第24話 留守番する猫
真円の月に照らされ、どこか幻想的な蒼に彩られた住宅街を、一匹の猫が歩いている。
蒼い月光の下、尻尾を立て、ツンとすました顔で悠々と足を運ぶその姿は、どこかしら猫らしからぬ気品があった。
不思議な品格を漂わせ、住宅街を進んでゆく猫の名はクロード。
もっとも、クロードという名はあの如月カトリーヌが勝手につけた名前であり、トラオたちにはクロと呼ばれている、あの異空間から現れた異質な存在が擬態した黒猫だった。
こちら側の絶対者であるトラオと、最初のうちだけ行動を共にしていた黒猫は、今は気ままに行動をしていた。
野良猫であることに誇りを持ち、どこかしら兄貴分的なトラオとこの黒猫は若干ソリが合っていなかった。
絶対者同士とはいえ、似た者同士という訳ではないということだ。不可思議な存在であっても、動物と同じく個性を持ち合わせているということは間違いなかった。
この異界から来た絶対者は、トラオから得た情報で、そこそこ人間との付き合い方を学習し、自分にとって都合のいいカトリーヌとの関係を既に築いていた。
良家のお嬢様であるカトリーヌにくっついていれば、食いっぱぐれることもなく、寝る場所にも困らない。
トラオの情報により、ほぼ完ぺきに猫に擬態していたクロードは、トラオと同じく通常の猫同様の欲求を持ち合わせている。
つまり、食事をし十分な睡眠を得るといった、本来の猫が持つであろう生理的な欲求を満たそうとするのである。
そういう意味で、カトリーヌはクロードにとって都合のいいパートナーだった。
貪欲なカトリーヌは魅力的な餌さえぶら下げておけば、猫の欲求に十分応えてくれるだけではなく、労力をいとわず思い通りに動いてくれた。
この世界に来てすぐに、クロードはトラオによって自分がミースケたちの仲間であることを植え付けられていた。
その際、クロードは、限定的ではあるがトラオから膨大な知識を得たことで、確実に大きな変化を遂げていた。
これまで短絡的に問題の排除に臨んできた異界からの絶対者は、ここに来て得も言われぬ特別な何かを、そのかりそめの体の中に宿すようになったのだった。
そして、この特異点のいる世界で実際に何が起こっていて、その先にどういった結末が待っているのか、そういった人間臭い好奇心のようなものがクロ―ドの中に芽生え始めた。
単純に特異点を排除することを延々と行ってきた自分と違い、トラオはある時点でそれをやめた。
そして特異点と同じ猫に擬態して行動を共にし、今は何かしらの目的のために特異点に協力していた。
それがこの世界の理を元に戻す為にしている行為であることは間違いない。何故なら、特異点を排除するための解決法がそこに無ければ、絶対者であるトラオがそのような行動をとるはずがないからだ。
従って同じ絶対者である自分も、世界の理を戻す為にトラオに協力すべきなのだ。
トラオが限定的な知識しか自分に与えていないのは、最終的な目的のためにそうすることが最善であるからに違いない。
空間のほころびから無理やりこちらの世界に現れた自分は、体の一部のみしかこちらに出てくることができなかったせいで、その能力は完全体であるトラオには遠く及ばない。
特異点であるミースケがその気になれば、簡単にこの世界から消し飛ばされてしまうような、そんなか弱い存在に、全てを教える必要はないということなのだろう。
それを分かりつつ、異界から来たこの絶対者は、芽生えた好奇心を満たすことをどうしても抑制できずにいた。
「ここか」
トラオから得た情報をもとにクロードが現れたのは、あの野村忠雄の家だった。
高い塀の上から真っすぐに尻尾を立てて、明かりのついている窓を見上げる。
特異点と行動を共にしている波動を扱う女子中学生。
あの片瀬恭子という人間と何かしらの繋がりのある忠雄のことを、クロードは気にかけていた。
それはトラオから得た情報の片鱗の中に、野村忠雄のことが多数含まれていたからだ。
片瀬恭子自身が気にしている人間の少年。しかし同時に特異点のミースケも絶対者のトラオもあの少年に注目していた。
あの少年はカギを握る特別な何者かである。
そうクロードは結論付け、カトリーヌを誘導して接近させ、情報を得ようとした。
しかしどうゆうわけか、ことごとく上手くいかず、今の所、大した収穫もなく少年については謎のままだった。
そして今、手駒のカトリーヌに頼らず、自らの眼で少年が何者であるのかを見極めようとしていた。
「今なら誰にも邪魔されることはない」
連休中の今、恭子とミースケは帰省している最中だ。
野良猫のトラオは、大概この時間は神社で餌を貰っている。
一体何が特別なのか、それを知る絶好の機会だった。
塀の上から軽く跳躍すると、簡単にクロードの脚は屋根瓦に届いた。
そのまま音もなく、明かりの漏れる窓に近づいていく。
顔を半分だけ出して窓越しに中を覗き込むと、そこに正座して将棋盤に向かう少年の姿が見えた。
「なんだ、あっさり見つけられたな」
少し拍子抜けしたように呟くと、黒猫は腕を上げて窓を少しだけ開けた。
そして小さな口を最大限まで開けると、体をブルブルと震わせた。
そして信じられないものが口の中からゆっくりと姿を現した。
音もなくヌウッと這い出てきたそれは一匹の蛇だった。
信じられないことだが、黒猫は体内に蛇を生きたまま飲み込んでいた。そしてその蛇を窓から侵入させたのだった。
尻尾の先端が猫の口から離れると、蛇はスウッと音もなく部屋の中へと入って行った。
そしてそのままゆっくりと将棋盤に向かう忠雄の背後へと回り込む。
その動きはまるで何者かに操られているかのように不自然だった。
「蛇は嫌いだったよな」
ボソリと呟いた黒猫の口元には、猫らしからぬ好奇の笑みが浮かんでいた。
蛇は舌をペロペロと出しながら、ゆっくりと鎌首をもたげて忠雄に接近していった。
「さあ、どうゆう反応を見せてくれるかな」
愉しみで仕方ない。クロードの黄色い目がそう言っていた。
鎌首をもたげた蛇が忠雄の首に近づいた時だった。
バシッ!
窓の外にも聞こえる、はっきりとした打撃音が聴こえた。
大きな目を開けて成り行きを見守っていた黒猫は、口を大きく開いたまま唖然とした顔をしていた。
その黄色い目の向けた先で、蛇が真っ二つになって宙を舞っていた。
全く何が起こったのか分からなかったが、半分にちぎれた蛇が空中を舞ったのを目にして、クロードは脱兎のごとくその場を逃げ出した。
「ヤバイ。あいつはヤバイ奴だ」
飛び降りた月明りの道を、クロードは猛ダッシュで走り出す。
得体の知れない恐怖に取り憑かれたかのように駆けるその姿には、あのどこかしらの気品も何も無くなっていた。
その頃、忠雄は蒼白な顔で、半分になってのたうち回っている蛇を見つめていた。
その傍らにはフンと鼻を鳴らすトラオがいた。
「こ、これは一体……」
呆然としたままの忠雄は、落ち着いた感じのトラオと蛇を交互に見ている。
どうやら蛇を撃退したのはこのキジトラ猫のようだった。
連休に入ってフラリと現れたこのトラ猫、何故だか毎日やって来ては忠雄の家で寝ていた。
さっきも部屋へ入れてやり、将棋をしていた忠雄の背後で寝ていたのだが、気が付くと何処からともなく侵入してきた蛇を八つ裂きにしていた。
やたらと餌をねだる厚かましい猫だと思っていたが、なかなか役に立つ奴だった。
「キジトラ君。なんだか君に助けられたみたいだね」
「にゃー」
タイムリープにより記憶のない忠雄に、トラオは鳴いて応えただけだった。




