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蒸気の中のエルキルス  作者: 上津英
第2章 それはうそぶく蒸気のように

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2-11 「今霧が出てるんだ、お前はさっさと殺さないと」

 こちらを振り返ってスケアリーは言う。この女性は小柄な自分より背が高く、冷たさを感じる碧眼がこちらを見てくる。この目が嫌いだ。


「もう良いのか? 浴室は……」

「良いよ。彼等を殺す必要はそもそもあんまり無いから、少し可哀想だしね」


 そういえばそうだった。

 彼等を殺すのは、あくまでもスケアリー側から自分への報酬なのだ。それは悪いね……と歯切れ悪く言い、玄関に向かった後ろ姿を見送る。

 スケアリーは自分に殺人を依頼してきておいて、被害者に同情する。突然の女性らしさと言い、随分とまあ二面性のある性格だ。


「また、電話するよ。良いか? 余計な殺しはするなよ、じゃ」


 スケアリーは短くそう言い、夜のエルキルスへと消えていく。今日の外気は冷たく、すぐに玄関ドアを閉めた。


「っ……ああ長かった……」


 ぶつぶつ言いながらも頬が緩んだ。

 これでようやく作業に打ち込める。流石にもう誰も来ないだろう。

 急いで浴槽に戻る。口から出る声は、好きな人に会う時のように弾んでいた。


「ただいまっ」


 ヴェンツェルが声を掛けると、赤毛の男子──フレッドは見るからにびくついた。


「んーっ、んーっ!」


 怯えきった目は限界まで見開かれ、「来るな」とばかりに首を振って髪を乱している。


「今更そんな態度取らなくたって良いって。……初めて会った時、オレの事馬鹿にしてたでしょ」


 一昨日の夕方、ゴードンが見付かった日だ。

 背の高いこの少年と狭い路地ですれ違った時、見下されている感じがして嫌になったのだ。経験上、自分を見下す人は怒って来るから。

 スケアリーから出された条件に合っていたので、「引っ越してきたばかりだから、ちょっと道を教えて欲しい」と適当な事を言って上手く自宅に誘い込み、後頭部を殴って気絶させた。


「今霧が出てるんだ、お前はさっさと殺さないと」


 唇に薄い笑みを浮かべ、浴室に放置していた手術用品滅菌ケース――大学からくすねた――から取り出したメスを握り締める。


「んんんーっ!!」

「大丈夫だって、オレ解剖は上手いから。お前の肝臓、何色なんだろうね?」


 それを見た少年がますますくぐもった声を上げたが、自分の耳には極上のオペラにしか聞こえず、もっと聞きたくなっていた。


***


 同じ生活リズムを送りたくても、住む場所が変わるとそれは出来なくなる。

 川沿いのマンションからミトズロッド高校までは、ポピーよりも7分程遠い。なので理論上は7分早く出れば良いだけの話だ。

 しかし朝の工業区を通る事になる為、ノア・クリストフはポピーに居た時より15分早く家を出る事にした。引っ越し翌日くらいは真面目に生きたかったのだ。


「ふぁ~ねむ…………あ」


 瞼の重みを感じながら霧の出ていないマンションホールを出ると、ゴミを捨てている見覚えのある人物を見付け足が止まった。

 天然パーマの黒い髪。

 黒縁眼鏡の奥の青い三白眼。

 猫背で小柄な体躯。

 間違える訳が無い。新しき隣人ヴェンツェル・ラグナイトその人だ。

 自分と同じく眠そうではあるが、口端が持ち上がっていて昨日より機嫌が良さそうだ。何か良い事でもあったのだろう。

 ふと、ヴェンツェルがこちらに気が付いた。


「あ。ノア、だっけ?」


 機嫌が良いからか、青年は昨日とは別人のような明るい表情でこちらに近寄って来る。


「こんな時間に高校間に合うの? 近いのか?」

「お早う御座います。あー、ミトズロッドなんで直ぐですよ」


 周囲に影響を受けたからとは言え、自分が新しい知人に丁寧に喋るようになったのが、我が事ながらくすぐったい。ちょっと前なら考えられなかった。


「へっミトズロッド? そうなんだ、ふうん……ふうん」


 自分の高校名を聞いたヴェンツェルは目を丸くし、まじまじと自分を見始めた。

 ミトズロッド公立高校はお坊ちゃん学校や進学校では微塵もないので、そのような反応をされると恥ずかしい。


「じゃあ歩いていくのか? オレもルイリーフに大学あるから……途中まで一緒に行こうよ」

「へ」


 驚いた。

 隣人は人嫌いだと思っていただけに、こんな展開になるとは全く思っていなかったのだ。けれど途中まで方向が一緒なら、断るのも問題だ。

 なにせ、隣人なのだし。


「はい、行きますかっ」


 ぎこちなさと気恥ずかしさを感じながら言うと、天然パーマの青年も頷いた。

 しかし。


「………………」

「………………」


 敷地を出て少しの間、お互い無言だった。静かすぎて、近くの煙突から蒸気を排出するボイラー音が聞こえるくらいだ。

 話題が無いのにどうして隣人が自分を誘ったのか、不思議に思ってしまう。気まずいのでこちらから話を振る。


「…………ヴェンツェルさんって、大学で何勉強してるんですか?」

「外科だよ。解剖学、外傷学、内科学とかそういうの……」

「医学生だったんですか? 凄ぇ」


 感嘆と同時に納得する。

 そう言えば確かにルイリーフには有名な医大があるし、医学生なら1LDKで独り暮らしも出来るわけだ。きっと親が金持ちなのだろう。

 自分の反応にヴェンツェルが気分良さそうに、ふふっと頬を持ち上げる。


「外科の勉強ってそんなに色々やるんですね」

「うん。他にも模擬手術とか画像診断や術式とか……オレはまだ2年生だから、これでもまだまだだと思うよ。人間の体ってこうなってるんだな、臓器ってこんな色してるんだな、こうすれば良いんだな、って分かって面白いんだ。人体の神秘? ああいうの感じる。模擬手術は献体だからどれだけ弄っても大人しいし……」


 どうやらヴェンツェルは話しかければ応じてくれるタイプらしい。

 それから2階建ての馬車バスが走っている鉄橋を渡るまで、たまに途切れはするものの会話は続いた。

 思った通り、ルイリーフ医科大学に通っていると言う。若干訛っているのも納得だ、わざわざ出て来たのだろう。

 ルイリーフに行く交差点に差し掛かった時。


「あっ」


 不意にヴェンツェルがこちらに三白眼を向けた。何か名案を思い付いたかのように、にぃっと唇を歪ませながら。


「そうだ、ノア。ちょっとミトズロッドまで着いて行かせてよ。オレ引っ越してきたばかりで、この辺の道あんま知らないんだよね」

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