第30話 体育祭3
恭子はミースケを抱いて、両親が座る父兄用のテント席に来ていた。
いなくなったミースケを父親が探していたのと、次の男子部活対抗リレーを最前列で観るためだった。
文科系の男子リレーは、花形である体育会の前座みたいな扱いだったが、恭子はとにかく忠雄を応援したくて開始の時間を待っていた。
「次は男子文科系による部活対抗リレーです。選手は入場してください」
アナウンスの後、線の細い男子たちが入場してきた。
普段は体育の授業以外で走ることなど無い文科系男子たち。
一コースから、漫画研究会、吹奏楽部、写真部、美術部、将棋部、時事英語研究会と、あまり日焼けをしていないひょろりとした面々がスタート位置に立った。
この中で部員数の多い吹奏楽部だけが、女子と男子のリレーに出場している。
文科系女子ではぶっちぎりの一位だった吹奏楽部は、ここで男子が勝てば文科系部活対抗リレーを総なめということになる。
普段から重い楽器を運んでいることの多い吹奏楽部は、他の文科系部活に比べ足腰が鍛えられているのだと思われる。
正座して将棋の駒を指で運んでいる将棋部の野村君は、いったいどうなのだろうか。
とにかく応援しよう。野村君のことだ、きっとこのリレーのために真面目に練習して臨んでくるはずだ。
近くで彼の頑張りを見て、声を出そう。彼がそうしてくれたように私はそれ以上の声を届けるんだ。
「三番手だな」
誰にも聞こえないような声で、腕に抱いたミースケが呟いた。
ミースケの言うとおり忠雄は、三番手の場所に座って待機していた。
やがて一番手がスタート位置に付き、緊張の瞬間がやって来た。
合図とともに駆け出した六人の中から、吹奏楽部の男子が抜け出した。
文科系とは思えない飛び出しに、生徒たちは盛り上がりを見せる。
部員数の多い吹奏楽部は、人的資産が豊かであろうことは予想していたが、まさかこれほどの実力差を見せつけられるとは思わなかった。
あっという間に最後の直線に入ったサラブレッドと、いまだコーナーでもつれ合っている駄馬の群れ、もうこの時点で一位争奪戦の決着は着いており、あとは二位三位を決めるだけの闘いになっていた。
バトンを受け取った吹奏楽部の二番手もサラブレットだった。はっきり言って、体育会のリレーで臨んだとしても三位には入れそうだった。
一方、二位三位を決める本物の文科系部活の面々は、息も絶え絶えに口を大きく開けて喘ぎながらバトンを繋いでいた。
水槽から運悪く飛び出してしまった金魚のような顔で、漫研のバトンが二番手に渡る。続いて美術部、時事英語研究会、将棋部と続いていく。
青春の汗は美しいと表現されるが、滅多に汗をかかないこの少年たちの汗は、そんな余裕のある生易しいものではない。
苦しみの中で酸素を求めて必死でもがく中で流れていく汗は、拷問を受けた際に流れ出る脂汗と同じなのではないだろうか。
そしてさらに追い打ちをかけるように、漫研の二番手のバトンがようやく三番手に渡った時には、吹奏楽部の三番手のバトンはアンカーに手渡されていた。
つまりは一位と二位で、丸一周の差が開いてしまったということだった。
吹奏楽部のアンカーは三年生の部長だった。足の速い後輩にぶっちぎらせておいて、一番でゴールしていい所を持って行ってやろうとしている雰囲気が、そこかしこから見え隠れしていた。
それでもサラブレッドほどではないにしても、そこそこ速い。
一周差をつけたとしても手を抜く気は無さそうだった。
漫研に続いて美術部、そして、将棋部の二番手がゼイゼイ喘ぎながら、ようやく三番手の忠雄にバトンを手渡した。
その時、大きなどよめきが起こった。
恭子は見た。
バトンを受け取った瞬間に爆発的な加速をし始めた少年を。
忠雄は前傾姿勢で飛び出すと、大きく腕を振って撥ねるようにあっという間にコーナーに入って行った。
恭子はカーブを駆け抜けていく少年に目を奪われて、声を出すのを忘れてしまっていた。
少年はコーナーを抜けて直線に入ると、さらに加速してゆく。
「にゃー!」
見入ってしまっていた恭子の目を覚ましたのは、ミースケの声だった。
恭子は今まさに駆け抜けて行こうとしている少年に向かって、声を張り上げた。
「頑張って! 野村君!」
必死で張り上げた声はきっと少年に届いた。
忠雄はあっさりと美術部と漫研を抜いて、その先にいる吹奏楽部のアンカーに迫っていく。
アンカーと三番手。一周差の争いだが、競争を見守ってた生徒たちが、追い縋ろうとしている忠雄にエールを送り始めた。
「行けー野村! 将棋部の意地を見せろ!」
「もうちょっとだ。頑張れ!」
「諦めるな! いけー!」
恭子は知っていた。
本来は自転車通学の区域に住む少年が、徒歩で学校に通っていることを。
想いを寄せる少女とほんの少しでも同じ通学路を歩くために、長い道のりを苦も無く歩き続けていたことを。
目の前にある問題にいつも正面から取り組んで、誰にも知られることなくいつも陰で努力していることを。
そう、あの力強く走る姿は、彼が積み重ねて、本気でこの日のために努力してきたその証なのだ。
最後のコーナーを抜けて直線に入った忠雄は、吹奏楽部のアンカーを射程圏内に捉えていた。
そして恭子の声が、少年に追いついていく。
「勝って! 野村君!」
少年は駆ける。
少女の言葉に背中を押されて。
荒い息を吐きながら、前を走っていた吹奏楽部のアンカーに並び、そのままゴールを目指す。
恭子はその結末に目を凝らす。
そして僅かに前に出た時に、ゴールラインは少年を迎え入れた。
ずっと少女の後ろで通学路を歩いてきたその足が、吹奏楽部のアンカーよりわずかに速く少年をゴールに運んだ。
そして将棋部のバトンがアンカーの手に渡った。
「あっ!」
全てを出し切った少年は、前のめりになってトラックに倒れ込んだ。
思わず立ち上がってしまった恭子の視線の先で、教師が二人、トラックに入り、倒れ込んだ少年に肩を貸す。
笑顔で応対している少年の姿に、恭子は胸を撫で下ろした。
「恭子、恭子」
棒立ちになっていた恭子に、後ろにいた母親が声を掛ける。
「そこで立ってたら他の人の迷惑でしょ。こっちに来なさい」
「あ、ごめんなさい」
我に返った恭子は頬を赤くしながら母親の隣に座った。
母親は先程の恭子の様子に気が付いたようで、隣に座る娘に切り口鋭い質問をしてきた。
「さっきの足の速かった男の子のこと、何だかすごい応援してたみたいだけど、クラスメートなの?」
「えっと、今は違うけど、去年のクラスメート……」
「野村君って叫んでたわね」
「そう? 普通に応援してただけだよ……」
「いや、叫んでたでしょ。どう考えても」
「もう、いいでしょ。私、次の準備あるから。もう行くね。あ、ミースケをお願い」
猫を押し付けて、母親のもとを離れると、恭子は真っすぐに保健室へと向かった。
転倒した時にきっとどこか怪我をしたはずだ。
自分が行ってどうなるわけでもないが、どうしても少年のことが気になって仕方がなかった。
上履きに履き替えて保健室までやって来た恭子は、一つ大きく息を吐いて、扉をノックしようとした。
話し声……。
先生の声ではなかった。
恭子はノックをしようとしていた手を止めて、ドアをわずかに開けてみた。
如月さんだ。
目に飛び込んできたのはカトリーヌの顔だった。
その向かいで、忠雄が椅子に腰かけてこちらに背を向けていた。
「ごめん。面倒かけちゃって」
「いいのよ。絆創膏張っただけだから気にしないで」
「うん、あ、もう平気だから。如月さんは戻ってね」
「うん。だけどもう少し野村君とお話ししたいな……」
昏くて焼けるような痛みが胸の中に生まれ、恭子を動けなくしてしまう。
胸の中に、またいつかのモヤモヤしたものが広がってゆく。
「野村君って足速かったんだね。私、見とれちゃった」
「そ、そう? ただ無我夢中で走っただけなんだけど……」
「かっこ良かったよ。ちょっとドキドキさせられちゃった」
「え、あ、ありがとう……」
カトリーヌの手が忠雄の手に重なったのが、扉の隙間から見えた。
恭子はその光景を息を呑んで見つめる。
嫉妬なんてしたくない。
恭子は唇を噛んで、強くこぶしを握った。
目を閉じて、波立つ心をどうにかしようと抗った。
でも、その心は恭子がいくら願っても、静まってくれなかった。
もう直視していられなくて、少しだけ開いた扉の隙間を恭子はそっと閉じた。
そしてうつむきながら廊下を戻っていく。
悔しい。
想いを口にできず、自分にはない奔放さで少年と接することの出来るカトリーヌを妬んだ。
自分以外の異性とただ話しているだけの彼に、嫉妬して怒りを覚えた。
未来を変えることの出来た自分を誇らしいと感じていた私は、どこへ行ってしまったのだろう。
「私は、私は……」
ポロポロと涙が流れだした。
「野村君……」
その名前を呟いた時に、ふと応援してくれたその声を思い出した。
それはとても鮮明で、再び恭子の心を震わせた。
頑張って。彼はそう私に言った。
そして恭子は振り返る。
私は駆け出せる。
君が応援してくれたから、私はまた走り出すんだ。
保健室のドアをノックもせずに、いっぱいに開けた恭子を、少年は振り返った。
驚いたようなカトリーヌの顔。
恭子は少年に明るい笑顔を向けて、手を差し出す。
「行こう。野村君」
吃驚したような顔をしたあと、少年は恥ずかし気に微笑んだ。
「うん。行こう」
恭子は自分から少年の手を取る。
唖然としたままのカトリーヌの前で、少年は立ち上がった。
「如月さん、手当てしてくれてありがとう」
お礼の言葉を残して、少年は恭子と共に保健室を出た。
顔を真っ赤にした少年の手を引いて、恭子は廊下を小走りに駆けていく。
恭子は振り返り、少年と視線を交わす。
「クラス対抗リレーだね。怪我、大丈夫?」
「うん。平気」
二人は、そのままグラウンドに出ていく。
そして体育祭最後のイベント。クラス対抗リレーのアナウンスが流れた。
「野村君、お互い頑張ろうね」
「うん。僕も頑張る」
繋いでいた手を放して、恭子は少年に手を振った。
そのまま駆け出した恭子を忠雄は呼び止める。
「片瀬さん。さっきは応援してくれてありがとう」
「うん、私も聞こえたよ。野村君の声」
恭子の笑顔に、少年の笑顔がパッと咲く。
もう言葉はいらない。
伝えたかった気持ちは、きっとお互いに伝わった。
晴れやかな笑顔を見せた少年と少女は、また一つ、一緒に階段を上がったのだった。




