第29話 体育祭2
恭子の視線の先には、赤いバトンを手に大きく腕を振って走るカトリーヌの姿があった。
クラブ対抗リレー文科系の部で、吹奏楽部のカトリーヌはアンカーをつとめ、大勢の男子の視線を独占していた。
「やっぱし、目立ってるわね」
隣で三角座りしていた美樹がシラけた感じで、先頭でロープを切ったカトリーヌに拍手を送った。
「なにやっかんでんのよ」
「やっかみたくもなるわ。メインの体育会のリレーより目立ってるっておかしくない? 中学生とは思えないプロポーションだし、エレガントスマイルのまま一位で走り切っちゃうし、もうやめてーって感じよ」
「不貞腐れていないで、次、私らだよ」
恭子は美樹のモチベーションが下がっているのを何とかしようと、どこかで見ているであろう猫たちの姿を探す。
体育倉庫の屋根の上に三匹並んでいる姿を目にして、恭子は美樹の肩を叩いてそちらを指さした。
「ほら、ねえ、あれトラオじゃない?」
「んーと、あ、ホントだ!」
盛り下がった美樹のテンションが、トラオの姿で一気に息を吹き返した。恭子はさらに追い打ちをかけるように煽ってやる。
「きっと美樹の走りっぷりを観に来たんだよ」
「は? 猫だよ。そんなわけないじゃない。あの隣にいるのは恭子んちのミースケで、あの黒いのは新顔みたいだね」
「黒いのはトラオの弟分って感じかな。よくトラオについて回ってるよ」
「へえ、トラオって頼れる兄貴なのかー」
自分もそうだが猫好きというものは猫の登場でコロッと気分も変わるのだ。美樹の関心がカトリーヌから猫に移ったのを見て、単純な奴で本当に良かったと、恭子は内心ほくそ笑む。
「おーい、トラオ―」
陽気になった美樹がトラオに向かって手を振ると、トラオはプイとそっぽを向いた。
ツンデレだ。間違いない。
しかしあの黒猫……。
ミースケとトラオとは違う、別の方向にずっと目を向けている。
その視線の先にはリレーを終えて退場する女子たちがあった。
気になる女の子でもいるのかしら?
そう考えているとアナウンスが入った。
「次は女子体育会による部活対抗リレーです。選手は入場してください」
「よしゃー、やったるでー」
頬をパンパンとはたいて気合を入れた美樹に倣って、恭子も気合を入れる。
「みんな、がんばろうね!」
入場してすぐ、恭子たち水泳部は円陣を組んで気合を入れた。
「ファイ、オー!」
こうして二度目の真剣勝負は始まったのだった。
予想どおりというか、前回の再現を見ているかのように、二番手に走りだした水泳部メンバーが、ハンドボール部に抜かれてしまった。
ここからまだ少し引き離されてから、恭子はバトンを受け取ることになる。
四番手でアンカーの美樹は足が速い。
少しでも自分が追い上げて、俊足の美樹に上手くバトンを渡せれば、ハンドボール部のアンカーをギリギリ抜いて逆転できる。
コーナーを曲がり終えて、直線を一番で陸上部が駆け抜けていきバトンを繋いでいく。
ソフトボール部がそのあとに続いて、少し遅れてハンドボール部がバトンを繋いで恭子の前を駆けだした。
「恭子!」
息を切らして駆けこんできた第二走者のバトンは、助走し始めた恭子の手に収まった。
ハンドボール部の第三走者の背中が、前回のループよりも近い気がする。
いける!
恭子は大きく腕を振り、しっかりとグラウンドを蹴って前に進んでいく。
たった百メートル。
全力で走り切れる距離だ。
また少し前を走る背中が近づいてくる。
私の方が速い。
練習の成果なのか、それとも内に秘めた波動の力なのか、恭子はかつてないほどの速さを体感していた。
「がんばれー!」
父の声だ。
声援に背中を押されているのがわかる。
応援してくれる人の声が聞こえる。
お母さんも、水泳部のみんなも、クラスメートも。
そしていつも自信なさげな、小さな声しか出さない君の声も。
「頑張って!」
野村君。
ありがとう。
百メートルを目前に、恭子はソフトボール部の走者に並んでいた。
「美樹!」
助走を始めた美樹に恭子のバトンが追いつく。
練習した感触がバトン越しに恭子に伝わってきた。
「いけーっ!」
並んで駆け出した二人は、そのままコーナーへと入って行った。
内側を走っていたソフトボール部の第四走者が、わずかにリードしている。
しかし、直線に入ってから、美樹は少しずつ前の走者との距離を詰めていった。
そして二人はもつれるように最後のコーナーに入る。内側を走っていたソフトボール部に美樹は懸命に追い縋る。
コーナーを先に抜けたのはソフトボール部だった。だが、最後の直線に入った瞬間に美樹のアフターバーナーが点火した。
「いけーっ! みきー!」
ソフトボール部のアンカーと美樹が並んだ。
そのまま大きく腕を振って、美樹の体が前に出る。
逆転した美樹に、水泳部全員が歓声を上げた。
そして美樹は大きく胸を張って、ゴールラインを駆け抜けた。
「やったー!」
ゴールした美樹に駆け寄って、リレーメンバーの四人は喜び合う。
恭子は飛び跳ねながら、涙を流していた。
決まり切った未来なんて本当は無いんだ。
それが証明できたような気がして、ただただ感無量だった。
一仕事終えた美樹と恭子は、体育用具室の上に陣取っている三匹の猫のもとへとやって来た。
美樹を奮起させたのは、きっとトラオに違いない。
屋根の上のトラオに美樹が声を掛けると、少しそわそわした感じで、ぴょんと飛び降りてきた。
続いてミースケが直接恭子の胸に飛び込んでくる。
「ワッ、ちょっと、ビックリするじゃない」
恭子は受けとめたミースケを胸に抱いてやる。
「トラオー。おまえもおいでー」
美樹が手を広げて呼ぶと、チラチラ屋根の上のクロに目を向けて尻尾を振った。
どうやらクロの前では先輩らしく毅然としていたいらしい。
飛び込んでいきたい葛藤と、闘っている様子だ。
「トラオ、いいじゃない。美紀に甘えなよ」
「にゃー」
やっぱりツンデレだ。好きなのに素直に近づけない。ある意味女子っぽいと言えた。
やはりクロがいたら無理なのかな。
屋根の上を見上げた恭子の目に、まるで別の方向に目を向けるクロの姿があった。
クロが追いかけるその視線の先にはカトリーヌの姿があった。
如月さんを見ているの?
気になった恭子は、通り過ぎて行こうとするカトリーヌを目で追いかけた。
そして恭子は見た。
ほんの数秒、カトリーヌは屋根の上の黒猫に目を向けた。そして何の関心も無いような冷たさを、その美しい横顔に残して行ってしまった。
恭子はミースケを抱いたまま、去っていったカトリーヌを眺めていた。
そしてクロのいた屋根の上に目を戻した時には、もうその姿はなかった。




