第14話 第三の猫とカトリーヌ
缶詰の蓋を開ける音で、耳をピクリと動かした黒猫は、瞼を開いて黄色く光る瞳をカトリーヌに向けた。
羽毛布団の上で寝ていた黒猫はベッドから飛び降りると、そのままマグロ缶にありつこうと茶碗に向かった。
カトリーヌはマグロ缶を美味しそうに食べている黒猫をしばらく見つめていた。
「クロード、そろそろあなたの素性を教えてくれない?」
あらかた食べ終わったのを見計らってカトリーヌは猫に話しかけた。
普通なら、猫と会話など成立しない。しかし、カトリーヌのもとにふらりと現れたこの黒猫は、人の言葉を普通に話した。
「ご馳走様。美味しかったよ、カトリーヌ」
クロードと呼ばれた黒猫は、綺麗に器の中を平らげて、カトリーヌを見上げた。
カトリーヌのもとに、この不思議な黒猫がやって来てからもう三日になる。
最初はおしゃべりする猫にうろたえてしまったが、切り替えの早いカトリーヌは、この頻繁にやってくる珍客に知的好奇心を抑えきれず、今はその不思議さを解明すべく黒猫を受け容れていた。
そしてこの黒猫に、クロードというちょっとしたエレガントな呼び名までつけていた。
カトリーヌの部屋はおおよそ十二畳くらいの広さで、アンティーク調の家具と調度品が部屋の中を豪華に飾っている一方、思春期の女の子の部屋を連想させる可愛らしい小物などは置かれていなかった。
そこかしこにエレガントさが窺える、この少女らしい部屋だと言えた。
「あなたがお喋りをしているのは否定しようのない事実だわ。一体あなたは何者なの?」
「僕かい、僕は君の友達さ。しかも特別な」
猫の習性なのだろう、食べ終わってすぐに器用に手と舌を使って毛づくろいをし始めた。
カトリーヌはその態度に不満を見せる。
「質問に対する答になっていないわ。真面目に答えて」
「カトリーヌ、君が特別なように、僕は特別な猫なんだ。君は自分のその美しさの理由を説明できるかい? 同じことだよ。お喋りできる理由は特別だからってことでいいじゃないか」
少し自尊心をくすぐられて、カトリーヌは質問を変えた。
「あなたは私に会いに来たと言ってたわね。その理由なら説明できるでしょう?」
「ああ、簡単なことだよ」
毛づくろいの手を止めて、黒猫はカトリーヌに大きな黄色い目を向けた。
「特別な僕は、特別な君をさらに特別にできる。君の望むことを叶えるために僕はやって来たのさ」
「望みを叶えるって、猫のあなたがどうやって?」
「君は僕を試したいのかい? いいよ。君の信頼を勝ち取るために証明してあげるよ」
黒猫は口元を少し吊り上げてみせた。
恐らく笑いの表情を作ったつもりなのだろうが、気持ち悪いくらい不自然だった。
「無理に笑わなくっていいわ。それより早く証明してみせてよ」
「分かった。じゃあ、今から言うことを覚えておいて」
「はいはい。じゃあ言ってみなさいよ」
もうそろそろ学校に行かなければいけない時間だ。
制服に着替えながら、カトリーヌは猫が何を言い出すのか耳を傾ける。
「あと三十分以内に雨が降る」
「え? それだけ?」
「ああ、必ず降ってくる」
「ふーん。天気予報が出来るってこと?」
窓の外は晴天だった。カトリーヌは手にしたスマホで、今日の天気予報を確認してみた。
「雨の予報はないけど」
「そうかも知れないね。でも傘を持って行くことをお勧めするよ」
「こんないい天気なのに……」
カトリーヌはもう一度窓の外に目をやってから、スマホをポケットにしまった。
猫のたわ言を真に受けている訳ではないが、一応、折り畳み傘を鞄に入れた。
鞄を手に部屋を出ようとしたカトリーヌを、クロードは「行ってらっしゃい」と送り出す。
カトリーヌはドアノブに手をかけたまま、見送ろうとする黒猫を振り返った。
「雨が降るのを当てたとしても、私は天気なんかに興味ないわ。あんまし役に立ちそうもない特技ね」
カトリーヌに黄色い目を向けていた黒猫は、パタパタと尻尾を振った。
表情筋が乏しいせいで、その表情は読み取れないが、犬と違い、猫が尻尾を振るときは、大概気に入らないことがあった時だ。
「僕は天気予報をしているつもりはないよ。君は結構鈍いみたいだね」
「さっきから何が言いたいの?」
苛立ちを見せたカトリーヌとは対照的に、黒猫は落ち着き払った様子でおかしなことを言い始めた。
「一時限目の途中で雨は止む。しかしグラウンドが濡れていて、二時限目の体育の授業は体育館ですることになる。そこでバスケットボールをして君のチームは敗れてしまうだろう」
「フン、適当なことを言うのね」
軽く聞き流したカトリーヌは、そのまま部屋を出て行った。
学校の校門に差し掛かった辺りで、雨粒が肩に落ちてきた。
空を見上げたカトリーヌは、雨が本当に降ってきたことにたいして驚きもしなかった。
「結局、傘をさすまでも無かったじゃない」
鞄に入れた折り畳み傘を出すまでもなく、カトリーヌは正面玄関に駆け込んだ。
靴箱から教室まで行く間に、雨は強くなっていった。
この調子だと、二時間目の体育はあの黒猫の言ったとおり体育館になるだろう。
教室に入って、廊下側の窓側の自分の席に、カトリーヌは鞄を置いた。
そして半分ほど開いた窓ごしに、昨日の放課後、話をした少年が歩いているのを見かけた。
来週将棋部に顔を出すと約束していたが、もう一度印象付けておこうとカトリーヌは席を立った。
「野村君」
「え? ああ如月さん。おはようございます」
エレガントスマイルのカトリーヌに呼び止められて、丁寧な挨拶をした少年は、そのまま教室に向かおうとした。そのそっけなさにカトリーヌは軽く苛立たせられる。
「あの、野村君、将棋のことで少し聞きたいことがあるんだけど」
カトリーヌが少し餌を巻くと、標的はまんまと乗って来た。
「将棋のこと? ちょっと鞄を置いてくるから、ちょっと待っててください」
「うん。待ってる」
チョロいもんだった。カトリーヌは余裕の笑みを浮かべたのだった。
二時限目、体育館でバスケットボールを追いかけながら、カトリーヌはあの黒猫が言っていたことが現実になっているのを目の当たりにしていた。
雨が降ったことといい、バスケットのことといい、今思えば、あの黒猫、まるで未来を見通せていたかのような印象だった。
考え事をしていたカトリーヌは、突然鳴り響いたホイッスルにドキリとして足を止めた。
「片瀬さん、大丈夫!」
駆け寄っていった教師が、仰向けに倒れ込んだ恭子の様子を見ている。
どうやらプレー中に交錯したようだ。もう一人の女生徒は大したことないようで、もう起きあがっていた。
「先生は片瀬さんを保健室に連れて行くから、みんなはそのまま試合を続けておいて」
つかの間の混乱の後、試合は再開されたが、片瀬恭子の抜けたチームはかなり弱体化していた。カトリーヌのチームはまだ追いかける側だったが、ここから逆転できるかも知れない。
あの黒猫が予言していたバスケットボールでの敗北は、覆る可能性があった。
このときカトリーヌは、このまま予言通りになるのを是としておらず、自信ありげな猫の鼻っ柱を折ってやりたい気分になっていた。
必死にボールを追いかけて自分でもシュートを決めた。
それなのに……。
僅差だったがカトリーヌのチームは敗れた。
片瀬恭子がいなくなってから、相棒の島津美樹が躍進し、抜けた穴を見事に補って見せたからだった。
カトリーヌは敗北の悔しさと、黒猫の予言が的中したことに対する畏怖を感じていた。
帰宅したカトリーヌを黒猫はいつものように出迎えた。
「どうだい? 僕の言ったとおりだっただろ」
「クロード、あなた……」
黒猫は、カトリーヌが口にしようとしたひと言を、先に言っていた。
「ご推察のとおりさ。僕は未来を見通せる。君が知りたい未来を教えてあげてもいい」
「私の……知りたい未来……」
頭の中を整理しきれないまま、カトリーヌはそう呟いた。
「そう、美しい君に見合う洗練された未来を僕が引き寄せてあげる」
「私に見合うって、いったい何をしてくれるの?」
「そうだね。例えば君に釣り合う異性を見つけ、恋のお手伝いをするなんてどうかな」
黒猫の提案は、カトリーヌを不快な表情に変えた。
「私を手伝うって? 誰かを夢中にさせるのに私は誰の手も必要としないわ。特に猫の手はね」
「これは失礼。言い方を間違えたようだ」
カトリーヌの機嫌を損ねまいと、黒猫は恭しく膝を折った。
「未来を見通せる僕なら君に相応しい異性を見極めることができる。これから大成する若芽を僕なら百パーセント見極められるよ」
その言葉にカトリーヌの表情が変わった。
この猫使えそうだわ。計算高いカトリーヌが見せた表情はそんな感じだった。
「魅力的な提案だわ。じゃあ早速私のリストの中からピックアップしてごらんなさい」
カトリーヌは引き出しからあの手帳を出すと、黒猫に見せようとした。
「カトリーヌ、僕はそんなものを見なくても、もう人選を終わらせているよ」
「そうなの? まだ誰も見ていないのに?」
「誰が大物になるかなんて、未来を知る僕には造作もないことさ。君の周りにいる最も成功する男を僕が教え、君が手に入れればいい。効率的で簡単なやり方だろ」
「そうね。じゃあ、教えてよ。私に相応しい相手を」
黒猫は美しい黄色い目をカトリーヌに向けて、その相手の名を静かに告げた。
「野村忠雄。プロ棋士として大成し、将棋界の歴史に名を残す逸材になる。君を最も輝かせることができる男だ」
「野村君が……」
リストの中では中程度のランクに入れていた少年の名が出たことに、カトリーヌは驚きを隠せない。
「しかし、彼はなかなかの堅物のようだね。君は助けは要らないと言ったけれど、僕に助言くらいさせてもらえないだろうか」
「そうね……まあ助言くらいなら」
提案を受け入れたカトリーヌに、黒猫は器用に口元を吊り上げて笑みを作って見せた。
「きっと僕は君の良き相棒になれる。特別な君にふさわしい猫だと証明してみせるよ」
小さな口から出た甘い囁きに、カトリーヌは言葉もなく頷いた。




