4.「ロミオ」と「ジュリエット」
「……ジュリエット、このあたりの席で待っていて」
「はいい?」
ババロアが盛られた小皿を両手に戻ってきたジュリエットに、紳士から眼を外さないまま呟くと、ジュスティーヌは紳士の方へするすると歩み出した。
後ろでジュリエットがなにか言っているが、もうジュスティーヌの耳には入らない。
紳士もジュスティーヌに向かって動き出す。
ちょうど、中間地点で二人は出会った。
紳士ははにかむような笑みを浮かべ、「良い夜ですね」とだけ言った。
初めて聞いた声は甘く、耳に心地よい。
ジュスティーヌは「ええ、とても」とだけ答えて、頬が上気していくのを感じながら紳士を見上げた。
紳士は、優しげな深い緑の瞳でジュスティーヌを見つめて軽く頷く。
つけているのはジュスティーヌと同じく、目元を隠すだけの仮面。
顎や鼻、唇の印象からすると、整った顔立ちのようだ。
ご馳走が並ぶテーブルのまわりは人の行き来が激しい。
お互い、うっとりと見つめ合っていたところに、誰かにぶつかられかけて、ジュスティーヌは慌てて避けた。
紳士が、ジュスティーヌを自分の身体でかばうように動き、肘を差し出した。
ジュスティーヌは、流れるように見知らぬ紳士の肘につかまる。
服越しに触れた腕は細くはなかったが、父や親戚達よりも柔らかく感じられた。
服の下の裸の腕をつい想像してしまったことに気づいて、ジュスティーヌはこっそり顔を赤らめる。
人の流れを避けようとしているうちに、2人は自然、廊下に出た。
廊下には人の気配はなく、王国のあちこちの風景を描いた油絵や、祖先の肖像画が並ぶ。
2人は、静かな方へ静かな方へとゆっくり進んだ。
遠くからワルツの調べが聞こえてくる。
「黒髪のレディ、お名前をお伺いしてもよろしいですか?
せめて、今宵一夜の仮の名でも」
名を訊ねられて、ジュスティーヌは固まりかかったが、仮名でもと言われてほっとした。
仮装舞踏会では、お互いバレバレであっても、仮名を名乗りあって押し通すことが粋だとかなんとか、誰かに聞いた覚えがある。
「え、あ……その」
といっても、誰かと会話するつもりのなかったジュスティーヌは、仮名も考えていなかった。
結局、置いてけぼりにしてしまった友の名を借りる。
「ジュリエットとお呼びください。
あの、貴方は……?」
名を訊ねてきた紳士が逆に戸惑っている。
彼も仮名を考えていなかったようだ。
「そうですね……
では、ロミオと」
「ロミオ様」
ジュスティーヌは繰り返した。
「ロミオ」は、少し照れたような笑みを見せる。
ロミオというのは、王妃クリスティーヌの実家である隣国によくある名前だ。
もしかしたら、クリスティーヌが嫁いでくる時に連れてきた者の縁者なのかもしれない。
王女が他国に嫁ぐ場合、実家からついて来た侍女や侍従が、輿入れ先で現地の者と結婚し、家庭を持ってあるじを支え続けることは、ままあることだ。
もしそうなら、「ロミオ」は女公爵となる自分と結婚できる立場ではない。
まだ仮面越しの顔しか見ていないのに、そんなことまで考えている自分に、ジュスティーヌはうろたえた。
それにしても、なにを話していいかわからない。
下手なことを話して、自分がシャラントンの娘であることがバレたら困る。
本当は「ロミオ」の本名や、どういう立場の者なのか色々訊ねてしまいたいが、訊ねれば、自分のことも話さなければならなくなる。
しかたなく、黙ったままジュスティーヌは歩んだ。
とはいえ、話が途切れたままでも、不思議と居心地は悪くない。
このまま黙って、「ロミオ」と2人、どこまでもふわふわと歩いていければよいのに──
ふと、「ロミオ」は脚を止めた。
廊下の横手に、フランス窓が続いている。
中庭に出られるようだ。
「せっかくの舞踏会です。
踊りましょうか」
ジュスティーヌが頷くと、「ロミオ」は微笑みながらフランス窓を押し開いた。
石畳敷きの中庭は、さほど大きくはないが、真ん中に小さな噴水と花壇があるだけ。
灯はないが、満月に近い月の明かりで十分踊れそうだ。
どこかの窓が開いているのか、廊下よりも音楽がはっきり聴こえてくる。
片腕を伸ばして手を重ね、もう片腕を互いの腰にまわして、ワルツのかたちに組んだ。
身体が近くなったその分だけ、余計にふわふわした心持ちのまま、ジュスティーヌは「ロミオ」に合わせた。
「ロミオ」の動きは軽やかで、優しげなまなざしを見上げるうちに、緊張はすぐに解けて消えていく。
そして、人目を気にせず踊れる解放感。
翔ぶように、二人は踊った。
他に誰もいないのをいいことに、立て続けに何曲か定番のワルツを踊っているうちに、曲は流行歌をワルツに仕立てたものに変わった。
見知らぬ者同士が夜会で出会い、一目惚れをして永遠を誓う恋の歌だ。
今の状況にぴったりすぎる。
「ロミオ」は少し笑って、良い声で歌い始めた。
ジュスティーヌも一緒に歌う。
──甘き夜、見知らぬ者達が出会う
──眼があった瞬間、魂を射抜かれ
──共に手を差し伸べ
──共に踊るうち、離れられなくなる
──2人は恋に落ちたのだ
瞳をあわせ、声を合わせて歌いながら踊るのはさらに愉しい。
間奏に入ると、「ロミオ」はジュスティーヌの腰を両手で掴んで高く持ち上げ、くるくると回った。
思わず、高い声でジュスティーヌは笑う。
──眼があった瞬間、生まれた恋
──恋はいつまでも輝く
──甘き夜、それは運命
──甘き夜、それは永遠の愛
曲が終わり、足が止まる。
見つめ合ううち、自然に二人は堅く抱き合った。
「ロミオ」に包まれる感覚は、心地よかった。
彼の肩に頬を預けたジュスティーヌは、眼を閉じて、深々と息を吸った。
もう、この人の側でしか息ができそうにない。
「いつまでもこうしていられればいいのに……」
思わず呟くと、ジュスティーヌを抱く「ロミオ」の腕に力がこもった。
ジュスティーヌも「ロミオ」にしがみつくように抱き返す。
「『ジュリエット』、あなたとずっと一緒にいたい。
無粋かもしれない。
でも、本当の名を教えてくれませんか?」
堅く抱き合った身体に、「ロミオ」の声が直接響く。
戸惑いながらジュスティーヌは顔を上げた。
「あの、それは……」
言ってしまったら、この素晴らしい瞬間は壊れてしまうのではないか。
口ごもるジュスティーヌを、「ロミオ」は優しげな、しかし真摯なまなざしで見つめている。
深い緑の眼がきらめいて──
曲は以下を参考にしました。
※歌詞はオリジナルです。
Strangers In The Night(Frank Sinatra)
https://www.youtube.com/watch?v=BTOeRwIUnG0