第11話 第三の猫
恭子は湯船の中でぼんやりと大きな息を吐く。
忠雄とカトリーヌのやり取りを聞いてしまい、嫉妬から思わず部室に寄らず帰って来てしまったことを、恭子は今になって後悔していた。
「またやっちゃった……」
ため息混じりに呟いた恭子に、無理やり一緒に風呂に入れられているミースケが首を傾げる。
「またなんかあったのか? キョウコ」
週に一度、恭子はこうしてミースケと風呂に入っている。
そして今、ペット用のシャンプーで丹念に洗われて綺麗になったミースケは、毛のボリュームの一切なくなった貧相な感じになっていた。
「そうなのよ。今日こそは野村君のとこに行くって決めてたのにさ……」
「行ってないのか?」
ちょっと意外だった様子で、ミースケは恭子に蒼い目を向けた。
「そうなの。あー、私ったら何やってんだろ」
恭子は唇を湯船につけてブクブクと泡を出す。
反省と後悔と嫉妬が入り混じった恭子の雰囲気に、ミースケは乏しい表情筋を動かして、やれやれといった顔をする。
「そうクヨクヨするなよ。また明日があるって」
「そうだけどさ、分かってたのにまた野村君を待ちぼうけさせちゃって、今になってすごく後悔してるの……」
「また話を聞いてやるよ。その前にキョウコ、そろそろ上がらないか? 何だか茹で上がりそうなんだけど」
ミースケに指摘されて、時間を忘れて風呂場で後悔していたことに気付いた。
「あっ、ごめん。そう言えば私もちょっとのぼせてきたみたい」
「ああ、俺の色覚じゃわかりにくいんだけど、キョウコも茹で上がってる感じだよ」
「ミースケは毛があるから顔色って分かりにくいね」
そして風呂から上がった恭子とミースケは、しっかりとドライヤーで毛を乾かせてから部屋へ戻った。
そしてミースケに今日あったことを、愚痴を織り混ぜながら全部話し終えて、恭子は猫によるカウンセリングを受けていた。
「成る程な。過去の行動が今日のイベントに影響してしまった訳だな。まあ、この程度なら想定の範囲だけど」
「想定の範囲って、あんたこうなることも見透かしてたってこと?」
「いいや、そうじゃなくって、カトリーヌは前回のループのときも忠雄の周りをうろうろしてただろ。つまり、今のカトリーヌは百戦錬磨で自信の塊なんだよ。将棋で表彰を受けた忠雄にちょっと興味を持って、思わせぶりな態度を見せて自分になびかせてやろうって感じなんだろ」
やはりこの猫に相談すると、的確な意見が返ってくる。間違いなくそういった才能があると恭子は確信していた。
「ねえ、ミースケ、私このまま野村君に会いに行ってもいいよね。なんだか来週如月さんと約束してたけど、気にしなくっていいんだよね」
「まあ、忠雄はキョウコにぞっこんだからな。あんまり気にすることはないだろう。来週、将棋を教える約束をしたのも、ただ単に将棋に感心を持ってくれた相手を放っておけなかっただけじゃないかな。ひょっとしたらあいつ、部員が一人増えるかもとか期待したのかも知れないぜ」
確かにまだ始まっていないけれど、忠雄は部活紹介で、熱く新入生に将棋の魅力を伝えようとしていた。
カトリーヌが将棋に感心があるそぶりを見せたので、入部してくれる可能性を感じたのかも知れない。だから個人的ではなく、来週の部活の見学に誘ったのではなかろうか。
「ミースケの言うとおりかも……」
情況を俯瞰しつつ論理的に人間心理すら分析し、的確な助言を提示してきたミースケに拍手を送りたかった。
天部の才だわ。恭子はあらためてそう思った。
「明日は必ず部室に行って来る。それでちゃんと謝ってくるね」
「ああ、俺も報告楽しみにしてるよ。上手くいったらいいな」
「ありがと。やっぱミースケに相談してすっきりした」
恭子はミースケを抱えて膝の上に載せると、喉の下辺りを撫でてやった。
ミースケはすぐに喉をゴロゴロと鳴らして、気持ち良さげに目を閉じたのだった。
如月カトリーヌは帰宅してすぐに、自分の机の引き出しを開けて刺繍の入った革製の手帳を取り出した。
そしてペラペラとページをめくってから、ペンを取った。
「野村忠雄……」
そこには幾つか男子生徒の名前が並んでおり、その中には野村忠雄の名も記載されていた。
カトリーヌはペンを手に、しばらく思い悩む。
そして、スラスラと綺麗な文字を名前の横に書いていった。
野村忠雄(B+) 進行度(3) 性格(奥手、暗い、やや大人しい) 趣味(将棋) 備考(来週、将棋部部室に顔を出す。そのあと告白される予定)
「これでよしっと」
今日の成果を書き終えて、カトリーヌは満足げにまた手帳をしまった。
男子生徒の名前が列挙されていた革製の手帳は、いわばカトリーヌのコレクションを記したもので、手玉に取った少年たちと、これから手玉に取る予定の少年たちを、書き記したものだった。
きっちりした性格もあるが、段々数が多くなってきたので、まとめておかないと忘れてしまうと考えたカトリーヌは、専用の手帳を作っていたのだった。
「あー、将棋かー、面倒だなー」
常日頃からエレガントに見られている自分が、全く将棋を知らない状態では格好悪い。
自分が相手からどう見えているのかを最も気にするカトリーヌは、早速将棋に関する情報収集をしておこうと、スマホで検索をかけた。
「ふーん、成る程ね」
ベッドに寝転がりながら、将棋の駒の動きを勉強していたカトリーヌは、ふと窓の外に気配を感じて目を向けた。
「猫?」
バルコニーに通じる掃き出しの窓の外に、二つの尖った耳を持つ黒いシルエットがあって、黄色く光る眼をこちらに向けていた。
猫は嫌いではない。むしろ好きな方だった。
カトリーヌはスマホをベッドに置いて、窓をゆっくりと開けてやった。
「どうしたの? 迷子にでもなった?」
「にゃー」
返事をしてから黒猫はゆっくりと部屋に入って来た。
そのままカーペットの上にちょこんと座ると、その黄色い二つの瞳をカトリーヌに向けてきた。
「なあに? あなたも私に気があるのかしら」
冗談交じりに笑って見せたカトリーヌに、目の前の黒猫が口を開いた。
そして黒猫の口から「にゃあ」という鳴き声ではない意外なものが飛び出した。
「君に会いに来たんだ。カトリーヌ」
人間の言葉を話した黒猫を、カトリーヌは唖然とした顔で見降ろしていた。




