2-49 「…………ノアさん?」
「だからガールフレンドじゃねぇって」
唇を尖らせながら歩く親友に、苦笑いを浮かべていた。
確かにイヴェットとの関係は傍から見ればそうだろう。しかし、こう言うのはそんなノリに委ねる物では無い。
「それにほら、お前の分もあるってさ」
夕方だろうと工業区は相変わらず人が多い。工場の煙突は絶えず蒸気を排出していて、荷物を運搬している馬車も多く馬の嘶きが構内アナウンスのようにあちこちから聞こえてくる。工場が密集している事もあり、不意に油臭さを感じる事も多い。
「今はその話はしていませーん。良いよなー、イヴェットさん育ちの良いお嬢様って感じでー」
むすくれたままの表情のドミニクはこちらを見る事無く、ブーイングが如くイヴェットの話を繰り返した。
ふう、と溜息を吐きこうなったらと相手のフィールドに乗る事を決意する。
「……意外と気ぃ強いけど、イヴェットは確かにお嬢様って感じするよな。ユスティンも一緒に住んでるもう1人も、すげぇ過保護だし。あれはもし付き合ったらプレッシャー凄いと思うわ」
「ん? ん〜?」
自分がイヴェットの話題を始めた途端、鉄橋をカツカツ歩いていたドミニクが待ってました、とばかりに垂れ目を細めた、ような気がする。己の下半身も見えないような霧なので、良く分からない。
ここまで見えにくい霧の中歩く気になったのは、今の時間ならまだヴェンツェルが大学に居るだろうと思ったのが大きい。
目を伏せた自分に、ニヤついているだろうドミニクが楽しそうに話し掛けてくる。
「って事はクリストフさん、お付き合いされる気はあるんですね〜?」
「さーな。ってかこの辺りって本当に霧が濃いよなー。霧の質も他とちょっと違うんだろうな、隣に居んのにドミニクの顔が見えねぇ」
「ふっふっ。ねーオレもノアの顔が見えない! これは問題だよ、妹達が履いてた音の出る靴履く? 取ってあるよ」
自分から少しでも話を引き出せて満足したのだろう。一転して機嫌が良くなった親友は楽しそうに笑い、何時ものように話に乗ってきた。
「いや良い、絶対入らねぇし」
その事に胸を撫で下ろすも、鉄橋の上にいる関係寒くなってきて肩を縮こませる。
「バレたかっ!」
機嫌が良くなった親友がカラッと笑う。数歩先を歩く姿はもう輪郭も見えなかった。
「あ、そろそろ教会だよ。もうすぐ愛しのイヴェットさんに会えるね!」
「だからな〜何ですぐそういう事言うよ」
鉄橋を渡り終えると教会はもうすぐだ。霧が無かったら今頃白い壁が見えていただろう。
「こう言う日は声を出して歩いた方が良いですからねーっ!」
ふっふっふと笑うドミニクがわざとらしく声を張った時。
前方から少女の快活なソプラノが聞こえて来たのだ。
「ノアさーん! ドミニクさーん! 居るのー?」
イヴェットだ。直ぐ分かった。どうやらドミニクの声で気が付いたらしい。
「お」
この辺りの霧を払ってくれそうな明るい声に自分も反応する。
「あ、わざわざ道まで出て来てくれたみたいだね。イヴェットさん有り難う〜!」
「居る居るー! イヴェット、今日は有り難うなー!」
ドミニクに散々言われているので気恥ずかしく応える声も短かったが、イヴェットが気にした様子はない。
「ううん、お礼を言いたいのはこっちだよ。ドミニクさんもわざわざ着いて来てくれて有り難う〜、急に電話してごめんね、驚いたでしょ」
パタパタ、と軽快な靴音がこちらに近付いて来る。ここで暮らしているだけあって、濃霧には慣れているのだろう。足音に迷いがない。
「いえいえ〜店に友達が掛けてくる事、クロス家じゃ多いんだ。だから気にしないでよ」
イヴェットと合流するべく、マッチの火程度にガス灯が主張している道路の向こうにドミニクが先に渡っていく。
「あっ、おい! ったく……」
自分も後を追おうと思ったが、鉄橋側から蹄の音が聞こえて来たので止めた。無理に渡ってタイヤに踏まれたくない。
そう思って親友の消え行く背中を見送った、その時。
ガサッ! と。
背後で何かが動いたのだ。
人が通っただけだと思って気に留めなかった一拍後。
「──っ!?」
道路を馬車が横切った時、突然背後から口元を押さえつけられたのだ。
何が起こったのか分からなかった。理解する暇もなく、プツリと意識が途絶えてしまった。
***
イヴェット・オーグレンは、尻尾を振っている犬のように近付いてくるドミニクの声に体を向けて応えていた。
朝から用意していたクッキーは、お洒落なスチール缶の中に入れて御礼のメッセージを添えて手提げ袋の中に用意してある。後はこれをノアに渡すだけだ。
美味しいと思ってくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。
考えるとドキドキして、ノアが霧の中から現れる瞬間を直視出来なかった。
視線が自然とドミニクに向く。犬のようなこの少年は話しやすい。
「そう言ってくれて有り難う。ね、ノアさんと叔父さん喧嘩しなかった? 叔父さんはしなかったって言ってたけど」
「いや~ちょーーーっとしてたよな、クリストフさんっ?」
ほんの少しだけ刺々しく、けれどユーモアを込めてノアにドミニクが話し掛ける。馬車が通り過ぎていったので、あの赤毛の少年もこちらにもう到着する筈だ。
──なのだが。
「…………ノアさん?」
ノアがこちらに向かってくる気配がしないのだ。
遠ざかっていく馬の蹄の音、近くの煙突から聞こえてくる排気音、マンションの前で荷物を運搬している業者達の出し入れしている声。
それらしか聞こえない。
「ノア?」
おかしい、と思ったのは自分だけでは無いようだ。ドミニクもノアの気配が無い事を訝しみだした。
「ノアさん?」
「えっ、居ない? さっきまで声してたけど……」
人間が突然蒸気のように消えるなんて事は有り得ない。
と言う事は。
「まさか誘拐……っ?」
思い至るのは、何かの悪い冗談で先月の自分のように連れ去られた可能性だ。
そうだ。思えばその可能性があるからこそ、現像科の前で会ったリチェはノアを気にしていたのではないか。
ボソッと言った言葉にドミニクがガバッと勢い良くこちらを向く音がした。
「切り裂きジャック!?」
「えっ?」
「あいつ切り裂きジャックに狙われる要素持ってって、警察にも注意しとけって言われてたんだ……っ! だからオレの家に居たのにっ!」
そう声を張る少年の声は何時もよりずっと動転していた。真剣なその声に、やはり、と事態を飲み込んでいく。この霧の濃さは、血に飢えた殺人鬼が隠れ蓑に使うには確かに丁度良い。
「じゃあ、えっ、ノアさんー!?」
「ノアー!! どこ行ったー!?」
「ノアさんー!!」
ドミニクと一緒に少年の名前を呼び周辺を探していくが、返事は何処からも聞こえて来ない。それはノアの身に何かあった事を如実に物語っていて、夕暮れ時の寒さも相俟って体が震えてきた。
「っ警察呼ばないと……!」
この状況で警察が出来る事は限られているだろうが、呼ばないよりはずっとマシだ。
──そう思い振り返った時だった。
「いたっ!」
ドンっ! と勢い良く人とぶつかったのは。




