第56話 さようならミースケ
七月に入り、その季節の移り変わりを肌で感じ始めた頃、恭子の所属する水泳部は本格的な活動シーズンに入った。
もうわずか数日で梅雨も明けると、そう気象予報士が言っていた。
蝉の声が日増しに五月蠅くなる中、部活で汗を流すなんでもない日常が、あたり前のように恭子の周りに戻って来ていた。
あのトンネルでの闘いの後、怪物の脅威が去ったこの世界は、まるで何事も無かったかのように、ループの続きを再開した。
トンネルで起こった爆発は、地下のガスによる引火であると片付けられ、すぐに人々の関心から姿を消した。
目に見えない特別な力を持つ少女と少年は、決して誰にもその真実を語らないだろう。
そう、世界最強猫の冒険譚はこの世界の誰にも知られることは無い。それがこの世界の理なのだ。
穏やかな日常が再開されてすぐ、ミースケは恭子にとても大切なことを話し聴かせた。
タイムリープから百日後、七月二十日にこの世界は再びリセットされる。
だが、この世界はもう二度とタイムリープを起こさない。
そうミースケは、はっきりと告げた。
それは、以前トラオから聞かされていたことだった。
恭子が世界に抗う力を自分のものにし、この世界を食い荒らす怪物を消し去ったことで、ミースケはようやく無限の時を生き続ける理由から解放された。
恭子に未来を与えてやりたい。
長い長い時間を積み重ねて、ミースケはそのたった一つの願いをここまで築き上げた。
そしてその願いを完成させるためなら、ミースケはこの世界を去ることを厭わなかった。
当然、恭子はそれを受け容れられなかった。何か他に方法があるのではないかと、何度も訴えた。
その度にミースケは、駄々っ子をあやすかのように、恭子を説き伏せた。
特異点が存在する限り、この世界はループを繰り返す。
そしてあの狭間の怪物も復活を果たすのだと、それはこの世界を再び危険に晒す、愚かな行為であるのだとミースケは言った。
数日間、涙にくれた恭子は、そのあと、残された時間を可能な限りミースケと共に過ごした。
相変わらず一緒のベッドで寝て、おかしな奴だと指さされようが、猫を抱いて通学した。学校の中庭で一緒にお昼ご飯を食べ、休みの日にはミースケを籠に乗せてサイクリングに出かけた。
そこには特別な関係に発展した少年や、親友の美樹、勿論トラオの姿もあった。
大切な時間というものは、あっという間に過ぎていく。
旅立ちの夜。ミースケを胸に抱いたままベッドで仰向けになっていた恭子は、その別れの時がそこまで来ていることに怯えていた。
この世界が再び未来に足を踏み出したときに、ミースケはいない。
特異点がこの世界から消滅することで、時間の檻は解放され、未来が訪れる。
あまりの大きな代償に、恭子の目からまた涙がこぼれだした。
「キョウコ、そろそろ時間だ」
胸の上でミースケが顔を上げた。
日付が変われば、またループが始まる。
旅立ちの時が来たのだった。
いつも波動の特訓をしていたあの河川敷に、恭子はミースケを抱いて現れた。
そこにはすでにトラオとあの少年も到着していた。
「来たな」
月光の下で、トラオが二人を迎え入れた。
「さあ、始めようか」
トラオは体をブルブルと震わすと、大きく口を開いて中から真っ黒なものを吐き出した。
それを拾い上げて、引き延ばすと、小窓くらいのサイズになった。
忠雄はその不思議なものに対して、トラオに質問を投げかけた。
「これは?」
「これは、向こう側の絶対者から拝借した体の一部だよ。この特性を使ってもう一つの世界への扉にするのさ」
その小さな小窓のようなものに、恭子も近づいて首を傾げた。
「扉に? これが?」
「波動を撃ちこめば、絶対者に穴が開いてそこに吸い込まれていくのは知ってるよな。その穴はいわゆるポータルなんだ。その吸い込まれていく先はもといた世界だ。つまり瞬間的にポータルが発生するのに乗じて、ミースケにポータルを抜けてもらうのさ」
トラオとミースケの間ではもう打ち合わせは済んでいたようで、トラオが目配せをすると、ミースケはぴょんと恭子の腕から飛び降りた。
「トラオ、手間をかけたな。長い間待たせて悪かった」
「ああ、本当に長かったな」
「じゃあな」
「ああ、達者でな」
きっと通じ合っているのだろう。二匹の猫は言葉少なく別れを済ませた。
そしてミースケは少年を見あげてこう言った。
「忠雄、恭子を頼むな」
「うん。任せておいて」
男同士というのは、どうしてこうもあっさりしているのだろうか、恭子は言い尽くせないほどのミースケに対する想いを、どう言葉にしていいのか分からずに胸を手で押さえた。
「キョウコ……」
ミースケの言葉が詰まった。
言い尽くせない想いを抱えているのは恭子だけではなかった。
「おまえと出会えて……本当に良かった」
「ミースケ……私も……私もだよ……」
勝手に涙が溢れだした。もどかしい言葉の代わりに恭子の頬を伝い落ちていく。
「ミースケ、ありがとう。本当に、本当に……」
それ以上何も言えなくなった恭子を見あげて、ミースケは口元に人間がそうするような笑みを浮かべた。
「お礼を言うのは俺の方さ」
「私は、私は何もしてない。ずっとミースケに支えられてここまで来れた」
「なに言ってるんだ、キョウコ……」
ミースケはその美しい蒼い瞳を少し細めて、恭子を愛おし気に見つめた。
「繰り返すループの全てで、キョウコは一度も躊躇うことなく、俺をあの車から救ってくれたじゃないか」
その言葉に含まれる愛の深さに、恭子は足を踏みだしていた。
「ミースケ!」
恭子は再びミースケを抱きしめていた。
「行かないで。行かないでミースケ!」
「泣くなキョウコ。俺は今とても幸せなんだ」
「いや。いやだ。ミースケのいない世界なんて……」
そしてミースケはその柔らかな肉球を、涙にくれる恭子の頬にそっとあてた。
「馬鹿だな。おれはもう恭子の中にいるだろ。これからはいつでも一緒だよ」
そして涙にくれる恭子の前で、ミースケは波動を集め始めた。
その右腕が白く発光する。
「ありがとう。キョウコ」
そしてミースケの肉球から真っ白な波動が放たれた。
ドン!
黒い小窓に、真っ黒な穴が開いた。
そして急速に渦を巻いて周囲の壁を吸い込み始める。
そしてミースケはその中へと脚を踏み出した。
「ミースケ!」
ゆっくりと、ミースケの体が次元の穴に吸い込まれていく。
追いかけようとする恭子の手を、忠雄が掴んで引き止めた。
「待って。待ってミースケ!」
そして、恭子の目の前でミースケは姿を消した。そしてミースケを呑み込んだポータルが、小さくなり消滅していく。
「さようなら。キョウコ」
穴が消滅する寸前に恭子はミースケの最後の声を聴いた。
「ミースケ! ミースケ!」
消えてしまった何もない空間に手を伸ばし、恭子は泣き叫んだ。
「ミースケ!」
その場で膝から崩れ落ちた恭子は、しばらくその場で涙を流し続けた。
嗚咽を繰り返す恭子に、忠雄は言葉もなく寄り添う。
大切なものを失ってしまったことを受け容れられずに、恭子はうなだれたまま、ミースケの名を幾度も繰り返した。
「嘘つき……また一緒に海へ行くんじゃなかったの……」
それは、たった一つだけ、ミースケが叶えられなかった恭子との約束だった。
やがて顔を上げた恭子は、痛みを絞り出すような声で最後の言葉を口にした。
「さようなら。ミースケ」
溢れ出る涙を拭おうともせず、恭子はこの世界で最も愛おしい存在にお別れを告げたのだった。




