第31話 蛙騒動
体育祭が終わって帰宅したカトリーヌは、不機嫌なオーラをそこいらじゅうにまき散らしていた。
部活対抗リレーでは男女とも優勝し、アンカーで見事な走りを見せたカトリーヌは、さらに男子の注目を集めた。
そんなカトリーヌのきらびやかさの中に、一つだけ汚点を残したもの。
それがあの保健室でのことであった。
野村忠雄が転倒して怪我をしたのを好機と捉え、カトリーヌが保健室に向かうと、学校に現れていたクロードが二人きりになれるよう手引きしてくれた。
保健室に現れた忠雄を、先生が治療しようとしていたそのタイミングで、クロードが「グラウンドで生徒が倒れた」と声を上げたのだった。
保険の先生は、特に怪しむことなく、そこに現れたカトリーヌに忠雄の治療を任せて部屋を出て行ったのだった。
簡単に二人きりになれたカトリーヌは、この絶好の機会を逃さず、親密な関係になっておこうと、行動を起こしたのだが……。
「どうしてあの場面で片瀬恭子が現れるのよ!」
薄々カトリーヌも気付いていた。
あの少年が片瀬恭子に特別な関心を持っていることに。
それでも、魅力では誰にも負けないと自負しているカトリーヌは、自分が言い寄りさえすれば、片瀬恭子になど目もくれなくなるのだと本気で思っていた。
それをトンビが油揚げをかっさらっていくように、目の前で鮮やかに標的を奪われてしまった。
プライドを傷つけられたカトリーヌは、お膳立てをしてくれたクロードにも冷たく当たっていた。
「元気だしなよ。カトリーヌ」
「は? 元気だし、別にどうってことないし」
帰宅してすぐに着替え始めた不機嫌なカトリーヌは、クロードの気遣いを払い除けた。
気に入った玩具が手に入らなかった子供のように、カトリーヌは普段は誰にも見せることの無い身勝手な拗ね方をしていた。
「あんな邪魔が入って……あんた、本当に未来が見通せているの?」
カトリーヌの言い分は尤もだった。
クロードにもし未来が見通せているのならば、今日のように誰かが乱入してくることも予見できたはずだ。
理不尽にも思える八つ当たりのような言い草も、それなりに道理が通っていた。
実際のところ、クロードは未来を予見できるわけでは無い。
トラオから吸収した情報の範囲で、現在起こっているループで起こる出来事を知っているに過ぎない。
恭子の行動によって大幅に変化した今回のループでは、たとえ全ての情報を持っていたのだとしても、そのとおりになるとは限らなかった。
今回の体育祭に至っては、恭子の手によって積極的な変化がもたらされたため、機に乗じてカトリーヌの手助けをしたに過ぎない。
保健室に恭子が飛び込んできたのは、完全に予想外だった。
「今回はアクシデントみたいなものさ。気にすることは無いよ」
「あんたの言い方だと、今回のことは予見出来ていなかってことね」
未来に起こることを予見できるというアドバンテージがあるからこそ、このカトリーヌと黒猫の関係は成り立っている。
カトリーヌが疑いを持ち、クロードを不必要と判断すれば、簡単に切り捨てられるだろう。
「突発的に起こったことに対処できなかっただけさ。次はきっと上手くやる」
部屋着に着替えたカトリーヌは、艶のある栗色の髪を手櫛で直し、弁解気味な黒猫を見下ろす。
「ねえ、前から思ってたんだけど、私のためと言いながら、あんたが野村君に執着してない?」
その言葉に、クロードの瞳の瞳孔が大きくなり、髭が少し震えた。
「いや、執着なんてしていないさ……」
「そうかしら? 私のためって感じに見えないんだけど」
猜疑心を隠すことなく、吐き捨てるようにカトリーヌは部屋を出て行った。
体育祭が終わると、もうすぐ六月。
毎年恒例のプール掃除が始まり、水泳部の面々はデッキブラシ片手に、プールサイドに集合していた。
憂鬱な面持ちでミーティングを終えた恭子は、あらかた水を抜いたプールで遭遇するであろうアレのことを想像し、身震いした。
「うー、やだなー」
デッキブラシを手にしたまま固まっている恭子の背中を、美樹がバーンとはたいた。
「今年もいるよー」
「わかってる。いちいち言わなくっていいから」
そう、アレはいるのだ。しかも確実に。
前回のループでご対面している、平泳ぎの滅茶苦茶上手いあいつ。
抹茶色の水面の下に潜み、時々ふくらはぎをかすめていくあいつ。
もし踏んだりしたら、内臓をぶちまけてあっさり死んでしまうあいつ。
「おーいるいる。恭子、今年も蛙ちゃんが元気に泳いでるよー」
「だから、いちいち言わないでって言ってるでしょ」
からかい半分だろうけど、こっちは真面目に苦手なのよ。
そのうちに男子がワイワイ言いながら掃除を始めた。
美樹はともかく、大概の女子部員は蛙のことを歓迎していない。
仕方なく他の女子のあとに続いて、恐る恐るプールに入ると、いきなり足元を何かがかすめて行った。
「キャーッ!」
いきなり叫んでしまった。
女子部員が黄色い声で絶叫すると、男子部員は余計に盛り上がる。
掃除そっちのけで蛙を追い回し、逃げ惑う女子部員をまた叫ばせようと頑張るのだ。
恭子は蛙の包囲網が、狭まってきているのを感じていた。
脚の間をスウッと抜けて行ったアレの感触に、ヒイっと叫ばされ、ゾワゾワと背筋が震えた。
「ちょっと男子! 追い回してないで捕まえて、どっかへ逃がして来てよ」
「そうしたいんだけど、すばしっこくってさ」
全く悪びれる風でもなく、軽薄を絵にかいたような顔で、男子部員はまた蛙を追い回し始めた。
「わざとやってんでしょ!」
「おれが? まさか。なあ、塩田、海老原」
「ああ、蛙を田んぼに返してやりたいってそれだけだよ」
「平泳ぎが苦手な片瀬に、教えに来てくれてんじゃないのか」
前回のループと全く同じ展開だ。
そう分かっていながらも、生理的に恐ろしいものは克服できないのである。
そしてまた、男子に追い込まれてきた蛙が恭子の足をかすめた。
「きゃー!」
再び叫んだ恭子に、男子三人はハイタッチして喜んでいる。確信犯の男子たちにとうとう堪忍袋の緒が切れた。
「あんたたち、いい加減にしなさいよ!」
「やば、片瀬が怒った」
プールサイドに上がって逃げ出した三人を、恭子は手元にあったバケツに抹茶色の水を掬って追いかける。
男子三人を追いかけながら、恭子はどこか冷静に、この展開の先を思い浮かべていた。
イベントが起こる。
先程の恭子の悲鳴を聞きつけて、少年はきっと駆けつけている。
前回のループでは気付かなかったその金網の向こうに、きっと彼はいるはずだ。
そして、男子部員を追い詰めた金網越しに、恭子は野村忠雄の姿を目にしたのだった。
抹茶色の水を浴びせられるのだと身構えた男子三人に、恭子はバケツの水ではなく、腹立たしさを含んだ言葉を浴びせかけた。
「ちゃんとやってよね。蛙がいなくなるまで、私プールに入らないから」
「はいはい。悪かったよ」
男子部員を解散させて、恭子は金網越しの少年に目を向ける。
目が合った少年は、頬のあたりを赤くしてうつむいた。
「どうしたの? 野村君」
「いや、その、なんと言うか……」
「野村君も部活じゃないの?」
「うん。まあそうなんだけど……」
意地悪だと分かってはいたが、少し恥ずかしがる姿を見たくて、ついそんなことを訊いてしまった。
必死で気持ちを隠そうとするそんな姿も、大好きだった。
「私は大丈夫だよ」
「え?」
恭子のひと言に、伏し目がちな少年が顔を上げる。
「ううん、何でもない」
恭子は明るい笑顔で少年に手を振る。
自分の手で、起こるはずのイベントを書き換え、未来に辿るはずだった二人の道を遠回りさせた。
それでいい。
恭子はそう思うのだ。
自由でいいのだと。
思うままに好きになっていけたらいいのだと。
バケツ片手に戻って来た恭子に、よくとおる美樹の声が聴こえて来た。
「きょうこー、二匹捕まえたよー」
プール掃除から蛙捕獲作戦へと入れ替わった部活動。
まだ何匹かいるはずのプールに、恭子は再び足を浸けた。




