2-52 「ふふ……あははっ……」
これはチャンスではないのだろうか。
人を解剖し、肝臓を取り出すと言う。
視界が急にグラグラした。目の前の景色が歪んでいく。
イーヴリンの事は大好きだったがもう良い。怒られたし、己の内なる声に抗う事が出来ない。
「……ツェル、はやく……っ」
少女の声がどんどん弱々しく、顔色は赤黒くなっていく。
それを見下ろす自分の目は、何時もよりずっと冷ややかだと感じていた。
「……イーヴリン、もう大丈夫。死んだら終わるから」
彼女の喉を切れば良い。
そう思ったら躊躇無くペンケースからカッターナイフを取り出せた。この時自分はきっと薄く笑っていた。
「えっ、止め──」
自分が次やる事に気が付いたイーヴリンの声には、聞こえない振りをした。
「っ!!」
直後、彼女の喉を切った。
ドバッと喉から噴き出した赤い液体が、シャワーのように自分の頭に降り掛かって来る。温かい液体の量は鳩なんかの比ではなかったけど、不思議と少しも不快ではなく、うっとりとさえ出来た。
「ふふ……あははっ……」
パタリと動かなくなったイーヴリンを見下ろす自分は、暫くただ唇を歪めて笑っていた。
これは介錯でも何でもない、ただの殺しだ。少女は確かに嫌がったのだから。
でもそんなのもうどうでも良い。
「……じゃあ」
開腹しようと、少女の柔肌にカッターナイフを突き立てた時。
「きゃあああああああ!」
ふと、玄関から女性の叫び声が響いたのだ。
「えっ」
どうしてこんな声が聞こえるんだ、と驚いて、振り返って目を見張る。
玄関ドアが開いていたのだ。
イーヴリンが倒れていた事に驚いて、思えば自分は最後までキチンと玄関を閉めなかった。それが隙間風で開いていき、偶然通り掛かった女性に返り血に塗れた自分を目撃されてしまったのだ。
「誰か来てー! 子供が人を殺してるのーーっ!」
「えっえっ」
現実が急に戻って来た。頭から被った血が冷えていく。
カッターナイフ片手に狼狽えていると、何だ何だと人が集まってきた。その内の1人、体格の良い男性が家に上がって来た時ハッとし後退っている内に床に体を押さえつけられた。ベチャ! とイーヴリンの血で頬が汚れた。
「っ止めて、まだっ、まだ肝臓を見てないんだ……!」
自分の訴えに、集まってきた大人達は耳を貸さない。持っていたカッターナイフを血の海の中に弾き落とされ、瞬間理解した。
自分は人間を解剖出来なかった事を。
イーヴリンの肝臓がもう見られない事を。
「うああああああ!」
頬を血で濡らし叫ぶ自分に、この場にいる大人達と二度と動かないイーヴリンは何を思ったのだろうか。
それからの事は良く覚えていない。
けれどあれは、苦しむイーヴリンに頼まれたから殺した、と主張したのは覚えている。そう言えば良いと思ったから。
11歳の少年が友達の介錯をした事件は当時それなりにニュースになり、自分は少年院に入る事になった。大人達は、嘱託殺人だと言う自分の主張を笑えるくらい簡単に信じてくれた。
白くて冷たい塀の中に入った自分に、母親は一度も面会に来なかった。ぷっつりと縁が切れて、寧ろ気が楽になったものだった。
少年院での暮らしが落ち着いてきた頃、ヴェンツェルは良く思う事があった。
それは、『イーヴリンの肝臓は何色だったんだろう?』と言う事。
肝臓を見る前に取り押さえられたせいかこの一点がどうしようもなく気になって、眠れない夜を過ごした事もある。
違う人の肝臓を見ればこの気持ちも落ち着くだろうか、と医学書を熱心に読み漁りだし「医者になりたい」とボヤいた自分に、大人達は勝手に更生の意思を見出し出所したら医学の道に進むよう勧めてきた。書類だけでしか自分の事件を知らない大人は気楽な物だと思ったが、だからと言って何か言う気は微塵も無かった
本当は自分は何も変わっていない。今すぐにでも誰かの肝臓を見たかった。早く出たいから大人しくしているだけで、寧ろ猫を被る事を覚えた程だ。
少年院に監禁される事7年。
イーヴリンの事を忘れたくなくて姓だけ改名した自分は、ルイリーフ医科大学を受験する為塀の外へ放り出された。
ルイリーフに向かうべく南下した自分が一番にした事は、登山者を狙った強盗殺人だったが、何より肝臓が見たかったのだ。初めて人の肝臓を見た時は涙が溢れる程だった。
ルイリーフに行く為の旅費と、学費と生活費を稼ぐ為でもあった。税金からの支給金は多少あったが、それだけでは生きていけない。
少年院で勉強ばかりしていたので大学には簡単に合格出来たけれど、入学してからが思ったより大変だった。
金は出来たが、人を殺す時間が無いのだ。
家賃をケチる為大学まで1時間かかる場所に部屋を借りた上、学業も忙しい。保護観察官の目を騙す為に工場バイトもしているので、殺人を行う余裕は無かった。
肝臓が見たいのに、見れない。利便性の悪い環境のせいだ。悶々とどうしようか悩んでばかりいた。
そんな秋だった。
──スケアリー・メアリーと名乗る綺麗な女性と会ったのは。
ルイリーフの海岸通りを歩いていた時、話しかけられたのだ。
「こんにちは。ヴェンツェル」
何故自分の名前を知っている、とまず警戒した。
歩き方が少々歪なので義足だと直ぐに分かったが、そんな人物が自分に何の用だろうか。
「私の仕事を手伝ってくれないかい? ある人を探し出して欲しいんだ。違う人に当たったらその人は殺して良いよ」
警戒しながら聞いた内容に、ああ、と納得した。
この人は自分が少年院を出た事を知ってて、誰かを殺したい事を嗅ぎ付けて来たのだ。そう言えば少年院で、裏社会の人間は適性のある人間をスカウトする物だと小耳に挟んだ。
でも。
「嫌だよ、忙しいんだ」
「知ってるよ」
「じゃあもう良いだろっ!」
苛立って怒鳴った自分にスケアリーは一瞬驚いた後、クスリと笑い低い声で続けて来た。
「だからこう言うのはどうかな? エルキルス駅の近くのマンションを一部屋、受けてくれたらあげるよ」
エルキルスならルイリーフに近い。スケアリーは、今自分が一番欲しい物を提示してきたのだ。
途端に興味が湧いた。
ここまでリサーチ力があるのならスケアリー個人の仕事ではなく、それなりに大きな組織が絡んでいる筈。だったら自分が少々やり過ぎてもフォローは容易だろう。
「…………やっぱ、詳しく聞かせてくれるかな」
ニッと笑みを深めた自分に、日の下の蜘蛛の糸のように綺麗な金髪をしたスケアリーがニィっと笑い返してきた。
直ぐに引っ越しをしバイトの日数を減らすと、人を殺せそうな時間が簡単に持てて、嬉しさのあまりスケアリーの組織の研究所を教えて貰った帰り、犬を殺したくらいだ。
毎日が上手く行き、ゴードンと言う高校生の肝臓も手に入ったけれど。
あの時イーヴリンの肝臓を見られなかった事が、思っていた以上に自分は心残りであったようだ。どんな肝臓を見ても心の渇きが満たされる事は無かったのだ。
自分は未だ、納得出来る肝臓に会えていない。
いつか、出会える日が来るのだろうか。
がらんどうの部屋の真ん中に立ち、ただ窓の向こうを眺めながら思ったものだった。
***
意識のない人間は、無意識下の重心移動が無くなるのでとにかく重い。それは薬で眠らせたノアも同じだった。




