第45話 真実の姿
睡眠というものはただ単に身体的疲労を癒すものではない。
うまく言葉にして説明することなどできないが、睡眠中の数時間の間に、無造作に散らばり展開している情報が、見出しをつけられ、それぞれ区分された適切な場所へ整頓されていくのだという。
そして必要な睡眠を摂るだけで、昨晩まで掴みどころすら無かった感情が、落ち着きを取り戻すことだってあるのだ。
野村忠雄についての真実をミースケから聞かされ、逆上して自分を見失ってしまった恭子は、翌朝、ひどい気分で目覚めた。
乾いた口の中に、苦いものがある。いくらうがいをしても、その口中の苦味は癒えることはなく、朝食のトーストにたっぷりと塗ったブルーベリージャムの甘さでも、それを紛らわすことは出来なかった、
制服に袖を通しながら、恭子は昨日ミースケに感情のまま言ってしまったことを、繰り返し思いだしていた。
ミースケが今までしてきたことについては、決して納得できないし、許すことはできなかった。
ずっと少年の能力を利用し、恭子の盾にしてきたのだ。それは恭子にとって自分の命よりも尊い人を犠牲にする行為であり、受容できる選択肢ではなかった。
ミースケは少年の能力に気付いた時点で、あの怪物から恭子を守る切り札として利用してきたのだ。
彼が本気で願い、言葉にしたことは必ず成し遂げられる。
それは、大切な少女のために彼が願った自己犠牲だった。
「彼の愛を利用していたなんて」
延々と繰り返されてきたループで、少年は少女を守るために命を落としてきた。大切な人の死の上に自分の生はあり続けてきたのだ。
「私はいったい何なの……教えてよ、ミースケ」
いつもベッドの上で毛繕いしているミースケはいない。
あれだけ酷いことを言われたのだ、この部屋にいないのが当たり前だろう。
怒りで我を忘れた私は、傷つき、命を落としてきた少年と同じ苦しみを、ミースケにも味合わせてやりたいと本気で思った。
あんたみたいな獣に、人の気持ちなんて分かるもんか。
どうしてあんなこと言ってしまったんだろう。
恭子はベッドの上に目を向ける。
いつもそこで体を伸ばしていたものがいない喪失感は、そのまま心の痛みとなって恭子の胸に影を落とした。
学校が終わってすぐ、部活を休んで帰宅した恭子は、部屋に戻っていないミースケを探しにすぐに家を出た。
普段ミースケが通る狭い散歩コースを辿って、トラオが普段寝ている神社までやって来た恭子は、そのまま表門へと回って境内へと足を踏み入れた。
社殿の賽銭箱の裏に、縞々の尻尾を見つけると、長くなって寝ていたトラオに恭子は声を掛けた。
「トラオ」
「は? なんだキョウコか」
のっそりと起き上がったトラオは、いかにも面倒くさそうに大きな欠伸をした。
「猫には一日十六時間の睡眠が必要なんだ。ちょっとは遠慮してくれよ」
「ミースケ知らない? まだ帰って来てないみたいなの」
「キョウコが出て行けと言ったんだろ。当たり前じゃないか」
何を言っているんだと言いたげに、トラオはサラリと受け流した。
「あんなの、本気じゃなかったのに」
「本気じゃないのに、あんな酷いことが言えるのか。人間ってのは理解できない生き物だな」
まさに正論だった。返す言葉も無くて、恭子はトラオの前で下を向いた。
トラオは立ち上がってスイと恭子の傍らを通って社殿の階段を降りて行った。
「キョウコ、あっちで話そう」
そう言って、トラオは社殿の裏へと歩いて行った。
「あんましあいつの肩を持ちたくないんだが……」
誰もいない社殿の裏で、トラオは恭子に向き合うと、地べたにお尻を付けて座った。
「キョウコの酷さに呆れてね、ちょっとお節介したくなった。これから話すことはあいつから口止めされていたことだけど、言わせてもらうことに決めたよ」
「何かまだ秘密があるのね」
「ああ、よく聞いておけ」
トラオはその黄緑色の目を大きく開いて、その真実を語り始めた。
「キョウコはあいつのこと、血も涙もない奴だって思ってるかも知れないけど、俺が知る限り、あいつは自分のために何かをしているのを見た事が無い」
トラオはずっと昔のことを思い出すかの様に、何度か目を閉じて見せた。
「あいつは長い永劫の時を生き続けた。繰り返し繰り返し、同じ時間の中を……キョウコの目から見ればそこいらの猫かも知れないが、この世界から見れば、あいつは特異点そのものなんだ」
そしてトラオは厳しい口調で、その言葉を口にした。
「つまり存在してはいけないもの」
あらためて突き付けられたそのひと言は、恭子の表情を硬くした。
「あいつは、この世界に突き刺さった棘のような物だ。世界から拒絶されながら生き続けるということの意味がキョウコに分かるか? 何者からも必要とされず、この世界から消えてなくなることを望まれ、誰とも違う特別で孤独な生き方をし続けなければいけない。そんな世界であいつは生きてきた。ただ一つの目的のために」
トラオは一度言葉を区切ってから、再び黄緑色の視線を恭子に突き刺した。
「それが君だよ、片瀬恭子」
見知っている筈のトラオではなく、絶対者の声だと、そのとき恭子は感じた。
そして、冷徹なまでの淡々とした口調で、その真実の続きを口にした。
「ミースケが空から現れた日、あいつが元いた世界で、君は車に撥ねられ死んだ」
死という言葉を聞いて、恭子はビクリと肩を震わせた。
「片方の世界で死を迎えたものは、対になるこの世界でも同じ運命を辿る」
「でも、私はこうして……」
「そうだ。生きている。それは奇跡的なことなんだ。いや、そうじゃない。同じように死ぬはずだったこの世界のキョウコは、あの特異点が干渉したおかげで生きているんだ」
「どういう意味なの……」
そして、恭子の理解を越えたトラオの話は、淡々と続いていく。
「二つの世界は相対的に同じイベントが同時に起こる。特異点がこの世界に飛び込んできた時、交錯するように、もう一つの世界にもこちら側のミースケは飛び込んだはずだ。だが、波動を纏う前のミースケには、身を守る術が無かった。結果、向こう側の世界で、キョウコは猫を抱いたまま無残に死を迎えた。そしてその腕の中で猫も息を引き取った」
「私と……一緒に……」
「だが、おかしなことが起こったんだ。どうゆうわけか、こちら側のミースケは恭子の腕の中で守られて死ななかったんだ。ただの猫だったミースケは犠牲になったキョウコのお陰で特異点として存在し、そのままこの閉鎖された時間の中を繰り返し生きることとなった」
恭子はミースケが特異点となった経緯が自分にあることを、この時初めて知ったのだった。
「何度タイムリープを繰り返しても同じことが起こった。つまり、恭子はミースケの命を繰り返し助けたんだ。もともと世界の切れ目を通るときに波動の干渉を受ける特異点は、それを繰り返すうちに自ら波動を纏うようになった。そして同じ時間を繰り返し生き続けているうちに、とうとうあいつは成功させたんだ」
恭子はそれが何なのかをもう理解していた。
「そう、波動でキョウコを死の運命から救い出すことを」
車を弾き飛ばしたミースケの波動は、長いループの末にミースケが獲得した力だったのだ。
「だが、それだけでは駄目だった。対になる世界の一方での死というものは必ず伝染する。キョウコ、君の存在はとても不安定なんだ。世界の理から外れた君には、それからも死のイベントが次々に起こり、事故を防いでもなお、ミースケは数えきれないほどの悲惨な結末を見ることとなった」
愛する者の死をずっと見続けてきた孤独な猫は、どれだけの悲しみを繰り返してきたのだろうか。
「しかし、キョウコは今こうして生きている。普通なら消滅してしまう生がなぜ今こうしているのか、それは君があいつから特異点の持つ力を分け与えられたから……」
世界の理にも抗える力。恭子はかつてミースケが言っていたその意味を理解した。
「私に波動の力を宿すようにしたのは……」
「それしか君を生かす方法が無かったからだ」
バラバラだったピースが埋まった。
つまり、この世界の理に縛られない波動こそが、恭子を救う唯一の方法だったのだ。
「そしてそれは成功した。波動を送り続けることで、キョウコの体内にミースケの波動が枝分かれし循環するようになったんだ。死のイベントから解放された恭子は、普通の生活を送れるようになった。だが波動を送り続けていなければその力を維持できないことを知ったミースケは、自分がいなくても、この世界の力に抗えるように、ずっとキョウコの波動の流れを育て続けて来たんだ」
「波動の流れを構築するのに、そんな理由があったなんて……」
そういえば、恭子の中に安定した波動が宿ったと知って、ミースケはとても喜んでいた。不自然なまでの喜びようには、そういう理由があったのだ。
「タイムリープによって体はリセットされてしまうが、世界の干渉を受けない波動は成長させ続けられるんだ。一方で、キョウコが死んでしまった場合、構築していた波動の流れは消滅してしまうことが分かった。ミースケが恭子の命を最優先にしていたのはそれがあったからなんだ」
「それで、私に危険が及ばないよう、徹底していたのね」
トラオの説明は恭子が疑問に感じていたことを、ことごとく埋めていった。
「ここで、もう一つ、俺のことをキョウコに話しておくよ。以前、俺はキョウコに自分のことを絶対者だと名乗ったが、俺にはもう一つ名前があるんだ」
「もう一つの名って?」
「時を食らうもの、ランゴリアーズ。それが俺のもう一つの名前だ。過去を食らいつくし、未来を迎え入れるのが俺の使命。本来なら、現在を生きる君たちとは決して出会うことの無い存在だ。だが、この世界は特異点によって無限のループに迷い込んだ」
時を食らう存在であることを明かしたトラオの話を、恭子はすぐには理解できなかった。ミースケがいない今、噛み砕いて解説してくれる者はいなかった。
「世界が特異点の存在を拒絶し、未来を作り出すことをやめてしまったせいで、丁度、今俺たちが過ごしている100日間を繰り返すようになった。特異点がいる限り、世界は未来を作り出さない。俺たちは時の牢獄に閉じ込められたままここから決して出ることを許されないんだ。そして過去から現在に追いついた俺が、この世界の秩序を取り戻すべく、特異点を排除することになった」
「敵同士なのに、どうして二人とも行動を共にしていたの?」
つい素朴な疑問を口にした恭子に、トラオはちゃんと応えてくれた。
「ああ、俺は数えきれないほど、あの特異点と対決してきた。結果俺の全敗だったがね。波動を操る特異点には絶対に勝てない。それが俺の出した結論だった。そして、ある時、俺は特異点に尋ねたんだ。何故止まった時間の中で生き続けようとするのかと。ミースケは俺の質問に答えたよ。たった一つだけ、自分には叶えたい望みがあるのだと」
「ミースケの望み?」
「特異点の願ったたった一つの望み、あいつはこう言ったんだ。キョウコに未来を与えてやりたいと」
「私に、未来を……」
「そうだ、キョウコ。お前に未来を与えるために、ミースケは永劫と言えるほどの時を生き続けたんだ。お前を死の運命から救い、そしていつか動き始めるこの世界でキョウコが生きていけるように」
恭子は言葉を失った。今までミースケが見せてきた行動が全ての答だったのだ。
「あいつは、キョウコの為なら何だってする。だから敵である俺に協力しろと申し出て来たんだ。そうすれば、この世界を元に戻すとあいつは言ったよ。キョウコがこの世界の理に抗える力を手に入れた時に、自分はこの世界を去ると……」
「そんな、ミースケが、そんなことを……」
真実を知った恭子は、その場で膝をついて涙を流した。
「ごめんミースケ。ごめんなさい……」
「あいつは忠雄と同じなんだよ。ただキョウコを愛して、どう生きるかを決めただけなんだ。分かってやってくれ」
そうだ。ミースケは少年を傷つけたりしなかった。
ただ愛するものを守る、その機会を作っただけだ。
もし自分が逆の立場なら、究極の選択を前に、私は迷わず彼の盾になりたいと願うだろう。
命の尊さとか、そのありようとかではなく、ただ純粋にそう願う。それこそが、かつてミースケが言っていた死に対する考え方だと、思い当たった。
誰かのために命を使うことは悲惨なことでは無いのだと。愛するもののために命をかけることはそれ自体が尊いことで、意味があることなのだと。
少年がそうしてきたように、ずっとミースケもそうしてきたのだ。
ただ私を愛してくれてたから。
そう、彼とミースケは同じなのだ。だからあの時ミースケはそう言えたんだ。
ごめんミースケ。
いつも気付くのが遅くって、本当にごめんなさい。
あんなに愛してくれていたあなたを、私はこんなに傷つけた。
「ミースケ……」
どうしようもない後悔が涙となって、恭子の目からとめども無く流れ出す。
トラオは嗚咽する恭子の姿を、その美しい黄緑色の目でじっと見つめていた。




