2-55 「ふんっそんなの知らないよ」
ヴェンツェルはブツブツ呟いた後、再び自分に猿轡を噛まそうとする。その隙にこっそり周囲を窺い見る。
白いタイルに、近い山。ガス灯は勿論、遠くには風車も見える。霧は出ていない。
思い出した。
ここはエルキルスの郊外だ。この場所は郊外の中でも一等外れのようだが、駅に逃げれば絶対に人は居る。
自分をまだ生かす気で居るなら、逃げられるチャンスはまだある。首を振って噛まされそうになった猿轡から逃れ、呟いた。
「……警察はっ、ヴェンツェルさんが、切り裂きジャックだって、もう気付いてますよ」
息を整えながら言う。
「…………どういう事? と言うかそれって、ノアも気が付いてたのか? 驚かないし……」
ヴェンツェルが食い付きそうな話題を選んで言ったからか、ピクリッと目の前の殺人鬼の動きが止まった。ゼエゼエと深呼吸を何度か繰り返した後続ける。止血された為か、先程よりも僅かに息が吸いやすい。
「ヴェンツェルさんが、採血の授業をしてる事が、凄く変だなって思ったんです……! 外科医は自ら採血をする事が滅多に無い、だから外科の医学生が、採血を習うのは卒業間際が一般的で……っ! 他にも、警察は何か怪しんで、ましたよ!」
この事に気が付いたのは、ヴァージニアのおかげだ。
面会に行った時この話題を出してくれたおかげで、医学生に採血された記憶を掘り起こしてくれたから。
「警察は今頃、医大に聞いて裏を取っている筈ですっ。だから、ヴェンツェルさんが僕の採血をしたかったのには、事情があった。何か検査したかったんですよ、ね? ミトズロッドの赤毛の男子生徒を!」
クルトから聞いた事も混ぜて、ハッタリではあるが苦痛に顔を歪めながら話していく。息が整ったおかげか、幾らか喋りやすい。暗くて見えにくいが、舌打ちしたヴェンツェルが不機嫌そうに眉を顰めたように思った。
「その検査だって僕を次の被害者にする為で、フレッドだって、面白がって見せたんで──っ!?」
バチッ! と。
全部言う前に頬に鋭い痛みが走った。頬を張られたのだ。
「だったらなにっ! どうせノアも外れなんだから大人しく死んでよ! じゃないとオレが怒られるんだからっ!!」
「えっ」
目の前の青年は、開き直ったように目を見張り続けた。
「オレさ、警察署でノアにお礼を言われた時嬉しかったんだよ。確かにわざと死体見せたしアレこれって怒られるんじゃない? って思ったから調子が狂うくらい嬉しくて! でも違うんだっ、結局ノアだってオレを怒るんだね! イーヴリンみたいに! だからオレっ、オレッ、イーヴリンだって殺したのにっ!!」
じんじん頬が痛む中まくし立てられる。
ヴェンツェルが何を言っているか分からない。イーヴリンとは誰なのか。分からないが、きっと何か火に油を注ぐ事をしてしまったのだろう。一転して取り乱している。
「だからもう良いもう嫌だっ! 検査とかもう良い! ノアはここでオレに肝臓を見せたら良いんだっ!」
生かすつもりだと言ったばかりの口で、殺すと言う。その事に背筋が寒くなる。
「っ」
その時。
「駄目ーーっ!」
突然、少女の声が暗がりに響いたのだ。
同時に何か明るい物が一直線にこちらに飛んできて、ガツン! とヴェンツェルの背中に当たった。
「あつっ!?」
ガラスが割れる音がし、自分に乗りかからんばかりに迫って来ていたヴェンツェルが、反射的に体を仰け反らせた。
一拍後ぼとりと眩い何かが地面に落ち、頬が僅かに熱くなった。若干の焦げ臭さもある。
その飛んできた物の正体に目を丸くした。
「白熱灯っ!? どうして!?」
「あっつ……!」
剥き出しになった白熱灯が背中に直撃した為、作業服が僅かに燃えていた。消火しようと藻掻いているヴェンツェルと自分の間に、制服姿の少女が割り込んで来る。
ヴェンツェルにも余裕が無いから出来たのだろう。拾い上げたランタンを盾に果敢にもヴェンツェルが持っていた刃物──メスのようだ──を奪い取った少女の横顔が見える。
「っイヴェット!?」
意外な人物の出現に目を丸くしていると、すぐ近くまでやって来たイヴェットが倒れていた自分の体を起こそうとする。
「ノアさんっ大丈夫!?」
「キツいっ……けど、なんでお前がっ?」
「良いから、こっち! 人多いからっ!」
支えもあり、イヴェットの肩に腕を回して立ち上がる。イヴェットはこの辺りの地理に詳しいようで、迷う事なく林を抜けようとした。
「邪魔すんなよっ!!」
消火を終えたヴェンツェルが、声を荒くしてこちらに重たいキャリーケースを投げつけてくる。
「きゃっ!」
「っ!」
イヴェットの腹部にキャリーケースが直撃し、体勢がガクリと崩れ一緒に冷たい林道に倒れ込んだ。
その際、ヴェンツェルから奪い取ったメスもカラカラと鋪道を転がっていく。
「なんなのさ、ったく!!」
メスを拾い直したヴェンツェルが自分達の前に立ち直した。
「ヴェンツェルさん! イヴェットは関係ないから!」
「ふんっそんなの知らないよ」
自分が優位に立った事を確信したのだろう。鼻で笑うヴェンツェルは、首から提げていたらしい小型ライトを点ける余裕すらあり、何処か得意気に笑っていた。
微かに明るくなったおかげで、周囲が浮かび上がって来る。ここは林道で、杭とロープで作られただけの柵の向こうには谷がある寂しい場所だった。
ヴェンツェルはイヴェットを睨み付けると、一歩こちらに近付いた。スラックスに染みた血の臭いが周囲に漂っている。
その時。
「スケアリーさんっ!」
自分を庇うように前に出たイヴェットが声を張った。
何の事だと困惑したが、自分以上に──ガバッと振り返る程に、どうしてかヴェンツェルが驚いていた。
「す、スケアリー!? えっ!?」
「スケアリーさん、私ですノイです、お願いだから……!」
キョロキョロと周囲を見渡しているヴェンツェルは、少しして何処かホッとしたように胸を撫で下ろし、一拍後こちらに向き直る。目を見開いているヴェンツェルの表情に、隣人であった頃の面影は感じられない。
「何言ってるか分からないんだよっ」
「イヴェット、お前だけでも逃げろって……! そいつは切り裂きジャックだっ!」
もう、駄目だ。
今のヴェンツェルだったら、イヴェットも切り刻んでしまう。それは嫌だ。
「っ助けてー!!」
手でイヴェットの腕を林道の奥へと押すが、イヴェットはピクリとも動こうとしなかった。




