2-36 「下水……」
「前匿名でエルキルス署に告発書送ったんですけど、これじゃ回りくどすぎるよな~やっぱ直接じゃないと駄目だよなって思って。伯母さんに相談したら、自分のアパートに警察官が居るとの事で甘えてしまいました」
告発書。
その単語に、いつか警察署に届いたスコットランドヤードからの手紙を思い出し目を見張る。
あれの送り主はこの人だったのだ。確かに水道局員ならスコットランドヤードも知っているだろうし、この若さなら言いにくい事情もあったろう。と言う事は、この人は切り裂きジャックについて何か知っているのだ。
「匿名でお話したいのは……先月、上司が下水を売ったところを目撃したからで」
身構えた自分の耳に飛び込んできたのは「下水」という意外な単語だった。
「下水……」
念密に下水を調べれば、性別や髪色と言った遺伝子レベルの個人情報を割り出せる。
時間と費用はかかるがマンション単位で割り出せるので、指名手配犯の居場所は下水から絞り込む事が多い。
一般市民が、違法ルートで下水を悪用する事もある。大切な人を殺された遺族が、探し出した指名手配犯に復讐する事例は多くはないが少なくもない。
なので、下水を売る事は殺人幇助と見倣され固く禁じられている。が、エルキルスにはそれを破った人間が居るようだ。
「しかもその売った下水ってのが、ミトズロッド公立高校の物だったんです。何で高校の? とは思ったけど、先月は問題を起こしたくなくて黙ってたんです……その人一応上司だし。そしたらあの高校、最近良く名前を聞くじゃない? あーこれは絶対関係があるっ! って思って密告したくて。でも匿名が良くて、こういう形にさせて貰ったんです」
「え?」
ミトズロッドの下水が売られていた。
それは確かにこの連続殺人事件と関わりがあってもおかしくない。
寧ろ下水が関係しているのなら、赤毛の男子生徒ばかり狙われていた事にも、それなりの説明がつくのではないか。
告発書の言い回しもあえて大人にしたのも納得だ。これは教師だけを疑えない。
「……」
ノアの読みは当たっていたのだ。
切り裂きジャックはミトズロッドの赤毛の男子生徒に、何かを見出した。
空白の1日だって、この間に何らかの検査や照合をしていたのなら辻褄が合う。検査は時間が掛かる事の代名詞なのだし、お菓子を貰っていたのも検査に影響が出ないようにかもしれない。
香水の匂いが充満した自室も、苦手な女性と向き合ってるのも嫌だったが、これは欠けたピースを埋める大きな情報だ。ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
「あの…………あっと、それ、は、凄い有益な情報だと、思います……有り難う、ございます。俺、担当で。切り裂きジャック事件の。だから、嬉しいです……! そっか……!」
「あっへえそうなの?」
釣り目の女性が微かに驚いていたのは、自分の雰囲気が変わったからだろう。
「あの、匿名性は遵守しますので……。ご協力、有り難うございました。俺、ちょっと電話……」
慌てて椅子から立ち上がり、部屋の隅で佇んでいる滅多に仕事をさせてあげられない電話機の元へ向かった。
刑事課にこの事を知らせねば。
「じゃあ私は失礼します、時間を作ってくれて有り難う」
フルメイクの女性は相変わらずキョトンとしたまま、礼儀正しく部屋を後にした。ちらっと見たその後ろ姿は、荷物が減ったかのように足取りが軽くなっていてほっとする。
「……あっ課長……! ダンフィードです、ちょっとお話したい事が……!」
香水の華やかな残り香が漂う自室。
クルトは受話器の向こうに、今しがた聞いた情報を伝えていた。
***
雨だ。
それも結構な。
「ひゃ〜、も〜こんなに降るなんて言ってたっけ!」
今朝の天気予報に騙された小さな憤りをぶつける。
牧師館の狭い庭に出て、イヴェット・オーグレンはシャツやスカートを取り込んでいく。スケアリーの事が気になって気付くのが遅れたので、洗濯物は着衣水泳でもしたかのようにびちょびちょだ。
叔父は散髪に、隣人は昼寝中なので、今動けるのは自分しか居なかった。
「叔父さん大丈夫かなー…?」
自分の下着を見られたくないのでその点では感謝しながら、外出中の叔父の心配をする。雨でも平気で濡れる文化が残る国だが、このようにシャワーのような雨だと流石に心配になる。
その時、牧師館からふと青年の弱々しい声が聞こえてきた。
「ただいま帰りましたー……」
叔父の声だ。
雨音が邪魔をして玄関扉を開ける音が聞こえなかったらしい。
「おかえりなさ~い! 廊下上がらないで、ちょっとそこ居てね~!」
牧師館の中に向かって声を張り、救出した洗濯物を脱衣所に放りながら白いバスタオルを代わりに持って玄関で一息吐いている叔父に駆け寄る。こうびしょ濡れだとどう髪を切ったのか分からない。
「雨大丈夫だった? はい、タオル」
「はー……、有り難うございます。大丈夫ではないので一度お風呂に入って来るとします」
バスタオルを受け取り頬を持ち上げた叔父は、顔や髪を拭きながら疲れきった声を漏らした。
「あっじゃあ、あたしお湯入れてくるよー」
「ああいえそれには及びません。有り難う御座います」
ある程度の水分を拭った叔父は遠慮がちに廊下を歩いていくが、どうしてもフローリングに水溜まりを作る。脱衣所に入っていった叔父を見送りながら、しゃがんで叔父から奪ったタオルで床を拭う。
「……イヴェットさん、なんか立派になりましたよねえ。少し前のイヴェットさんなら廊下拭かなかったでしょうに」
「あたしも色々ありましたからね~」
「そうですね、経験を糧にされていて素晴らしいです」
浴槽に湯を張っている音が聞こえる中、リビングに戻った自分と脱衣所の叔父との会話は続いた。褒められたのが嬉しくて唇が持ち上がる。
「友達……って、ノアさんの事だったんですね」
「えっ!? 言わなかった?」
会話が途切れた後、不意に切り出された話題に心臓が口から飛び出しそうになったし、叔父がその名前を出した事に驚いた。
「言われてはいましたが、ノアさんがその床屋で髪の毛を掃いている事までは。今ドミニクさんの家にお世話になっているそうですよ。切り裂きジャック対策だとかで」
「え、あ〜今一人暮らしらしいしね、ノアさん。うん、そっちのが絶対良いよ! 喧嘩しなかった?」




