2-54 「……もしかして起きた?」
きっと上手く待ち伏せをされて、教会前通りの霧の濃さを利用されたのだ。
馬鹿だ。
ドミニクも居るから。クルト達が動いてくれるだろうから。マンションには近付かないから。ヴェンツェルは大学だろうから。
すっかり安心して浮かれてしまった自分が悪い。
「ぅー……っ」
窮屈な場所で無理な体勢で入れられているおかげで、体の節々が痛い。
なのに、下手に暴れずに落ち着いている自分を褒めてやりたい。
薬を嗅がされ意識を失った人を、樽の中に窮屈に入れられているイヴェットを見た事があるからだろうか。自分が被害者候補である事を何度も噛み締めていたからか。
きっと何処かで脳がこの状況に備えていたのだろう。
「……」
逃げなければ。まだ助かるチャンスは残っている。
臀部から伝わる覚えのある荒い振動。ここは走行中の馬車なのだろう。なら切り裂きジャックは──ヴェンツェルはまだ刃を持っていない筈。
次に自分が何処に入っているかを慎重に確かめていく。
これはコンテナだろう。肌に当たる質感が若干ザラついている。
足首はギュッと締め付けられているが、腕の拘束はそれに比べてまだ緩いように思えた。ヴェンツェルも急いでいたようだ。
多分これは布だ。結び目が解けないか腕に何度も力を入れていく。
──と。
ドンッ! と。
結び目が解けた際、勢い余って壁に腕をぶつけてしまったのだ。
無視出来ない程の音が周囲に響く。慌てて息を潜めたが遅かった。
「んー……? なに?」
壁の向こうに居るだろうヴェンツェルが訝しむ声が聞こえて来た。
やっぱりヴェンツェルか、と思う一方、気付かれたか? と体が強張る。
「……もしかして起きた?」
声が近くなる。中を覗きに来るつもりだろう。
不味い。
もう一度薬を嗅がされるのだろうか。そうなれば終わる。息が上手く出来ない。
「──っ──」
その時。
御者が何事かをヴェンツェルに話し掛けたのだ。きっともうすぐ到着する旨だ。
チッと大きな舌打ちがすぐ近くから聞こえ遠ざかっていく。胸を撫で下ろし、先程よりも息苦しく感じるコンテナの中、慎重に猿轡と足の拘束を解き息を殺した。
逃亡のチャンスはまだある。
読書の授業で読んだ本に書いてあった。
コンテナは悪用する者も多い為、内側から逃げられるよう設計する義務があるのだ、と。
蓋裏の歯車をカチッと言うまで回すと側面が外れる、と言う方法だ。
コンテナに横向きで畳まれているこの体勢で出来るか不安ではあったが、この方法で逃げるしかない。
チャンスがあるとは言え、走行中の馬車の中で実行に移すのは得策とは言えない。もうすぐヴェンツェルは外に出て、支払いを行う。その時に賭けるしかない。御者に助けを求められる。
窮屈な中手で天井をまさぐり、無機質な歯車の場所を確認する。
臀部から伝わる振動が止み、「到着です」と遠くから御者の声がした。数秒後ガタッと段差を降りたような気配がし、途端冷気に抱き締められる。
今だ。
急いで天井の歯車を回そうと試みる。
「っ!?」
が。
窮屈なのと固いのとで、上手に回せないのだ。
本を読んだ時に思った通りだ。非常時にあんなスマートに動けるわけがない。そもそもコンテナの蓋裏に緩い仕掛けなんて作る訳がない。
「有り難うございました」
会計が終わった声がし、ガラガラと何処かに移動させられていく。
「っ」
不味い。今ここで御者に助けを求めなければいけないと言うのに。
分かっているからこそ余計指先が上手く動かせなかった。ガタガタと止まない振動が一層焦りを助長する。
落ち着け、と一度深呼吸をしてから中指に力を入れ──カチャッと音がした。
「っ!」
出来た。
立ち上がる際の勢いで蓋を外していく。
「えっ!?」
突然コンテナが展開した事に、キャリーケースを引いていたヴェンツェルが心底驚いたような声を上げる。
「っここ、は……!?」
暗い寒空の下に飛び出した物の、ガス灯や家屋が少ない通りに一瞬頭が停止した。
当然御者はもう居なかった。それどころか誰も居ない。
「助けて下さいっ!!」
張った声は周囲に虚しく響くだけだった。山が近いせいか微かに反響すらしている。
人影も霧も無く視界が鮮明。畑もチラホラ点在している。少なくともエルキルスでは無い。
では、ここは何処だろう。見た事はある気がするが、一瞬周囲を見ただけでは答えには辿り着けなかった。
「何で!?」
ヴェンツェルの焦った声がする。とりあえず逃げるのが先だ。
「助けて下さい!」
明かりの多い方に逃げようと思うと、ヴェンツェルの横を通り抜けるしかない──そう思い駆け抜けようとした。
「くそっ……もう少しで着いたのに!」
しかし。
ヴェンツェルだって当然こちらを逃したくないのだ。明かりのある所に行かせる訳がない。
すれ違った瞬間。
「っあ!!」
ザクッと。
スラックスを裂く程の刃物で太腿を傷付けられたのだ。
傷口から勢い良く血が噴き出し地面を濡らし、膝が地面に突いた。そのまま倒れ込み、タイルの上に頬を擦る。
寒いし冷たいし痛い。怖い。
太腿から噴き出す血と共に、少しずつ体温も下がっていく気がする。
「この辺りは人通りが無くて良かったよ」
ポツリ、と頭上からヴェンツェルの声がした。
何かを取り出している作業服姿の青年を見上げる。月明かりを背にしている為、今ヴェンツェルがどのような表情をしているか分からなかった。
「ヴェンツェルさ……っ」
「黙って」
淡々と、けれど強く言われる。
一気に血を失い、大声を出す気力が失われていた。頭がクラクラする。
ここで死んでしまうのか、とキツく目を閉じた次の瞬間。ふっとヴェンツェルが自分の側にしゃがみ込む音がし、次に太腿を強く包帯のようなもので縛られた。
「太腿を流れている大腿動脈は下半身で一番太い血管なんだ。ここを放置したままだと失血死するからね、ノアにはまだ生きてて貰わないといけないから……」




