第2話 未来を知るということ
「特異点って……私が……?」
ミースケかの口から出て来た真実。それは恭子の理解をはるかに超えるものだった。
言葉を失ってしまった恭子に、ミースケはとても簡単には受容し難いような事実を丁寧に打ち明けた。
世界から拒絶され、いわゆる時間の檻に閉じ込められたミースケは、これまで数限りないタイムリープを繰り返してきた。
この世界でその繰り返しを記憶しているのは、特異点のミースケと、絶対者のトラオ、そしてあの異界から来た絶対者と、あとは狭間の世界から来た闇の猟犬とミースケが呼んでいた怪物だけなのだという。
そしてそこに何の変哲もない中学生の少女が加わった。
ミースケは恭子が記憶を保持できていることを心から喜んでいた。
では何故、恭子が前回の記憶を持ったままタイムリープ出来たのか。
それはこの世界に抗える唯一の力、「波動」を恭子が本当の意味で身につけたからだった。
ミースケは気の遠くなるようなループを繰り返すことで、恭子に自らの波動の流れを長期間注ぎ続けてきた。
その方法とは、恭子とミースケが日常的に行っていた何気ない習慣だった。
波動を安定して対象に注ぐには、濃密な接触を長時間行うことが必要だった。そして、全てのループで、ミースケは必ず恭子の胸の上で眠っていた。
ミースケはお互いにじっとしている睡眠時間を使って、自らの波動の流れを恭子に送り、いわゆるバイパスを構築することで、波動の流れを伸ばしていった。
その結果、ようやくミースケの助けなしに、恭子は波動を体内に巡らせることが出来るようになったのだ。
体内に、血液のように循環し始めた波動は、特異点であるミースケと同じように恭子の中で機能し、その証として、この世界の理に抗い、記憶を保持できるに至ったのだとミースケは説明したのだった。
つまり、前回のタイムリープで、恭子がいきなり波動を扱えていたのはそういった積み重ねがあったからだった。
ちょっと才能アリアリなんじゃないと、自画自賛していたことに恭子は今更ながら恥ずかしさを覚えた。
そして、波動を扱えるという事実以外にも、恭子は特別なアドバンテージを手に入れた。
世界中の誰もが、自分たちが延々とタイムリープを繰り返している事実を知らないまま、この世界を生きている中で、人間で唯一記憶を持ったままタイムリープ出来るようになった恭子は、この先の未来、100日間に何が起こるのかを事前に知っていることになる。
波動のことをちょっと物珍しい特技くらいに考えていた恭子は、あまりのスケールの大きさに頭を整理しきれない状態で、もう一つの疑問をミースケに投げかけた。
「ねえミースケ、また100日後には、また次のタイムリープが起こるんだよね」
「いいや、必ずしもそうとは限らない」
曖昧な返事を返したミースケに恭子は首を傾げた。
「どうゆうこと?」
「今回は特異点が存在していたからタイムリープは起こった。しかし俺がいなくなってしまったらこの世界の停まった時間は再び動き出す」
「ミースケがいなくなるって……」
ミースケの話を聞いて突然不安に襲われた恭子は、深刻な表情で言葉を失った。
「例えば俺が消滅してしまったら、この世界は再び動き出す。しかし波動を身につけている俺はこの世界では無敵なんだ。だが……」
「あの狭間の世界から来た奴ね……」
恭子の脳裏にあの禍々しい怪物の姿が浮かんだ。
あの異質な波動を扱うあいつ以外に、この世界最強猫を脅かす存在がいるわけがない。
「そうだ。あいつは特異点にとって厄介な存在なんだ。そして同じように、あいつにとって波動を扱う俺は何としてでも倒したい相手なんだ」
「お互いに闘わず、干渉しないでいられたらいいんじゃないの?」
「そうはいかないのさ」
ミースケは蒼い目を恭子に真っすぐに向けて、その先を続ける。
「あいつにとってこのループする世界は、最も不都合な状況なんだ。俺が存在する限り、あいつも時間の牢獄に閉じ込められたまま未来に足を踏み入れることが叶わない。喩えこちら側に出て来れたとしても、リセットされればまた狭間の世界へ逆戻りなわけさ」
「それでミースケが邪魔なわけだね。あのトラオと同じ絶対者とは違う理由でミースケを追いかけてたんだ」
あの怪物がどういった意図でミースケを狙っていたことは理解した。
しかし今繰り返しているこのループから抜け出すために、ミースケの存在していない状況が必要だということを恭子は受け容れられなかった。
「ミースケがいる限り、このループが元どおりになることが無いなんて……」
「ああ。でもそこはちゃんと考えてある。俺に任せておけ」
パチリとウインクしてみせたミースケは、そのまま恭子にすり寄って来た。
恭子はそのままミースケを膝の上に乗せてやる。
「何か他にこの状態を抜け出す方法があるってこと?」
「ああ、キョウコは何の心配もしなくていい。上手くいけば次のタイムリープは起こらずにその先へと進めるはずだよ」
この毛の塊に太鼓判を押されると、なんだか安心できる。
のほほんとした雰囲気のミースケに、恭子の気持ちは幾分和らいだ。
そろそろ眠たくなってきたのだろう。大欠伸をしたミースケにつられて、同じように大きな欠伸をした恭子はそのままベッドに入った。
色々なことがあった一日だった。
胸の上に乗って来たいつもの感触に恭子はひと心地つく。
そしてやっと、恭子は眠りに就いたのだった。
薄いグリーンのカーテン越しに、朝の光が部屋に射し込んできていた。
アラームが鳴る前に目覚めた恭子は、いつもどおり胸の上で気持ち良さげに眠るミースケに、やや眠たげな眼を向けた。
そのずしりとした重さに、形容しがたい心地よさを覚えつつ、恭子は昨日ミースケから打ち明けられたことの全容を思い返していた。
「はー」
溜め息を一つついた恭子に、ミースケが反応して大欠伸をした。
グーっと手を伸ばしたミースケの肉球が、恭子の顎を押し上げる。
ちょっと気持ちいい。恭子は肉球効果でささやかな癒しを味わった。
「おはようキョウコ」
「おはようミースケ」
朝の挨拶を交わして、恭子はそのままちょっと思案する。
このあとの未来は知っている。取り敢えずそのとおりに行動すれば、ミースケは晴れて我が家の飼い猫になるのだ。
逆にそのイベントが起こらなければ、ミースケは正式なうちの飼い猫になり得ないわけだ。
「ねえミースケ。このあと玄関でお父さんに見初められて、それからお母さんに気に入られてうちの猫になるんだよね」
「そうだ。そこは同じ方がいいな。俺も餌を堂々ともらいたいし」
「あのさ、もし、そのイベントが起らなかったとしたら、うちの子になれないのかしら?」
「いいや、そんなことは無いよ」
ミースケはスッと立ち上がって、恭子の胸の上から降りていった。
そして、そのまま毛づくろいをする。
「そんなことないってどうゆうこと?」
「未来に起こることは、そのとおりに行われなくても、ある程度は今まで起こったように展開していくんだ。つまりあれだよ。川の流れが同じ川筋を辿って海に行きつくみたいにさ」
分かるようで分からない。ちょっとした哲学的な内容に、恭子は難しい顔をした。
「うーん。ちょっと良く分かんない」
「まあ、あれだよ。そこそこ自由に動き回っても、同じようなイベントが起こるってこと。遅かれ早かれ今まで辿った感じに落ち着くってわけさ」
「ふーん、そうなんだ。じゃあ、今日ミースケがお父さんに発見されなくても、明日とか明後日とかにはうちの猫になってるってことだね」
「まあ、そうゆうこと。でも俺も腹が減ってるから、本日付けでキョウコの家の猫になることにするよ。そうゆうわけでキョウコ、頼んだよ」
「オーケー。任せておいて」
とは言っても、特に何をするわけでも無い。
いつもの朝をいつもどおりにこなしていけば、ミースケは絶妙なタイミングで現れるのだ。
そう、こんな感じで。
インスタントコーヒーとトーストの匂い。片瀬家の朝はこの匂いで始まる。
いつも慌ただしく出勤しようとする父。
恭子より少し早く家を出る父に母はいつものように鞄を手渡し、父はいつものように玄関を出ようとする。
そしてこのとき、父は猫の存在に気が付くのだ。
「どうして家の中に猫が?」
父の言葉に振り向いた母も、廊下に鎮座している蒼い目の猫に気付いた。
「あら、可愛い」
ミケがいなくなってから、モフモフに飢えていた我が家に猫が現れた。
そこに何故猫がいるのかなど、この二人にはどうでもいい。
とにかく猫に触って、スリスリしたいのだ。
「にゃー」
ミースケはあざとく両親の前で「にゃー」と可愛く鳴いて見せた。
猫を被っているというのは、まさにこのことなのだろう。
完全に両親を手玉に取ったミースケに、恭子はグッジョブと親指を立てた。
「恭子? ひょっとしてあんたが拾って来たの?」
なんだか嬉しそうに母に言われて、恭子はへへへと笑って見せた。
「いいわよ。ねえ、お父さん」
「ああ。可愛い猫だし、人懐こいし、いいんじゃないかな」
あっという間に終わった家族会議のあと、父は名残惜しそうに、最後に猫をひと撫でしてから、玄関を出ていった。
素晴らしい手際の良さだった。それはそうだろう。このシーンをもう飽きるほどミースケは演じてきているのだから。
こうしておしゃべりで、両親の前では「にゃー」としか鳴かない猫は、我が家の家族となった。
そしてこれから学校だ。
そこにはいきなりの大きなイベントが待ち構えている。
恭子は台所に戻って行こうとしている母の背中に声を掛けた。
「お母さん。今日さ、お弁当少し多めにしてもらっていいかな」
「あら? 足りなかった? じゃあ、おにぎり二つほど握ってラップに包んどくね」
「うん、ありがとう。あと、卵焼きも増やしてもらえたら……」
「はいはい。分かったけど、そういうのは昨日のうちに言っといてね」
「うん。ごめんね」
母が台所に消えたあと、恭子は背後のミースケを振り返った。
ミースケは片手を上げて、ピンクの肉球を恭子に見せていた。
グッジョブ。
そう言いたかったのだろう。
恭子はなんとなくそう察したのだった。