第33話 災いの火種
陽が落ちて、自室で雑誌を読んでいた恭子は、突然聞こえだした不快な音に、頁をめくる手を止めて顔をしかめた。
「なあに? この音」
恭子が不快な音の正体を見極めようとカーテンを開けると、黄緑色の目と合った。
ガラス窓を爪でキーキーいわせていたトラオを、恭子は渋面で部屋に入れてやった。
「それ止めてよね。生理的に受け付けない音なのよ」
「そうか、それはすまなかった」
「で、今日はどうしたの?」
トラオを招き入れて、せっかく来たのだからと、お椀に入った水とスティックおやつを用意してやる。
ミースケの分も用意してやり、二匹がぺろりと食べ終えてから一人と二匹は、カーペットの上で膝をつき合わせた。
猫の膝がどんなものなのかと言われれば微妙だが、なんとなく雑談するような雰囲気になった。
時々気楽に訪ねてくるトラオを前に、恭子とミースケは特段気にする様子もない。
「この時間にフラリと現れたってことは、晩御飯をねだりに来たってこと?」
「いや、違うよ。まあご馳走してくれるってんなら、食ってくけど」
「はいはい。じゃあミースケの分を仲良く半分こね」
「トラオ、今すぐ帰れ」
「冗談だよ。ちゃんと別に用意してあげるって」
ハハハと恭子が笑う和やかな雰囲気に、トラオがいきなり水を差した。
「なあミースケ、キョウコも聞いてくれ、ちょっと真面目な話があって来たんだ。実はクロの様子がおかしくってさ……」
普段おちゃらけているトラオが、今日神社で起こったことを真面目に話しだした。
十分ほどの話だったが、トラオがクロとやり合ったのを聞いて、流石に恭子も深刻そうな顔になった。
ミースケは話を聞き終えても髭を動かしただけだった。
「先輩と後輩で喧嘩したのね。早く仲直りしなさいよ」
「それだったら相談しに来ないよ。多分クロはこのまま行方をくらますと思う」
「先輩と揉めて顔を合わせにくいってこと?」
「だからそうじゃなくって。なんだかキョウコ、ズレてないか? 俺が言いたいのはクロはどう考えてもおかしいってことなんだよ」
「そうかな? 理解できないことを放っておかないで、ちゃんとしとこうって思っただけじゃないの?」
恭子はトラオの説明にまだピンと来ていない。
今日あったことだけを話しても、この女子中学生には理解できないのだと、トラオもここでようやく気付いたみたいだった。
「あのな、俺はこういうなりをしてるけど、中身は特別な存在なの。人間的な感覚で、俺やあいつを測るのは大間違いなんだ」
「ふーん。それで?」
「一度、意思統一を果たした絶対者が、今回のように豹変するのはあり得ないことなんだ。俺も何故こんなことになったのか不思議でならないんだ」
「そうなの? 私なんかその日の気分で気が変わることなんて、しょっちゅうあるけど」
「思春期の女子って、面倒くさいんだな」
何となく恭子に釣られたものの、またトラオは話を本題に戻した。
「俺が懸念しているのはそれだけじゃないんだ。格闘の後、あいつの頭の中を覗いてみたんだけど、かなり妙なことになっていたんだ」
「妙ってなんだ?」
ミースケがすかさず反応した。
「あいつは俺の知らない所で、あの如月カトリーヌと繋がっていた。野良猫生活をせず、どこに行ってるのかと思っていたけど、カトリーヌの家で餌を貰って毎日寝ていやがった」
「如月さんの家に転がり込んでたのは意外だったけど、それは別にいいんじゃない? 美味しいご飯と快適な寝床を自分で見つけて来ただけでしょ」
「全く、キョウコはおめでたいやつだな」
トラオはやれやれといった感じで首を横に振った。
「いいか? カトリーヌは恭子の恋敵だろ。まあ尤も忠雄はカトリーヌを歯牙にもかけていないけど。その恋敵にわざわざ近づいていくってどう考えても不審だろ。キナ臭い臭いしかしないよ」
「ああ、トラオの言うとおりだ」
トラオの意見に賛成したミースケは、恭子を諭すような口調で語り始めた。
「純真なキョウコと違ってカトリーヌはしたたかな奴だ。未来に関する情報をトラオから得ているクロが手を貸したなら、カトリーヌは俺たちを出し抜いて忠雄に近づくことができる」
「そうかも知れないけど、そんなことをしてクロに何の得があるの?」
「ただ単に、カトリーヌの恋路を応援しているだけとは到底思えない。恐らくクロはカトリーヌを利用して何かを仕掛けようとしている。それは間違いないだろう」
そこまで話したミースケに、トラオが肉球の手を上げた。
「なあミースケ、実はもう一つ気になることがあるんだ」
「ああ、なんだ?」
「あいつの記憶は、途中から途切れていたんだ。カトリーヌの家に出入りしていることは分かったけど、それ以降の記憶が全く見えないんだ」
「分からないな。どうゆうことなんだ?」
「俺にも説明ができない。記憶を見せないようにしているのではなく、記憶そのものが欠落しているような……」
トラオは自分で言いたいことが上手く説明できないもどかしさで、一度言葉を途切れさせた。
「なあ、ミースケ、こんなことは異例中の異例だ。どうすればいいと思う?」
「おまえは意見を求めに来たのか? それとも……」
トラオの真意を探るように、ミースケはその蒼い目を光らせた。
「あいつを波動で消し飛ばしてくれないか。そう言いに来たのか?」
かなり物騒なことを言いだしたミースケに、恭子は慌てだした。
「ちょっと待って。仲間なんでしょ? 消しちゃうってひど過ぎじゃない? ねえトラオ、そんなこと考えてないよね」
庇い立てしようとした恭子に、トラオは沈黙したままだった。
「図星なの!? あんた後輩ができたって喜んでたじゃない。ちょっと行動がおかしなだけで始末しちゃうの?」
「なあキョウコ、残念ながらこれに関しては恐らくそれが正解だ。不穏分子を野放しにしておいたら前回のループの時のように、キョウコや忠雄に危険が及びかねない。ミースケが言ったとおり俺もそれを考えていた」
恭子の顔色が変わった。それはあの忠雄の死を鮮明に思い出してしまったからなのだろう。
「でも、クロを消してしまうなんて……」
それ以上何も言えなくなってしまった恭子に、ミースケが気になることを話しだした。
「実は恭子には黙っていたんだが、俺はあの遠足の時のことが引っ掛かって自分なりに色々調べ周っていたんだ」
「遠足のって? どうゆうこと?」
恭子は少し身を乗り出して、何か大事なことを話そうとしているミースケの話に耳を傾ける。
「俺はあの日、ハンカチを手にやって来るであろう忠雄を探しに行った。しかし忠雄は前回のタイミングで現れなかった」
「それは私の行動がイベントを変化させたからじゃない?」
「俺も一旦はそうだと思った。だが、忠雄が現れてもいないのにあの不良たちが森の中に現れたのが解せなくってな。忠雄を追って来たのでないとするのなら、誰かの手引きがあったに違いない。俺はそう結論付けたんだ」
「それがクロだって言いたいんだね」
「ああ、今ならそうだといえるだろう。あの日、恐らくカトリーヌはリュックにクロを入れていた。そしてクロの手引きでカトリーヌは忠雄を森に向かわせないよう引き止めることに成功した。そして恐らく俺の目を欺くためにあの不良たちを差し向けたんだ」
「差し向けたって、どうやって?」
恭子が不思議に思うのは尤もだった。猫が不良たちを不審がらせずに誘い出す方法など、まるで浮かんでこなかった。
だが、その疑問の解答を、ミースケは予め用意していた。
「声を使ったんじゃないかな。トラオもそうだが、絶対者は一度聞いた声を模倣することが出来る。森の中へあいつらを誘導するため、誰かの声を模倣して誘導した。例えば先生の声を真似て、『おーい野村、そっちの森の中に行っては駄目だぞー』とか」
「へー、なるほど」
納得してから、恭子は眉をひそめてミースケの顔をまじまじと見た。
「そこにいた訳でもないのに、なんでそんなことが分かるわけ? もしかしてあんた……」
恭子が疑いの眼差しで顔を近づけると、ミースケはあっさりとそのいきさつを吐き出した。
「ご推察の通りだよ。後日、あの金髪を捉まえて吐かせた」
「やっぱり……」
呆れ声を上げた恭子に、ミースケはニタリと笑って見せた。
「それで、いつそんなことしてたのよ」
「トラオを恭子のもとへ向かわせた日さ。あの日なら前回のループで俺は学校にいるはずだから、クロも油断していると踏んだんだよ。そんで下校してきたあいつを待ち伏せて……」
「また殴ったわけね」
「そうゆうこと」
ミースケはなかなかの策士だった。
しかし、恭子の知らない所で、まあまあ、あの金髪はミースケにひどい目に合わされていたようだ。
「話を戻そう。あの時は確信が無かったけど、不良が聞いた教師の声はクロが模倣したものに間違いないだろう。クロはカトリーヌを使って忠雄を引き止め、同時に不良を仕向けることで俺の足止めをした。そして一人で待っていた恭子に蛇を放った」
「蛇って、あれもクロが擬態したものなの?」
「いいや、あれは本物だった。キョウコから話を聞いて、俺はその蛇を捕まえたからな。毒蛇のヤマカガシが藪の中にいたよ」
「じゃあ偶然じゃないの?」
「いや、多分違うと思う。なあトラオ」
「ああ、クロが絡んでいるとなると、それも偶然ではないだろうな」
そしてトラオは、単純に偶然であると言い切れない理由を明かした。
「俺たち絶対者は体の一部を他の動物の脳内に送り込んで操ることができる。まあ、人間など脳が発達している動物は無理なんだけどな」
「蛇なら操れるってこと?」
「ああ、単純な命令だけだけれど、一時的に支配下に置くことは可能だ」
「じゃあ、クロが私を殺そうとしたってこと……」
恭子は蒼くなってゾクゾクと身を震わせた。
「はっきりとは分からないが、何らかの意図でそうしたのだと思う。それに恐らく、あいつは同じ手口で忠雄も一度襲っている」
「野村君を!?」
恭子は思わず大きな声を上げて、トラオに何があったのかを問いただした。
「キョウコが帰省中、俺はミースケに言われて、念のため忠雄の周りをうろついていたんだ。すると夜中に窓が開いて蛇が入って来たんだ。勿論俺様の爪で軽く引き裂いてやったけどな」
「ほんと? ありがとう」
「まあ、本当に何か起こるとは思っていなかったんだがな。しかし同じ絶対者のクロがおかしくなっているとは思わなかった」
恭子の知らない間に、色々あったみたいだ。
あまり心配をさせたくなくて、ミースケは黙っていたのだろう。
「しかし、忠雄はなかなか見どころのある奴だ。俺たちが気付いていなかった遠足の時のクロの目論見を、あいつ一人で見事にぶち壊した」
トラオはなんだか忠雄を認めている雰囲気だ。
しかし何故あの場に忠雄が現れて恭子のピンチを救ったのか、やはり理解できなかった。
「どうして野村君は、あの場に現れることができたんだろう……」
二匹の猫に尋ねたというよりかは、独り言のように自問自答した恭子に、ミースケは曖昧な解答をした。
「愛の力。それ以外思いつかんな」
「もう、からかわないで。それよりクロのこと、どうするの?」
「そうだな……」
そしてミースケは一つの結論を提示した。
「取り敢えず、明日からクロの捜索をすることにしよう。見つけ出してどうするかはその時に判断する。それでいいな」
話し合いを決着させたミースケに、トラオは黙って頷いた。
恭子も不安げな顔を見せながら、その意見を了承するしかなかった。




