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蒸気の中のエルキルス  作者: 上津英
第5章 それは追い詰められた蒸気のように

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2-46 『あー……やっぱクリストフさんですよねー……。待ってて、今ノア隣に居るから』


 つらつらとヴェンツェルの半生を述べていたリチェは、一度気合を入れるように咳払いをした後、許可を求めるように課長に顔を向ける。


「課長、って事で裁判所に家宅捜索令状を発行して貰いましょう」


 呆然と話を聞いていた課長は名前を呼ばれてハッとし、思い出したように深く頷いた。


「だね、ノア君に嘘ついてたのも十分怪しいし。今要請したら夕方までには出るかな……大学に行ってるなら証拠を隠滅する暇は無いだろうしね。発行され次第行くよ!」


 課長の号令に何人かが頷いた後、刑事課の面々は再び思い思いの場所に散らばっていった。

 人が減った自分の周りに近寄り、先輩は申し訳無さそうに続けてきた。


「クルト、言わなくて悪かったな。お前には別の仕事を集中してやってて貰った方が良いと思ったんだ」


 確かに下水の事も、切り裂きジャック以外の事件もあったので、その判断は効率が良かったと思う。女性関係かと一瞬疑ってしまったが。

 だから首を横に振ると、リチェがホッとしたように歯を見せて笑った。


「なら良かった、有り難うな! ヴェンツェルのところ、何時でも行けるよう準備しとけよ」


 ん、と頷き散らかっている書類を片付けにデスクへ戻った。

 その際チラリと窓の外を見たが、今日のエルキルスは寒そうで何時霧が出てもおかしくなさそうだな、と思った。


***


 アンリの友人が切り裂きジャックに殺されたらしい。ラジオで報じられたそうだ。

 なのでアンリは昨日からずっと落ち込んでいて、玉ねぎを切る際良く着用しているゴーグルを忘れるくらいだった。

 昨晩、アンリは牧師館を出る前に「ごめん、明日朝食作ったら2人で食べててくれる? 俺要らない」と言って来た。あの青年の事だ。万が一にも友人の死を思い出して、涙目になった顔を自分達に見られたくないのだろう。

 気持ちは分かったので頷き、朝食と弁当を作り叔父にハッシュドポテトとトマトとチーズトーストを出し、今自分は自室で探し物をしていた。


「あれどこにやったかな~……あっ、あった!」


 主にテーブルの周辺を片付ける事数十秒。漫画の下に目的の物を探し出した。

 探していたのは、ドミニクから貰ったノベルティのメモ帳だ。

 茶と青でシックにまとまったタータンチェックの台紙を捲ると現れる白紙には、バーバーエルティボの電話番号が印字されている。

 この数字を知りたかったのは、ノアに電話したかったからだ。

 ノアに電話したいのには理由がある。

 スケアリーへ正直に話した事もあって気持ちに余裕が出て来た今。思い出したのは、写真を撮らせてくれたノアへの礼だった。スケアリーに正直に言う気になったのも、思えばノアに対して申し訳無い気持ちがあったからだ。そう思うと気合いが入った。


 クッキーを渡すつもりだ。あの時お世話になったドミニクの分も作った。少し多めに焼いたので、ドミニクの家族にも行き届くと思う。

 思えば身内以外に料理を食べて貰うのが初めてなので──日曜礼拝後の昼食会は流石にアンリが1人で作る──入学式当日、教室で自己紹介した時なんて目じゃない程緊張している。

 浮足立ちながら電話機の前に立った。こんな朝に電話を掛けても大丈夫だろうかと、コール音を聞きながら軽く後悔した。美容院ではなく床屋に電話をしている事にも緊張する。

 が。


『お電話有り難う御座います! バーバーエルティボです』


 すぐに陽気な男性の声が受話器から聞こえて来たので安心した。きっとドミニクの父親だ。


「あ、朝早くに申し訳ありません、理髪でもなくて……あたし、ドミニクさんの友達のイヴェット・オーグレンと言います。お店に掛けて申し訳ありません。ドミニクさんに替わ――」

『あー! 勿論替わりますよ、すみません数分待っててくださいね~。いやーあいつに女の子から電話が来るなんて……』


 最後まで口にする前に感極まった父親が大きな声を出し、すぐに保留音に切り替わった。

 本当はノアに替わって貰った方が早かっただろうが、ドミニクにも先日叔父がお世話になったお礼を伝えたかった。


「お店やってる人ってパワフル~……」


 言われた通り待つ事数分、ブツリとドミニクの声が聞こえてきた。


『はいは〜い、お電話替わりましたドミニクでーす。イヴェットさんこの前は有り難うね、お兄さんの髪気に入ってくれた?』


 朝一番に聞くのにピッタリな清々しい声に目を細めた。


「あっドミニクさんお早う御座います〜。先日はこちらこそ有り難うございました、おかげで叔父さん格好良くなったよー。あ、それで……ドミニクさんにも挨拶しておきたかったのは本当だけど……あの、ノッ……ノアさん居る? 5分くらい話したい事があるんだけど、替わって貰っても大丈夫そう?」


 ぽつぽつと用件を伝える。ノアの名前を口にするのは、前からこんなに緊張しただろうか。


『あー……やっぱクリストフさんですよねー……。待ってて、今ノア隣に居るから』


 耳の垂れた子犬のような声でドミニクは言うと、『やっぱお前だってー』と受話器の向こうから聞こえてきた。

 それから数秒もせず、何時もよりもきょとんとしている声で電話主が替わった。


『はい、ノアです……けど?』


 不思議そうな声が鼓膜を擽り、どっと心臓の鼓動が強くなる。


「あっ……ノアさん? お早う御座います〜イヴェットです。登校前にごめんね」


 自然と頬が持ち上がった。


『いや別に良いけど、どーかした?』

「あ! あのですね! この前写真撮らせて貰ったでしょ? それでお礼にクッキー作ったの! 今日渡せたら、って思ったんだけど、どう?」


 思うに手料理を渡す、と言うのは結構重たい気がしてきた。数時間前オーブンレンジの前に居た自分は何故己の行動に疑問を抱かなかったのか。

 しかし。


『へ。本当に作ってくれたのか? 有り難う、嬉しい……なんか、え、本当に良いのか?』


 驚きに満ちた声には、こちらに失望したような感情は一切込められていなかった。

 良かったとホッとする。やっぱりこの少年は優しい。


「勿論だよ! 貰ってくれて私も嬉しい〜、有り難う。ねっ、何時渡したら良い?」

『今日が良いよな? それじゃー……あ、店手伝わなきゃなんだっけ?』

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