第23話 そして海へ
二度目になる五月の海。
ここへ来ることを楽しみにしていたのは恭子だけではなかった。
ひと気のない砂浜を駆けまわって、全身で喜びを表現しているミースケを、恭子は静かに眺めていた。
山口県萩市にある祖母の家。
窓を開けると潮風が舞い込んでくる海水浴場に近い家に、祖母は今、一人で暮らしている。
口には出さないが、仲睦まじく五十年一緒に暮らしていた祖父が一昨年亡くなり、きっと寂し思いをしているに違いない。
今年体調を壊してしばらく入院していたこともあり、父はこの連休中にここへ来ることを決めたのだった。
目の前に広がる海水浴場には、恭子にとって夏の思い出がいっぱいあった。
毎年、お盆の時期には帰省してこの海で泳いでいた。
優しかった祖父と一日中海で遊び、真っ黒になるまで日焼けして、みんなで良く冷えたスイカを食べた。
恭子の記憶にあるのは、そんな夏の海だ。
ミースケが走り回るこの五月のビーチは、恭子にとって馴染みのない景色だが、ループを繰り返してきたミースケにとっては、思い出深い特別な場所なのかも知れない。
「私にとっては初めてミースケと来た海。ミースケにとっては初めて私と来た海……」
海が好きだと言ったミースケの言葉には、そんな特別な思いが込められていたのかも知れない。
「また夏にミースケと来たいな」
相変わらず楽し気に駆け回るミースケを遠目で眺めながら、恭子はそう呟いた。
僅かに潮風の強くなってきた波打ち際を、恭子はミースケを抱いたまま歩く。
少女とその愛猫の眼は白波の立つ遠い水平線へと向けられていて、普段お喋りな猫も黙ったまま波の音を聴いていた。
砂浜にたくさんの足跡を残して、そろそろ引き返そうかと脚を止めた時、腕の中のミースケが不意に恭子にあの質問を投げかけてきた。
「やっぱり海はいいな。なあキョウコ、前にも聞いたけれど恭子はこの世界が好きか?」
「そう言えば前回のループの時もそんなこと言ってたね。ミースケはどうなの?」
「質問に質問で返すのは止めてくれよ。でもまあいいや。俺はこの世界が好きだよ。キョウコのいる世界が大好きだ」
恥ずかしげもなくあっさりと言い切った腕の中のミースケに、恭子は少し頬を紅くして照れたような顔をしてしまう。
「もう、ミースケって私を骨抜きにする台詞をたまに言うよね。でも嬉しいよ。あ、もしかして私ってミースケに手玉に取られてる?」
「いいや、俺は素直に応えただけだよ。偽りのない本心さ」
じっと蒼い瞳を向けられて、恭子は顔が緩んでしまう。
「じゃあ、キョウコの番だよ」
「そうねー、世界って言われたらピンとこないけど、私も間違いなくミースケが好きだよ。きっとミースケよりも」
ミースケは髭をビビビと揺らしたあと、恭子の胸の中に顔をうずめて黙り込んだ。
恭子は大人しくなったミースケを目を細めて抱きしめる。
「本当にミースケは甘えんぼさんだね」
恭子はそう囁くと、足跡の続く波打ち際を戻り始めた。
それから帰省していた三日間で、恭子とミースケは前回のループで起こったイベントを全て踏襲した。
おばあちゃんがご馳走してくれたお刺身を堪能し、家族とのんびりとした時間を過ごし、真面目におばあちゃんの手伝いをした。
そして前回同様、この界隈を深夜に騒音を立てて走り回っていた暴走族の連中に、再びきつーいお灸をすえておいた。
本来ならば同じ行動をとるべきだったのかも知れないが、今回は波動をそこそこ扱えるようになっていた恭子も、バイクをスクラップにするのに加勢した。
「ニャンコボンバー!」
ちょっと照れくさそうに決め台詞を言いつつ、恭子は波動をバイクにぶつけて次々と吹っ飛ばした。
「いいぞキョウコ、その調子だ」
「へへへ。これくらい軽いもんよ」
そしてコンビニの駐車場で気を失っている不良たちと、あっという間に鉄屑になり果てたバイクを前に、恭子とミースケは腕を組んで不敵な笑みを浮かべた。
「フー、なんだかすっきりしたわ」
「だろ。悪を懲らしめるってのは快感なのさ」
恭子との共同作業が楽しかったのか、ミースケの口調は心なしか弾んでいた。
「さー、あと一人張り倒しておくかー」
「やっぱり店長さんの記憶を飛ばすんだよね」
「ああ、目撃されてしまったからな。キョウコは後ろを向いてろよ」
分かっていたことだが、ミースケは記憶を消すために誰かを張り倒すことを躊躇わない。
その点に関して、恭子以外の人間に対しては、まあまあ非情であると言えた。
これから起こることに渋い顔をする恭子とは対照的に、ミースケは淡々とした感じで店の中へと入って行った。
恭子は見ていられず後ろを向いて手を合わせた。
「ギャッ」
短い悲鳴が聞こえてきた。
やはり今回も店長は、とばっちりを受けて張り倒されたのだった。
あっという間の三日間だった。
午後の新幹線に乗る予定の恭子は、朝食を食べ終わった後、最後におばあちゃんを誘って砂浜へ散歩に出た。
恭子は小さいときにそうしていたように、おばあちゃんの手を取って波打ち際に足跡を残していく。
恭子がするのは、学校生活などのとりとめのない話。
おばあちゃんは楽し気に話を聞きながら相槌をうち、時々隣を歩く孫娘の顔を見上げる。
中学生になった時点で、恭子の身長は祖母を追い越していた。
大きくなった孫娘と少し小さくなった祖母。
そんな二人の後をミースケは尻尾を立ててついて行く。
「学校、楽しそうだねえ」
「うん。楽しいよ。勉強はあんましだけど」
「そうかい、恭子ちゃんが楽しいなら、わたしゃ嬉しいよ」
目を細めてそう言ったおばあちゃんが、ついてくるミースケを振り返る。
「この猫は恭子ちゃんに良く懐いてるねえ。恭子ちゃんもこの子を本当に大切にしてる。まだ飼い始めたばっかりだって言ってたけど、そうは見えないねえ」
「ミースケとは気が合うんだ。私たち本当に一緒にいることが多くって」
「そうみたいだねえ。ここへ連れてきたくらいだから、離れられない関係なんだろうねえ」
「まあ、そうなのかな。学校にもしょっちゅう顔出すし、甘えん坊でいっつも一緒に寝てるし、ミースケはそんな感じなの」
「きっと恭子ちゃんにとって、特別な猫なんだねえ」
そのおばあちゃんのひと言に、恭子はハッとさせられる。
そしてしばらく言葉を探すような仕草を見せたあと、おばあちゃんに明るい笑顔を向けた。
「うん。そうだね。おばあちゃんの言うとおりだよ」
恭子は素直にそう応えて、遠い水平線に目を向ける。
「また猫を連れて夏に来てくれるかい?」
「うん、ミースケを連れてまた来るね。きっとミースケも楽しみにしてると思う。お刺身大好きだから」
「そうかい、じゃあ楽しみにしてるよ」
「うん。私も楽しみにしてる。ねえ、ミースケもでしょ」
尻尾を立ててついてくるミースケに恭子がそう問いかけると「にゃー」という返事が返って来た。
「お利口さんだねえ」
おばあちゃんは感心したようにそう言って、可笑しそうに笑い声をあげた。




