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蒸気の中のエルキルス  作者: 上津英
第4章 それは止まれぬ蒸気のように

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2-37 「切り裂きジャックかなあ」

 声が変に裏返っていないか心配しながら、濡れたタオルを脱衣場の中を見ないよう注意しながら放りリビングへと戻る。垂れ流していたラジオが夕方の交通情報を報じていた。


「ドミニクさんの手前していないかと。あの人、私の事イヴェットさんの兄だと思ってくれたんですよ」


 内心胸を撫で下ろす。

 会えば喧嘩している──主に叔父が吹っ掛けて──2人も、喧嘩をしない時があるようだ。きっとドミニクが上手く取り持ってくれたのだろう。あの人懐っこい少年を、叔父は気に入っているような気がする。


「良かったね」


 叔父までリチェのような事を言っているのが面白くて、クスリと笑って返す。


「では、お風呂入って来ます。早く髪乾かしてイヴェットさんに新しい私を見て頂きませんとね!」

「はいはい」


 以降廊下から音がしなくなると、代わりに雨が窓を叩く音が強まった。


「こんな雨の日に読む手紙って、面倒臭く思われたりしないかなあ……」


 粗悪なインクで無ければインク滲みは無いが、便箋はどうしても水に濡れてしまう。郵便局がその辺りは気を遣ってくれるだろうが、人によっては鬱陶しく思わないだろうか。


「思われないと良いな」

 天に祈りながら窓の外を見る。

 これだけ降っていると出歩く人は少ないだろう。天候に紛れて、ミトズロッドの生徒が──ノアが──切り刻まれないと良い。


「……うー」


 今ノアの顔を思い出すと、罪悪感で胸の奥がチクリと痛んだ。


***


 19世紀の切り裂きジャックも、案外自分のように臓器が見たかったのかもしれない。


「こんなに雨が降った後に人を殺せるなんてついてるなあ」


 窓の外を見ながら、ヴェンツェル・ラグナイトはにぃっと呟いた。

 夕方から降り出した雨は先程止んだ。

 雨が降った後は霧が出やすい。霧があると人を殺しやすい上、土曜日だと人々もホームパーティーで酔っ払う傾向にあるので出てこない。だから土曜日なんかを決行日に決めたのだ。


「さてと……」


 マンションの玄関ドアを開け、解剖用具セットを入れた鞄を大切に抱え直す。思った通り霧が濃い中、静かな通りを歩いていく。

 馬車道と歩道を分ける鉄柵。

 何時もここで、エンリケと呼ばれている中年ホームレスが缶ビール片手に座っている事も調査済みだ。今日が己の命日になる事も知らずに座っている男を目にし、ふっと目を細める。

 この男を殺そうと思ったのは、狙いやすそうだから、と言う理由だけではない。愛飲家の肝臓が見たかったのだ。


「すみません」


 エンリケに声をかける。男が訝しげにこちらを向いた。

 霧の中でも自分の姿が目視出来るよう、エンリケの直ぐ近くに行く。面白くないが、小柄な自分は姿を見せた方が相手を油断させる。


「ん?」

「道を教えて貰えませんか? この近くに家がある筈なんですけど、こう霧が出てたら分からなくて」

「あ〜兄ちゃんこっち来たばっかなんか? そりゃ大変だ」


 北部訛りがあるおかげか簡単に信じて貰えた。ニコッと人好きのする笑顔が返って来る。


「良ぇよ。どこ?」

「何て名前だったかな、川沿いの青いマンションです」

「あ~あそこかな? 着いてきな」


 自分に背を向けて先導し始めたエンリケを見ながら、ケースからメスをそっと抜き取り左手に持った。


「お兄ちゃんこっちに勉強しに来たんか? それとも就職か? 何やってんの?」


 一際奥まった路地を進んでいると、ふとエンリケが話し掛けてきた。朗らかな声にニッと答える。


「切り裂きジャックかなあ」

「え?」


 世間話のような調子で答えると、何を言っているか分からないとばかりに聞き返される。

 エンリケが振り返ろうとした瞬間、手にしていたメスを持ち上げて背後に回った。死神が鎌を引く時のように、喉に当てたメスを一気に引く。


「っ──」


 ブシャッ! と勢い良く吹き出た血が地面に落ち、骸と化した男の体が崩れ落ちる。


「ふふ……ははははは!」


 人の頭を見下ろすのは気持ちが良い。

 笑いながら返り血に気を付けつつ開腹作業に取り掛かる。この作業は慣れているのですぐ行える。授業でも無いのですぐに目当ての臓器まで辿り着いた。


「あーー、これが見たかったんだよね」


 エンリケはアルコール愛飲家なのでどんな汚い肝臓が出てくるかと思っていたが、手に掴んだ肝臓は思っていた程傷付いてはいなかった。

 さすが個体差の激しい肝臓だ。面白い。


「あーーー……」


 しかし肝臓をじっくり見るのはここではない方が良い。

 分かっているので鞄に、ガラス瓶に納めた肝臓を雛鳥に触る時のように丁重に置いた。スケアリーに文句を言われぬよう、外科の勉強も兼ねてあちこち切り刻んでもおく。殺害現場は浴槽ではないものの、これで模倣犯だと言い張れるだろう。

 ばしゃばしゃと水溜まりを駆けながら、ヴェンツェルは鞄を抱き締めてその場から離れていった。


***


 今日の朝は目覚まし時計が鳴る前に起きてしまった。

 お小遣いが手に入る日なので、遠足当日の小学生のように自然と目が覚めてしまったのだ。

 今日アンリ・アランコはジャンヌに違法監視カメラの写真を渡す予定だ。

 どうやらジャンヌは今南部に出張に行っているらしい。「犯人の写真が入手出来た」と留守番電話を入れたところ、直ぐに折り返しが掛かってきたのだ。

 ジャンヌはエルキルスに戻る今日、お金を下ろしてすぐ写真を取りに来ると言う。日曜礼拝の準備でこちらが忙しくなる前に、駅から直接教会に寄ってくれる事に決まったのだ。


「ふあ〜でもやっぱり眠い〜……」


 欠伸を噛み締めながら灰色の作業服を着て、1階の集会室に向かう。今朝は牧師館で朝食を食べない事をイヴェットに伝えてあるので、集会室の冷蔵庫──日曜礼拝の後は昼食会を開く為、パンや卵が入っている──から適当にトーストとスープを作って食べていた時。

 ドンドンドンッ!! と教会の扉を強く叩く音がした。


「えっはやっ」

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