第3話 少年の運命
翌日の学校。教室に入った途端、恭子は数名のクラスメートに囲まれた。
昨日のあの派手な自動車事故の騒ぎは学校中に知れ渡っていた。
奇跡的に無事生還した恭子は、たった一日の間に噂の人となり、注目の的になっていたのだった。
色々と質問を浴びせかけられた恭子だったが、今は苦笑を返すだけ。
前回の記憶により、未来が分かっている恭子には、このあとすぐに先生が教室に入って来るのを知っていた。
「はーい、席に着けー」
担任教師がパンパンと手を叩きながら教室に入って来た。
好奇心を満たされないまま、クラスメートたちは各々の席に着いてゆく。
恭子もまた自分の席に着き、ひと心地つく。
ここまでは完全に前回と同じ光景だ。
ここからお昼までは普通に授業を受けるだけ。
そして、お昼休み、あのイベントが起こる。
恭子はそのことで通学中、真剣に悩んでいた。
昼休みにミースケは学校に現れる。そして中庭でお弁当を一緒に食べたあと、忠雄に関するあのイベントが起こるのだ。
不良たちに囲まれた忠雄を助けたことで、二人の関係が始まる。
それ自体には何も問題はない。
しかし、恭子には頭に焼き付いて離れない記憶があった。
そう、あの夜の学校の中庭で、少年は息を引き取った。
もし恭子に関わり合わなければ、少年は死なずに済んだはずだった。
もし今日のお昼休みに彼を助けなければ、二人は親密になることは無く、今の希薄な関係のまま続いていくに違いない。
今日起こるイベントがきっかけになって、週明けの月曜日にラブレターをもらうのだ。
そして将棋部の部室で栗饅頭を食べる。
もし私が彼を諦められたら、彼は……。
そうなれば彼との恋が実ることは無くなるのだろう。
その代わり、彼は命を落とさずに生き続けられる。
もしミースケが言っていたように、次のタイムリープが起こらない可能性があるのならば、やり直しがきかない未来への不安を拭い去ってしまうしかない。
彼を拒絶することで彼を守ることができるのならば、それを選ぶべきなのだ。
まだこれから出会うはずの少年との未来を諦めることを決めた恭子は、小さく唇を結んでノートを開いた。
そのまっさらな白いページに、勝手に流れだした涙が、幾筋か頬を伝い落ちていった。
お昼休み。打ち合わせどおり、弁当を手にして中庭に降りた恭子を、ベンチに行儀よく座ったミースケが待っていた。
「腹減った。早速昼飯にしよう」
「うん……」
恭子は多めに用意してもらったお弁当を、ミースケに分けてやる。アルミ製の蓋の上にミースケの分を載せてやると、「にゃあ」とひと鳴きして食べ始めた。
ガツガツと分けてもらった弁当を頬張るミースケとは対照的に、恭子の箸は進まない。
「どうした? キョウコ」
卵焼きを食べ終えたミースケが顔を上げて、モソモソと口を動かす恭子に気遣いを見せた。
「うん。あのさ、ミースケ……」
「忠雄のことだな」
ありありと悩みを抱えている表情の恭子に、ミースケの方から直球で切り出した。
「何でもお見通しだね」
「まあな。キョウコとの付き合いは長いからな」
ミースケはその美しい虹彩の蒼い瞳を、箸を止めた恭子に向けて、穏やかな調子で話し始めた。
「忠雄との始まりがこのイベントだと、キョウコは思っているんだよな」
「うん」
「このイベントに自分が参入しなければ、今後忠雄との接点は無くなって、あいつを巻き込むことは無い、そう考えているんだな」
「そうよ。ミースケの言うとおり、ここで私が割って入らなければ野村君は私に関わることは無くなる。あんなに痛い思いをして、苦しい死に方をしなくて済む」
「馬鹿だな、キョウコは」
ミースケは最大限の愛おしさを込めた口調で恭子にそう言った。
「おまえは思い違いをしているよ。人の生き方はそんな単純なもんじゃない。痛みも苦しみも、それに見合う、いやそれ以上のものに代えられるのならば、それは悲惨なことでは無くなるんだ」
その言葉には、いつものミースケらしからぬ重さのようなものが含まれていた。恭子はその意味を理解できないまま、首を横に振った。
「なにを言っているの。死んじゃうんだよ。私のせいで」
「違う」
ミースケははっきりと恭子の言葉を否定した。
「目を向けるべきはそこじゃない。いいかい、忠雄は最も大切なもののためにその命を使った。それは犠牲でも何でもないんだ。ただあいつはキョウコに自らの愛を示したに過ぎないんだ」
「そんな、おかしいよ。そんなのって……私はミースケみたいにとても考えられないよ」
恭子の脳裏には、あのとき息を引き取った少年の姿が今も鮮明に残っていた。決して理性では拭い去れない感情を、恭子はどうしてもコントロールすることができなかった。
「キョウコ、俺は気の遠くなる時間を生きてこの目で人間を見続けてきた。命をどう使うかは自由なんだ。そして誰もが何物にも縛られること無く命を使う権利があるんだ。忠雄は迷うことなくお前のために命を使った。それはキョウコ、おまえでも止めることはできないことなんだよ」
「そんな、そんなこと、私はとてもじゃないけど受け容れられないよ。野村君には野村君の人生がある。私みたいなのが彼の周りにいたせいで、彼の人生を酷いものにしてしまったんだ……」
「キョウコ……」
ミースケの耳がピクリと動いた。
そしてそのまま蒼い目を校舎裏の方向へと向ける。
どうやらイベントが始まったみたいだ。
「キョウコ。お前に任せるよ。忠雄を助けに入りたくないのなら、そうしたらいい。キョウコが本当に望むとおりに行動するんだ」
「……」
恭子はミースケの言葉に応えず、食べかけていた弁当箱に蓋をした。
そして、校舎裏から目を背けるようにしてベンチから腰を上げた。
「私は……ミースケみたいには考えられない」
恭子はそのままミースケに背中を向けた。
穏やかで明るい春の日差しが降り注ぐ校庭を、恭子はゆっくりと歩き出した。
「ハハハハ!」
下卑た不良たちの笑い声が、校舎裏から聴こえて来た。
少年に対する理不尽な報復が始まったのだ。
恭子はその場に立ち止まって唇を噛み締めた。
「へへへへ!」
「ハハハハ!」
恭子は立ち止まったまま、耳を塞いだ。
目を瞑り、奥歯を噛み締め、その痛みを恭子は必死にこらえていた。
やがて恭子の目から涙がポロポロと溢れ出した。
「野村君……」
その唇が少年の名を呟いた。
「野村君」
そして振り返った。
次の瞬間に恭子は駆けだしていた。
「野村君!」
叫ぶように少年の名を呼びながら、恭子は校舎裏に駆け込んだ。
薄暗い校舎裏で、少年を取り囲んでいた不良グループが一斉に、いきなり登場した少女を振り返った。
「か、片瀬……」
忠雄の胸ぐらをつかんでいた金髪の少年は、恭子の登場に顔色を変えた。
恭子は手にしていた弁当箱を振りかぶって、金髪の顔めがけて投げつけた。
「いてえ!」
弁当箱は綺麗に不良の顔面に直撃し、他の不良たちはその恭子の激しさに棒立ちになっていた。
金髪は、顔を押さえながら怒りの目を向けて、真っすぐ恭子に掴みかかってきた。
「やめろ!」
震える声でそう言い放った忠雄に、恭子は一瞬見とれてしまった。
そして、恭子は掴みかかってきた金髪に掌を向けた。
そして軽くトンと不良の胸を突いた。
次の瞬間、不良の体は何かに弾かれたように五メートルほど吹っ飛ばされていた。
倒れ込んだ金髪に残りの不良たちも何が起こったのかと狼狽えていたが、何かの間違いかと判断したようで、まとめて詰め寄って来た。
そこへスッと恭子の前へと現れた影。
世界最強猫、ミースケだった。
「なかなか良かったぞ。キョウコ」
さっきの波動のことを褒めてから、ミースケは二本足で立ちあがった。
「さあて、行きますか」
多分五秒程度。
そこにいた残り四人の不良たちは、たった数秒ののち呆気なく地に這わされていた。
そこに、ようやくふらふらと立ち上がった金髪が、ミースケに怒りの目を向けた。
「てめええ!」
威勢だけは良かった。が……。
予想はしていたが、次の瞬間、目にも止まらぬ速さの猫パンチが連続で繰り出されていた。
「ニャニャニャニャニャニャニャニャ!」
バシバシバシバシバシバシバシバシ!
マシンガンのように繰り出された肉球に袋叩きにされ、金髪はその場で膝をついて再び撃沈した。
ミースケが不良たちを始末したあと、やはりと言うか、そこに立ちすくんだままの少年は、地に這ったまま気絶している五人の不良に一瞥も向けずに、熱い視線を恭子に向けていた。
壮絶だったはずの格闘そっちのけで、目が合った二人は紅くなる。
二本足で立ったまま、綺麗な蒼い目を光らせる猫は、そんな二人を愉しそうに眺めていた。