第10話 嫉妬する少女
高所の恐怖に震えながらも、電波塔の穴を塞ぎ終えて帰宅した恭子は、一体どこで何をしていたんだと、待ち構えていた両親からさんざん叱られた。
友達の家に猫を見せに行っていたと、自転車の籠に乗せていた二匹を言い訳に使って、ようやく部屋に戻ってこられた。
クタクタに疲れ果てた恭子は、カーペットの上でへたり込んだあと、ミースケとトラオが見守る中、背負っていたリュックのジッパーを開いた。
「にゃー」
出て来たのは中くらいのサイズの黒猫。
あの穴から出て来たやつが擬態した猫だ。
「あんたのお陰で散々だったわ。お陰で大目玉食らったじゃない」
文句をぶつぶつ投げかける恭子に黄色い目を向けて、黒猫は首を傾げている。
「にゃー」
「にゃーじゃないよ。ねえ、トラオ、あんたみたいに話さないんだけど、どうなってるの?」
もっともな疑問に、トラオは簡潔にこたえた。
「それはこれから。さっきは時間がなかったから、最低限の情報を与えたあとに俺たちが仲間であると植え付けて、猫に擬態させただけなんだ」
「ふーん。じゃあそのうちに、あんたと同じ感じになるってわけね」
「まあそうゆうこと。俺がしばらく付きっ切りでこいつの面倒をみるよ」
「先輩って感じね」
「まあそんな感じだ」
こうして、あっち側の世界から来た絶対者が、トラオの提案で仲間に加わった。
今の所、ちょっと得体の知れない感じで気味が悪いが、トラオが面倒を見ている間に話も出来るようになるのだろう。
「ねえトラオ、この新入りにも名前つけといたほうがいいんじゃない?」
「ああ、そうだな、その方がいいだろうな。なんかいい感じのやつキョウコがつけてくれるか?」
「トラオが面倒見るみたいだし、先輩のあんたがつけてあげなよ」
「そうだな……」
トラオは緑色の眼を少し細めてやや首を捻った。
それからしばらく新参者の黒猫をじっと見つめていたトラオは、スッと二本足で立ち上がると、右手を上げてその肉球で黒猫を指さした。
「よし。決めた。お前の名前はクロだ!」
「え? まんまじゃない。ほぼあんたと一緒だけどそれでいいわけ?」
「いい。それしか思い浮かばん」
こうして黒猫は、トラオ同様、何の捻りもない見たまんまの名前に収まった。
黒猫の名前が決まったので、恭子はこれですべてが丸く収まったのか、確認しておいた。
「ねえ、ミースケ、トラオ、これでもうあの狭間の世界からやってくる怪物はこっちには来れなくなったんだよね」
そのために高所で恐怖に震えながら穴を塞いだのだ。これで終わったのだと安心させて欲しかった。
「ああ、そうだ。キョウコの言うとおり、理論上あいつはこちら側の世界に入って来れないはずだ」
少し奥歯にものの挟まったような言い方をしたミースケに、恭子は説明を求めた。
「理論上ってどうゆうこと?」
「普通に考えたら、あいつがここに現れることはあり得ないということさ。あいつが再び出現する道理は存在しない。世界の理を壊さない限り二度と出会うことは無い」
「世界の理を壊す……」
ミースケが言ったその言葉に、恭子は引っ掛かりを覚えたものの、それ以上の回答を誰も見いだせないであろうと、その時は感じていた。
翌朝、背中や腰、肩の痛みに悲鳴を上げつつベッドから身を起こした恭子は、カーテンをサッと開いて朝の光を部屋に入れた。
昨日あの穴を塞いだことで、あれだけ悩み抜いていた問題は解決したと考えても差し支えないだろう。
少し計算外だったあの黒猫の出現以外は、おおむね順調だと言っていい。
あとは教育係のトラオがうまくやってくれる。そう恭子は前向きに考えたのだった。
通学路を制服でそぞろ歩く中学生たち。その中で、恭子はひらりとスカートの裾を舞わせて先を急ぐ。
その胸の内のように、少女の足取りは軽快だった。
そして今日も、別に待ち合わせ場所にしているわけでもない住宅街の公園前で、親友の島津美樹が大きく手を振っていた。
「なあに? いいことでもあった?」
合流した美樹に、いきなりそう指摘された。
自分が分かり易いタイプだということについては自覚がある。きっと顔中でニヤけていたのだろう。
「まあね。ちょっと爽快な気分なんだ」
「なに? 教えてよ」
「それは内緒。ごめんね」
「なによ。言いなさいよ」
美樹は恭子の背後に回って脇腹をくすぐる。
恭子はキャーと叫びながら、しつこい友人から逃げ出した。
そしてそのまま二人は、通学中の学生たちをかき分けながら走っていく。
春の陽気の中、少女たちの明るい声が通学路に広がっていた。
放課後、恭子は忠雄が待っているはずの将棋部の部室に向かっていた。
恭子は階段を上がりながら、ちょっとした期待感で胸を弾ませる。
ミースケもトラオも、あの新参者の黒いのもいない。
つまり邪魔者はここにいないということだった。
タイムリープが起こる前は、あの二匹が恭子をずっと監視していた。
脅威の去った今は、猫たちもボディーガードをする必要がないわけだ。
きっと今頃、日当たりのいい所で昼寝でもしているだろう。
ただこの数日、恭子は起こるはずのイベントを数多く書き替えてしまっていた。
それがいったいこの先にどう影響してくるのか、それは誰にも分からない。
ただミースケの言っていた未来の行きつく先が変わっていないのならば、ここで舵を切り直すことで、これまでの失態を修復できるのではないかと前向きに期待していた。
そして三階へとやって来た恭子は、高鳴る胸を片手で押さえながら将棋部の部室の前で足を止めた。
「ふーーー」
一度大きく息を吐いて気持ちを静めると、恭子は扉をノックした。
トントントン。
「あれ?」
反応がないので扉を引いてみたが、鍵がかかっていた。
まだ誰もいないようだ。どうやら早く来過ぎたみたいだ。
「早すぎたみたいね……」
気持ちが先走ってしまい、少年を恭子が待つ感じになってしまった。
でもそれで丁度いいのかも知れない。
彼を散々待たせたのだから、ここで彼を待つのが当たり前なのだ。
来るかどうかも分からない人を待ち続けるのって、どんな気持ちなんだろう。
少し待てばいいだけの自分と違って、彼はいつ現れるかも分からない相手を待ち続けた。
誰もいない部室で、ノックの音がするのを少年はひたすらに待っていたのだ。
その気持ちを想像すると、切なくて胸が苦しくなった。
やがて階段を上る靴音が聴こえて来た。
恭子は鞄を持っていない方の手を使って、髪を手櫛で整える。
そして靴音の主が三階に現れた。
「あら、片瀬さん」
階上に姿を現したのは如月カトリーヌだった。
生徒会室に用がありそうなカトリーヌは、少し意外そうな顔をしたあとで、すぐに落ち着いたエレガントスマイルを見せた。
恭子は期待していた相手ではなかったことに顔色を変えず、はにかみながらクラスメートに軽く手を振った。
「どうしたの? 生徒会に用でもあった?」
カトリーヌがそう解釈したのはの当然だろう。将棋部の部室と生徒会室は隣り合っている。
教室の前でなく窓側で佇んでいた恭子が、まさか将棋部に用事があるとは思うまい。
なんとなく答えにくくて、恭子は質問をはぐらかした。
「ええと、私はその……如月さんは生徒会だよね」
「まあ、そんなとこ。えっと、生徒会に用なら、私が聞いとくけど」
困った事になった。忠雄に呼び出されてここに来たことを今の時点では言い出しにくかった。
まだ何の関係も二人には無いわけだが、カトリーヌが憶測で二人にまつわる噂でも広めたりしたら、内気な忠雄は動揺するに違いない。
きっともうすぐ忠雄はやってくる。ここは鉢合わせにならないようにした方がいいだろう。
「いえ、お手洗いに行きたかっただけなの。三階のトイレいつも綺麗にしてあるから」
「ああ、そうなんだ。じゃあね」
軽く手を振って、恭子は三階のトイレに直行した。
そしてついでに用を足す。
「少しここで時間を潰してから、もう一度部室に行ってみよう……」
恭子はトイレに腰かけたまま、しばらくこの後の忠雄との展開を思い描いたのだった。
手洗い場の鏡でもう一度髪を整えてから、恭子は部室に向かうべくトイレを出て行こうとした。
アッ!
恭子はすぐさま足を止めた。
少し離れた将棋部の部室の前で、忠雄とカトリーヌが立ち話をしていたからだった。
恭子は少し嫉妬を覚えながら、二人の会話に耳を傾けた。
誰もいないガランとした廊下での会話は、意外と響くものなのだ。
背を向けている忠雄の声は聞き取り辛いものの、カトリーヌのややソプラノ気味な声は、恭子の耳に十分届いた。
「野村君って、将棋強いんだね」
「う、うん……」
「表彰されてるの見て、私なんだか見直しちゃった」
「あ、ありがとう」
表彰されていたことで、カトリーヌは忠雄に関心を持ったのだろう。
先日話をしていた時とは違い、今日のカトリーヌは積極的であった。
そして、こっそり覗き見る恭子の視線の先で、カトリーヌが男子を悩殺するあのエレガントスマイルを忠雄に食らわせた。
「野村君、もし良かったら、今度私に将棋教えてくれないかな?」
「え? 将棋に興味あるの?」
「うん。ちょっと面白そうだなーって思って」
「ホントに?」
将棋の話が出たことで少年の声が明るく変化した。
恐らくカトリーヌの計算通りの反応だったに違いない。
「じゃ、じゃあ、来週は普通に部活があるんで、見学に来てもらえたら」
「うん。じゃあ、野村君に教えてもらうの楽しみにしてるね」
「あ、うん。でも僕なんかより先輩に教えてもらった方が……」
光沢のある廊下に伸びる二人の影がほんの少し近づく。
カトリーヌは上目遣いで少年を見上げ、誰をもくぎ付けにする恥ずかし気な表情を浮かべた。
「私、野村君に教えて欲しいな……」
カトリーヌの猛アタックの前に、普段女子と話をした事もない忠雄はオタオタしているように見えた。
恭子はモヤモヤした気持ちで、忠雄がなんと返事するのか耳をそばだてる。
「えっと、うん。僕で良ければ」
なによ! 断りなさいよ!
猛烈に嫉妬してしまい、恭子は両手の拳を爪の跡が残るくらい握りしめた。
「じゃあ約束ね」
「うん。じゃあまた来週」
恐らく忠雄は、カトリーヌが将棋に興味を持っていそうなので約束をしただけなのだろうが、今の恭子はそんなことにも気が回らないくらい嫉妬の炎で胸を焦がしていた。
笑顔で手を振って分れた二人を、唇を噛みしめながら見つめていた恭子は、部室に忠雄が入って行った後も、なかなかトイレから出て行こうとしなかった。
そしてしばらくして、恭子は将棋部の部室の前までやって来た。
ノックをしようとした手を止めて、口を尖らせる。
「フン!」
結局恭子はノックをせず、そのまま踵を返して階段を下りて行った。




