衣装だって、急なことだったのに、とても素敵なものを用意して頂きました。ありがとうございます」
マリアベルは素直にそう言って笑った。事実、本当にそうであったからだ。ヴィンセントはマリアベルを見つめたままごく僅かに目を見開いて静止していたが、数秒ののちにつつつ、と視線を逸らして、小さく「そうか」とだけ声を零した。
そこへ、ボーン、と時計の鐘が鳴り、ヴィンセントは弾かれたように顔を上げて、その針の位置を確かめているようだった。店の者に一瞥をくれてから、マリアベルの方に向き直る。
「僕はもう行かねば。君の衣装合わせを、見られたら良かったが」
「……お忙しいのですね」
「す、まない」
眉根を寄せて俯くヴィンセントに、マリアベルは慌てた。
「違うんです! その、お身体に障らないかと……」
「……、……そう、か。大丈夫だ、こう見えて、身体は丈夫だから。それに、」
中途半端に言葉が切れる。マリアベルは首を傾げたが、結局ヴィンセントがその先を続けることはなかった。店員がやって来て、二人を各々別の部屋に案内したためだ。
さよならの挨拶もろくにないまま、二人はそこで別れた。
マリアベルは衣装合わせが終わるまで、何だかふわふわとした気持ちのままだった。まるで、夢でも見ているかのようであった。いや、夢だったんじゃないか? 夢でなければ、愛されることのないはずの相手から跪かれるなんてこと、あるとは思えない。
一度だけ呼ばれた自分の名前、その声を振り返る。
見目麗しく、冷徹ではないものの、表情の乏しいひと。要素を切り取れば、小説とそう変わりないはずなのに。
だって、あの文字と彼は、よく似ていた。マリアベルが優しく、あたたかく、好きだと感じる、あの手紙の中の文字たち。だから不思議と、ヴィンセントが心からあの文章を書いたのだろうと、マリアベルは簡単に信じてしまえた。
覚悟を決めていたはずなのに、あわよくばもしかして、とマリアベルの心の奥で、期待が頭をもたげてしまう。
――ガタン! ドゴン!
乗っていた馬車の車輪が揺れて、ぼんやり考えにふけっていたマリアベルは、強かに壁に頭をぶつけた。あんまり鈍い音がしたものだから、御者が慌てて声を掛けてくる。どうにか大丈夫、と取り繕った声で返すと、マリアベルはそろそろと頭を抱えて座席に蹲る。
「……うう」
この土壇場に来て、マリアベルを雁字搦めにしていた思い込みは、めちゃくちゃになってしまった。それほどに、今日の突然の対面は、衝撃的だった。
「愛することはない、は、ちょっと堪えちゃうかもだな」
誰に聞かれることもない呟きを落とし、マリアベルはただ困ったな、とだけひとり噛み締めた。
◆
気持ちが浮ついたまま時は無情に流れ、結婚式の当日がやって来た。ヴィンセントが言っていた通り、式の当日まで、彼ともう一度会う機会は訪れなかった。
ヴィンセントとマリアベルが顔を合わせたのは、式が始まる少し前。支度を整えたマリアベルの様子をヴィンセントが控え室まで見に来てくれたときだった。
マリアベルは極度の緊張のなか、ヴィンセントと向き合った。ヴィンセントは、先日会ったときより、輪をかけて硬い表情をしていた。
「よく、似合っている」
掠れた声が抑揚なく掛けられる。視線は一度も合わされなかった。
マリアベルの浮ついた期待は儚く砕け散った。
――けれども。
マリアベルはそんなことで挫けるような、やわな令嬢では――花嫁ではないのである。
最初からそうであろうとも、と自分で受け入れた縁談なのだ。マリアベルは思い直す。
やってやる。やり遂げてやるのだ。マリアベルは燃えていた。幾度となく繰り返した「君を愛することはない」のシミュレーションを、式の最中もずっとなぞり続けた。
お陰で、自分に一瞥もくれなかったであろうヴィンセントの様子も、ファーストキスである誓いの口づけのことさえも、マリアベルの記憶には殆ど残らないまま、結婚式は終わってしまった。
◆
さて、結婚式が済んでしまえば、その後あるのは勿論、問題の初夜である。
公爵家とは別の、ヴィンセントが所有するという邸に連れられたマリアベルは、初対面の侍女たちに恭しく迎えられ、丁寧に隅々まで磨きあげられた。小説よろしく使用人に無下に扱われる、という展開まで予想していたマリアベルだったが、今のところそういった不遇は起きそうにない。これから長く暮らしていかねばならない場所なのだ。マリアベルはこれなら心易く過ごせそうだと小さく安堵した。
丈の短い、透けた布を幾重にか重ねた夜着を纏わされ、マリアベルは主寝室の扉の前に立った。侍女は一礼して下がっていき、廊下からひとの気配が消える。
いよいよ、この時が来た。来てしまったぞ。マリアベルはぐっと奥歯を噛み締める。頼りない服の裾を小さく握ってから、ひとり薄暗い廊下でうん、と頷く。
やってやる。結婚式の前と同じ言葉をもう一度頭の中で繰り返し、マリアベルは顔を上げた。寝室の扉をノックする。そして、返事を待たずに、その部屋の中へと乗り込んだ。
「マリア、ベル」
ソファに腰掛けていたらしいヴィンセントは、マリアベルの来訪に気付いて立ち上がったところのようだった。何故だかその声が揺れている。押し入るようにノックして直ぐに入ってきてしまったからかもしれない。所在なく視線を上げれば、一瞬視線が交わったものの、それも直ぐに逸らされてしまった。
部屋は薄暗く、マリアベルにはヴィンセントの表情の細かいところまでは分からなかった。分かるのは、もう視線が合うことはなさそうだ、ということだけ。
マリアベルの覚悟は決まっていたから、動揺はなかったが、それでもちくりと胸を刺すものがある。その場で一度深呼吸をしてから、マリアベルは柔らかなカーペットの上を歩き出した。
ヴィンセントのすぐ側まで辿り着くと、「座るといい」と自らも座り直しながら促してくれた。頷いて、彼と隣合うように腰を下ろす。
「その、……お待たせして、すみません」
「いや……」
訥々とした声が静かな部屋に落ちる。ヴィンセントがテーブルの上に乗せられていた揃いのマグカップのうちの一つをマリアベルの方へ差し出してくれる。葡萄の芳醇な香り。ホットワインのようだ。
「飲みながらで構わない。……その、先に、少し話がしたい」
カップを両手で包み込むように持ち、ヴィンセントが呟く。
――来た。マリアベルは息を飲む。ドッ、ドッ、と心臓の音がうるさく耳の奥で響いた。
「何でしょう」
平静を装って、マリアベルは返事をする。ヴィンセントはほんの数秒、息を整えるように動きを止め、それからマグカップを静かにテーブルに置くと、意を決したようにマリアベルに向き直った。
――来る!
マリアベルは眉根を寄せ、唇をきゅっと結んでヴィンセントの視線を真っ向から受け止める。
「……君を、」
マリアベルの思った形の言葉を、ヴィンセントの薄いくちびるがなぞる。酷くゆっくりに感じるその一瞬のなか、けれどマリアベルは想像とは全く違う視線に絡め取られていた。冷えきった眼差しがそこにはあるはずだった。自分に興味がない、あるいは負の感情がある、といったような目が向けられると何度も思い描いて来たのだ。なのに。
なんで、どうして。
――どうして、そんなに必死で、熱っぽくて、そして壮絶な色気を孕んだ視線を向けられているの!?
「君を愛することを、生涯を賭けて誓おう」
「え、……えっ」
マリアベルの頭は真っ白であった。思い込んで突っ走ってきたがゆえに、全く予定外の展開となったことに頭がついていけるはずもなかった。投げかけられた言葉が処理できずに脳内でから回る。
「……見ての通り、僕は感情が顔に全く出なくてな。王都の噂好きの令嬢たちからは、何を考えているか分からないと、完全に事故物件扱いだ」
――そんなことある!? それを差し引いても十分優良物件でしょ、ヴィンセントさまは!?
とマリアベルは思ったのだが、世間的、特に結婚適齢期の令嬢たちの世代にとっては、そんなこともないらしい。ヴィンセントは公爵家の息子であるが嫡男ではないし、王太子付きとはいえ役職上は城務めのいち文官に過ぎない。あの忙殺具合も考えたら、パートナー、ひいては家庭を省みる時間を取れるかも怪しく、その上あの無表情、そして言葉の少なさなのだ。王都の逞しい上位貴族令嬢たちは、もっと上の条件を持つ相手をと望んでいるのだろう。
マリアベルは青ざめる。ヴィンセントが事故物件扱いになる王都、恐ろしすぎる。そんなもの予想出来てたまるか。
そんなマリアベルの様子に気づく余裕もないらしいヴィンセントは、あまり得意ではないのであろうに、何とか伝えようと言葉を選んで話し続けた。
「君も、僕をつまらない男だと、理解出来ないと思うかもしれない。けれどどうか、……忘れないで欲しい。……僕は、夫である限り、君を愛し続ける。その努力を惜しまない。それだけは、信じて覚えていて欲しい」
薄暗がりに映るヴィンセントの表情は今も硬いままだが、その頬が、目尻が、耳が赤くなっていることに、マリアベルは漸く気がついた。マリアベルの心臓が、先ほどとは違う原因でばくばくと高鳴り始める。
――あい、愛するって。だって、そんな、それじゃ。
「マリアベル、君が、僕をどう思おうと構わない。ただ、僕が君を愛することを許してくれ」
マリアベルはもう、限界だった。頭から湯気が出ているかもしれない。両手で顔を覆って膝に伏せる。――こんなことってある? 愛することを宣言されてるってこと? どうしてそうなった!?
「なんで、だって、今日、全然目線も合わなくて」
「……う。あんまり、君が綺麗で、その。直視できなかった。……今も」
「だいたい、わたし、見も知らぬ田舎者なのに」
「……知っている。君は覚えていないようだが」
「うそ!」
驚きすぎてマリアベルは反射的に顔を上げた。それが運の尽きだった。綺麗な碧色の瞳、その奥にどろりとした熱がとけている。色めいた視線を余すことなく浴びたマリアベルは、あっさりと白旗を上げ陥落した。
何を考えているか分からないなんて、ありえない。表情が乏しくても、言葉が足りなくても、この目が全て語っているじゃない。
「マリアベル、……ベル」
掠れたテノールが、甘ったるく名を呼ぶ。
マリアベルは思い返す。自分は結婚して、今夜は初夜で、ここは主寝室で。
そして自分は完全に落ちてしまった。
「まずは、今夜、一晩かけて君に証明する」
そっと抱え込まれ、彼が擦り寄るように耳元に唇を寄せた。背中をぞくりと悪寒に似たざわめきが走る。マリアベルの息がヒュッ、と詰まった。
「愛させて、ベル」
長い、本当に長い初夜の始まりであった。
◇
ヴィンセント・デュナンは何の変哲もない公爵家の次男である。嫡男である兄は優秀で、既に婚姻し甥も誕生しており、彼にスペアとしての役割が回ってくるようなこともない。
成人したのち、選択肢の中から選び取った騎士という仕事を数年こなしたが、少しばかり大きな怪我をしてその職を辞すことになった。兄のスペアとしてそれなりに修めていた学問の知識と、騎士のときに世話になったひとたちの人脈のお陰で、ヴィンセントは城務めの文官へと転向した。怪我の痕は残ったが、利き腕ではない左の上腕から肘にかけてであり、他人においそれと見られるような場所でもなく、文官としての書類仕事に差し障ることもなかったのは幸運であった。
そこから数年、実直にこなした仕事の結果と、かつて騎士として働いたがゆえの危機察知能力を買われ、王太子の側付きを命じられた。王太子はそもそも兄の幼馴染であり、よく見知った間柄であったから、断る理由もなかった。
だがこれがヴィンセントの地獄の始まりでもあった。なにせこの王太子という人物が、とにかく優秀である一方、ありえないほど自由奔放でもあったからだ。思い立ったが吉日と新しい仕事を山と積み、それが終わる前に次の視察に出てしまう。不思議と帳尻は合うのだが、それに付き合う数人の側付きたちは、常に忙殺され、一様にぐったりとしていた。
ヴィンセントという男は、兼ねてより感情が表情に現れにくい性質をしていたが、騎士としての厳しい訓練を経てそれが悪化し、さらに王太子の暴挙ともいえる殺人的な仕事量により、ついにその表情筋は臨終した。
親しいものや同じ側付きの者を除き、周囲からは冷徹非情な仕事人間と恐れられ、しかしそれを否定して回る気にもなれず、惰性の中で黙々と仕事をこなす日々であった。実家から飛んできていた結婚の催促など、気に留める余裕すらない。だいたい、ヴィンセントの造作が人並みに整っていても、声を掛けてくる女性なんてこの王都にひとりたりともいないのだ。ヴィンセントはすり減っていた。そして、恋愛なんてものに関しては、完全に匙を投げ、諦めていた。
◇
その日は王太子が参加する夜会に、護衛として付き合わされていた。自分はもう騎士を辞しているわけであるが、時折王太子の思いつきで近衛の制服を着せられ、伴われることがある。その割に会場に着くなり放逐されるので、一体何のために来ているのか、ヴィンセントには毎度さっぱり分からない。
この日もいつも通り、開始三分で王太子と別れることになったヴィンセントは、真面目であるから暫く王太子がホールで踊る様子を見守ったあと、本物の近衛たちの配置をぐるりと一瞥し、特に問題がないと確かめて、会場から庭へと出た。どうせホールにいたところで、声をかける相手もいなければ、かけてくる相手もいないのだ。適当に時間を潰すに限る。手近な壁に寄りかかり、疲労感にぐりぐりと目頭を揉む。
朗らかな鼻歌が聞こえてきたのは、そのときだった。
やや上方のバルコニーの方からだ。余りに楽しげで軽やかなその声に、ヴィンセントは耳を澄ませた。
「ごはん、美味しい。お酒、美味しい。これだけなら、夜会も悪くないな」
上機嫌な独り言。ふんふん、と鼻歌が混じる。
「殿方とダンスもお喋りも今日はなし、次回に乞うご期待! ってことで。おばさまごめんなさい。マリアベルは今日はやる気になれませんでした、っと」
んふふ、と笑みを零していたその声の主は、バルコニーから何の気なしに下を覗き込み、はたと動きを止めた。会場の明かりに照らされた柔らかな銀糸、同じ銀の睫毛に縁取られた紫の瞳。成人したばかりくらいの、美しく年若い令嬢がそこにいた。城務めかつ王太子のせいで方々に付き合わされているヴィンセントが、見た覚えのない女性であった。
目線が合う。妙齢の女性と、怯えのない視線を交わすのなんて、いつぶりのことか。ヴィンセントの驚きなど知ったことはない女性――マリアベルと言っていたか――は、ワイングラスを揺らしながら、あちゃあ、と苦笑している。
「いまの、お聞きでしたか、警備の騎士さま」
これは警備の衛兵ではなく、近衛の制服であるのだが、彼女は騎士服の違いに詳しくないらしい。特に訂正をすることもないかと、そこには触れずに素直に頷いた。
「内緒にしてくれます? バレたらおばさまに叱られちゃう」
「……何故?」
「お相手探してこいって、お尻叩かれてるんです。なのにご飯とお酒と夜空だけ楽しんでたなんて、悪い子でしょ?」
グラスを傾けて、マリアベルは無邪気に笑う。あまりに眩しく、綺麗な笑顔に、ヴィンセントの息が詰まる。
「……承知した」
「ふふ。助かります。ごめんなさいね、騎士さまはお仕事中なのに」
断ってからこくこくと酒を飲み下したマリアベルは、ふと、暗がりにいるヴィンセントの方を見つめてきた。何かを探るような視線に、思わずヴィンセントの眉根が寄る。
「何か?」
視線が鋭くなり、硬い声が出る。けれども、マリアベルの柔らかな空気は変わらない。
「大丈夫ですか? お疲れでは?」
ヴィンセントは掛けられた言葉に酷く動揺してしまった。感情が殆ど表に出ないヴィンセントは、初対面の相手、それも表情の読みにくい薄暗がりで、そんな風に悟られたことなどなかったからだ。
「どうしてそんなことを」
「目を見たら分かりますよお。わたし、田舎で動物に囲まれて暮らしてて。動物も人間も、感情って目に出るから」
とんとん、と細く白い指を目の下に当てて、マリアベルが笑う。
「わたし、ここでお酒をたしなみながら、代わりに見張っています。騎士さまもわたしを見習って少しサボっておいたらいいですよ」
共犯のお誘いです、などと、締まりのない顔で言われたヴィンセントの心のざわめきは収まらない。返す言葉も見つからず、ただマリアベルの紫の瞳を見つめた。目に出ると彼女は言うが、ほろ酔いであるらしいマリアベルの緩んだ表情と、その目に宿った感情が全く同じに重なるかどうか、ヴィンセントには上手く読み取れなかった。
会話はそこで終わり、と取られたようで、マリアベルの視線はバルコニーの上方、夜空へと逸らされてしまった。上機嫌な鼻歌が再開される。
――もっと、もっと、彼女の真っ直ぐな視線が欲しかった。
ヴィンセントは自分の脳裏に浮かんだ欲求が暫く信じられず、立ち尽くした。
結局その夜、ヴィンセントは王太子が呼びに来るまで、暗がりの中で柔らかで優しい旋律を聞き続けた。
◇
一睡もできずに翌朝を迎えたヴィンセントの行動は早かった。実家の公爵家に連絡を取り、その敏腕でマリアベルの名から彼女がグノー伯爵家の令嬢であること、叔母のタウンハウスに身を寄せていることを調べ上げ、丁寧に心を込めて手紙を認めると、それをタウンハウスへ送った。
彼女は叔母の言いつけで相手を探していると言っていた。急がねば今日にも相手が決まってしまうかもしれない。
マリアベルの視線と表情に、ヴィンセントは吸い寄せられるように心を決めていた。
婚約を受けると返事が来たときは本当に嬉しく、すぐにでもヴィンセントはマリアベルに会いに行くつもりだった。けれど地獄は続くもので、王太子の思い付きによる長期公務が舞い込み、ヴィンセントは隣国へと連れゆかれるはめになった。
これは早々に婚姻し、合法的に家で会えるようにでもしなければ、マリアベルとの時間など取れないに違いない。
ヴィンセントは最短での結婚式の予定を組んで推し進めた。実家の公爵家が願ったり叶ったりとばかりに、彼が不在の間も準備を滞りなく進めてくれたので、彼が帰国した二週間後には、無事式を挙げられることになった。
◇
帰国後すぐにどうにかもぎ取った自由時間で、衣装合わせをしていた時だった。マリアベルがサロンにやってきたのだ。
「……ヴィンセント、さま?」
名前を呼ばれ、ヴィンセントの心臓は早鐘を打つ。表情には少しも出ていないだろうが、あまりにも情けないので取り繕うように気を引き締めた。
「……、マリアベル」
名を呼び返してみるが、マリアベルの表情は明るくない。やはり、この無表情では、彼女をも怯えさせてしまうのか。ヴィンセントが気持ちを曇らせていると、何故だかいきなり、マリアベルがカーテシーをし始めるではないか。いったい何故急にかしこまることがあるというのか。
「はいっ、ま、マリアベル・グノーです! はじめまして、その、お帰りなさいませ……!」
――はじめまして。
そうか、彼女は自分があの『騎士さま』であると気付いていない。それに安堵するような残念に思うような、複雑な気持ちを抱えながら、続いたお帰りなさいの言葉に、彼女の素直なあたたかさを感じて、眉が下がる心地がする。
「っふ、」
吐息が漏れる。笑ったのだ、と思う。あまりにも久々で、自分でも良く解らなかった。
近付いて跪き、これまでの無礼に対する謝罪を乞う。覗き込んだ紫の瞳は、驚きに揺れていたものの、怯えの色は見えなかった。
あの夜、暗がりで見たほろ酔いのマリアベルと、寸分も違わぬ印象の令嬢が、自分の前に立っていてくれる。ヴィンセントはそれだけで満たされたような気持ちだった。
マリアベルが衣装を着たところを見たかったが、数分会話をしたかというところで、時計に急かされ店を出た。彼女と会えたというだけで、あと二週間、頑張れる気がする。ほんのわずかな幸運を噛み締めて、ヴィンセントは仕事へと急いだ。
◇
結婚式当日。ヴィンセントは支度を整えたマリアベルのあまりの美しさに、まともに視線をやることすらできなかった。気の利いた言葉ひとつ出てこない。そのせいか、式の間ずっと、マリアベルの心はここにあらずといった様子だった。誓いのくちづけさえも気がそぞろで、視線が合わない。
ヴィンセントは焦った。マリアベルが自分を想ってくれなくても、それは仕方ない。突然の婚約、よく知らない男をいきなり伴侶にせよ、愛せよと言われても、難しいだろう。けれども、少なくとも自分は。ヴィンセントは、マリアベルが好ましい。愛したい、愛させてほしいと思う。けれども、まともな表情を作れず、目も合わない状況では伝えたいことも伝わらない。
言葉を尽くすしかない。ヴィンセントは心を決めた。誰の邪魔も入らない、初夜の寝室。そこでマリアベルに向き合って、伝えよう。
そうしてヴィンセントは、「君を愛することを、生涯を賭けて誓おう」と告げ、「愛させて」と懇願し、これでもかと丁寧に彼女を一晩中抱いた。
マリアベルの蕩けた目は、正しく自分の心を読み取ってくれていたと思う。これ以上嬉しいことはヴィンセントにはなかった。
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翌朝、ヴィンセントは「体が動かない」とふくれっ面のマリアベルにひとしきり小言を言われた。何の威力もない攻撃を受け流しながら、ヴィンセントはただただ可愛らしいな、とマリアベルを眺める。すると、マリアベルがぴたりと動きを止めて、頬を真っ赤に染めるではないか。
「どうかしたか?」
ヴィンセントの問いかけに、マリアベルがきゅっと眉根を寄せる。
「ヴィンセントさまが、」
「ヴィニー」
「ヴィ、ニー、さまが」
「ヴィニーだ、ベル」
「ぐ。……ヴィニーが!」
やけくそとばかりに飛び出した愛称を上機嫌に聞いていると、マリアベルが、「ほらまた!」と口を尖らせた。
「その目! そんな目をするんだもの! 駄々洩れで、耐えられない……!」
ヴィンセントは目を瞠って、そしてふは、と吐息を零した。
至近距離で自分を見ていたマリアベルが、ぽかりと口を開けたままこちらを見つめている。
「そんなに、分かりやすかったか」
――分かってくれるのは、君くらいのものなのに。
ヴィンセントは目を細める。マリアベルがきらきらと瞳を輝かせて頷いた。その目に映る感情が、彼女の柔らかな表情と重なりあう。
「疑いようもなく、信じてますよ。旦那様」
「――うん」
ヴィンセントは満足そうに頷く。そして、甘やかな視線を絡み合わせたまま、結婚式の誓いのくちづけをやり直すかのように、そっとマリアベルへと唇を寄せた。
マリアベル・グノー(18)
銀髪紫目の伯爵令嬢。ド田舎の領地から結婚相手を探しに出てきたおのぼりさん。田舎者の自覚がある。思い込みが激しく、素直で一直線。割とお喋りが粗雑。鼻歌がうまい。因みに本人に全く自覚は無いが、外見だけは大変な美少女。
ヴィンセントの声と文字と感情がありありと浮かぶ目が好き。
ヴィンセント・デュナン(26)
金髪碧眼の公爵令息。次男坊。成人後4年騎士をし、22歳の時に怪我で引退、その後文官になり、現在は王太子付きの配属。ブラックな職場で馬車馬のように働いている。表情筋は死んだ。口下手。中身はかなり純情で一途。愛は重い。
マリアベルの表情と鼻歌と自分の感情を余さず読み取る目が好き。
(追記)
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クロスフォリオにふたりの絵をしたためたりしています。活動報告から覗けます。一緒に楽しんで頂けたら尚嬉しいです。