手を繫いで歩いていた筈の道。社会人二人の百合物語。
"ウォンウォンウォン"キッチンから若干耳障りな冷蔵庫の音が聞こえてくる。
今からは結構前に買ったものであるためにモーターがおかしくなっているのか数日に一回はこの調子でこの部屋に住んでいる住人を苛々とさせるのだ。
でもこれまでは電源プラグをコンセントから一度抜いてまた差し込むなんていう方法で誤魔化し誤魔化し使って来た。
そうすると何故か落ち着きを取り戻すものだから。
けどそろそろ限界だろう。その証拠にどんどん異音が大きくなっている。
買い替えなくちゃいけないなと思いながら私は薄っすらと目を開ける。
夢の世界から現実の世界への帰還。私は割と夢見が良いほうだけど、今回は苦々しいものだったから現実の世界に戻って来れて良かったと心底安堵のため息を漏らした。
その夢の世界でのことが頭にこびり付いていたせいだろう。
ここに来て漸く妙に部屋が寒々しいことに気が付く。
悪寒がしてそれまでソファに横たえていた体を大慌てで起こした。
それにより私の体からタオルケットが零れ落ちていくのが感じられる。
ここでくつろいでいるうちに寝落ちてしまったのだろう。
そんな私に彼女は風邪を引かないようにと寝室からタオルケットを持ってきて掛けてくれたのだ。
二年前から付き合い始めた彼女。そのうち半年程日本と海外とで遠距離恋愛を経験している。
海外に行ったのは私。自分言うのもなんだけど、私は結構優秀なほうで、その手腕を買われて海外に行かされていたのだ。更なる実績作りのために。
仕事人間。……だと思う。だから帰りも遅くて、休日出勤もそれなりにあったりして、そのせいで彼女には何かと我慢させることも多々あるのが現状。
こないだも突然休日出勤になってしまって、ショッピングに一緒に行く約束をドタキャンすることになったし、そうでなくてもほぼ毎日帰りが遅いからろくに触れ合えてない。
そんな中で今日は久しぶりにまともに休みで彼女と雑談なんかして幸せに過ごしていたのによりにもよって寝落ち。
「最低だわ」
言い訳が許されるなら「日頃の疲れが出てしまった」。
営業は激務だ。特にこのご時世だから最近は本当に神経が磨り減ることが多い。
私の営業は企業相手なのだけど、どの企業もお金がないからそう簡単には契約してくれない。
こちらで作ったモノ。そのモノがいかに魅力的な商品で、契約するとどれだけのプラス効果があるのかを相手企業に伝えて、その上でライバル会社と競って勝利するのは簡単なことじゃない。
毎日が、こういう言い方もなんだけど、狐と狸の騙しあいな戦争。
そんな中での休日だ。気が抜けてしまったのは否めない。
とは言えだ。日頃から寂しい思いをさせている彼女に少しでも埋め合わせ。
それをしている最中だったのに寝落ち。自分の最低さ加減に頭痛がする。
と、ここで白いローテーブルの上に置いてある紙切れに気が付いた。
それを認識した瞬間に心臓が"ドクリ"と嫌な音を奏で、じゅくじゅくと痛みを覚える。
先程見た夢の光景がフラッシュバックする。
寂しさに耐えきれずに置き手紙を残して蒸発する彼女。
震える手でその紙を手に取る。
文字を読む勇気が沸かない。怖い。もしも夢と同じように彼女を失ってしまったら私は……。
「芽依」
彼女の名前を呼ぶと、脳裏に寝落ち前に話していた彼女の姿が浮かぶ。
久しぶりに私と戯れることができて彼女は嬉しそうだった。でも何処か寂しそうだった。
そんな彼女・芽依を見ていられなくて、私のせいで寂しそうにしていることを懺悔して、彼女のことを抱き締めて愛を耳元で囁いた。
今思い出せばなんて軽々しい愛なんだろうかと呆れる。自分自身の傲慢さに反吐が出る。
いろいろ言ってるけど、結局私は彼女を失ったら自分が可哀想で、そうならないために愛の言葉を利用して彼女を私から離れられないようにしようと画策したのだ。
"カサリ"と手の中の紙が音を鳴らす。
その時耳に届く別の音。
"ガチャ"
「ただいま」
私はそれに素早く反応して手の中に紙を持ったまま、その音の元へと駆け寄る。
「芽依」
呼びかけると玄関に屈んで靴を揃えていた彼女がこちらに振り向いて驚いた様子を見せる。
「静香さん、起きてたんですね! ……ってそんな大声出してどうしたんですか?」
「起きたら芽依がいなくなってたから」
「ああ、寂しくなっちゃったんですね。可愛い」
くすくすと笑う彼女。私の彼女は笑顔が本当に可愛い。
会社でもその笑顔は人気があって、可愛がってもらえる反面、いらない虫が近寄って来て面倒でもあるって彼女はそう言っていた。
彼女とは勤務先が違うのが悔しい。もしも同じだったら私が彼女に纏わりつこうとする虫を全力で叩き潰すのに。
まぁ私が潰さなくても彼女自身が言葉の殺虫剤で寄って来た虫を完膚なきまでに殺してるらしいけど。
「でも私、置き手紙残して行った筈」
彼女の素朴な疑問という感じの声が聞こえて私は手の中にある紙を彼女に見せる。
「ああ、それですそれ」
と、またも無邪気な笑みを浮かべる彼女。
この笑みを私以外の人にも見せていると思うとモヤっとする。
独り占めしたい。独占欲は強いほうだ。けど普段は表には出さないように理性で押さえつけている。
そのタガが外れそうになっているのは、やはり先程見た夢のせいだろう。
「それに出かけて来るって書いてたんですけど」
「なんだか見るのが怖くてまだ見ていないのよ」
「……怖い? よく分かりませんが、見てないならここで見ましょう」
「そうね」
一人だと怖いけど、傍に彼女がいるなら大丈夫だ。
二人でリビングへと歩きながら私は彼女が残した置き手紙に目を通す。
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静香さんへ
なんとなく無性にジャガイモが食べたくなったので軽くメークインしてポテポテット近所のスーパーに行ってきますね。
おやつにポテチを食べて夕食にポテトサラダ作りまっす。
芽依ダンシャクより。
(訳版)
なんとなく無性にジャガイモが食べたくなったので軽くメイクして歩いて近所のスーパーに行ってきますね。
おやつにポテトチップスを食べて夕食にポテトサラダ作ります。
芽依より
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私はそれを見て膝から崩れ落ちそうになってしまった。
何処から突っ込んだらいいのだろう。
訳版つけるくらいなら最初からそう書けばいいのに!!
芽依は女なんだから男爵じゃなくて女爵では!?
私はこんなものを怖がっていたのかと自分に呆れてしまう。
リビングに戻り、ローテーブルと共に配置されているクッションに腰を下ろすと早速スーパーで買って来たらしい戦利品を漁り始める芽依。
エコバックから何やらポテチとベーコン? と玉ねぎらしいものがパッケージにプリントされているポテチを二袋。出すと芽依は「お茶淹れて来る」とエコバックを持ってキッチンへと歩いていく。
「片付け手伝おうか?」と問いかけると「大丈夫です」って言われたので大人しく芽依が戻ってくるのをこの場で待つことにした。
"パリパリ"緑茶を飲みながらのまったりタイム。
「一人一袋じゃなくても一袋をシェアしたらいいんじゃない?」と言ったら芽依は「今日は一人で一袋食べたい気分なんです」と言って来たので一人一袋ということになった。
スナック菓子なんてどれくらいぶりだろう? 子供の頃にはそれなりに食べてた記憶があるけど、大人になってからはすっかりご無沙汰だった。
芽依もそうで何やら感慨深い様子でポテチを手を汚さないようにお箸で摘まんでは食べている。
強いコンソメの味。なかなかに美味しい。
「静香さん」
少しして味に飽きたらしい芽依が輪ゴムでポテチの袋を縛りながら私の名前を呼んで来た。
「うん?」
こちらも完食することなく芽依と同じように袋を輪ゴムで縛りながら芽依に応える。
「さっきの話ですけど」
「さっきの話?」
芽依はポテチの袋を見つめたままこちらを見ようとはしない。
その様子が胸にチクリと棘を刺してきたけど、敢えてこちらを見て欲しいとは言わず芽依に会話の続きを促す。
「置き手紙が怖いっていう話です」
「ああ」
「どうしてですか?」
ここで芽依が私に振り向く。
目と目が合う。その顔は困惑しながら泣いているかのような顔。
そんな顔しないで欲しい。というか芽依はきっとその理由に気が付いているのだろう。
それでも私に問いかけてきたのは、きっと自分の気持ちを正直に私に伝えるため。
なら私も言わなきゃいけない。芽依とちゃんと向き合って、話して、これからの二人を二人で決めるのだ。
「手紙に私に愛想が尽きたから別れたいって書いてあるかもしれないって思って……」
「もしそうなったら静香さんは寂しいですか?」
「当たり前でしょ。芽依を失ったらって考えただけで胸が張り裂けそうよ」
「……………私も寂しいです。こんなこと言ったら静香さんに嫌わるかもって思って、それが怖くて言えなかったんですけど寂しいです。仕事大変なのは分かります。でも静香さんって残業しなくても良い日にも自主的に残ってますし、休日出勤だって自発的に行ってるときありますよね。……何のために同棲してるのかなって感じる時があるんです。具体的に言うと、私は静香さんの彼女じゃなくて家政婦なんじゃないかなって思う時があるんです。作った夜ご飯とか静香さんがいない間にしておいた掃除とかを褒めてもらえるのは嬉しいです。でもそれって彼女への賛辞なんですか? それとも家政婦への賛辞なんですか? こんなこと言ってごめんなさい。けど最近本当に分からなくなってきてて……」
言い終わると芽依はボロボロと涙を溢れさせ始める。
「あれ、おかしいな。ごめんなさい、止まらない」そう言って手で涙を拭おうとしているものの、失敗している。拭っても拭っても涙は次々と溢れて止まろうとはしていない。
芽依をここまで追い詰めてしまっていた。
私はその芽依の様子を見て、自分で自分を殴って罵倒してやりたい気分に駆られた。
ほぼ無意識的に芽依に手を伸ばして、途中で芽依が嫌がるんじゃないかと手を止める。
「……………」
「……………」
逃げようという様子はない。
それを見て取ると私は芽依を抱き締めて何度も何度も謝罪する。
「ごめんなさい。貴女をこんなにも追い詰めてごめんなさい。辛いことを言わせてしまってごめんなさい。私が愚かなばかりにごめんなさい、ごめんなさい。ごめんね……。芽依」
「静香さん」
私の胸を濡らす芽依の涙で胸が痛い。
でも芽依は私の何倍も痛かったに違いない。
私はそんな芽依の優しさにかまけて芽依と愛を育むことを放棄していた。
「ごめん。ごめんね……。でも都合の良いこと言ってるかもしれないけど、もう一度だけチャンスが欲しい。芽依が私なんかとはもう別れたいって言うなら、身を裂かれそうな思いだけど諦める。でも嫌じゃなければ、まだ私に可能性があるならもう一度チャンスをください」
「……別れたくないです」
芽依が私にキスをする。
こんな私でもまだ思ってくれている。
嬉しいのに、さっき感じた痛みの何十倍も胸が痛くて苦しいのはどうしてなんだろう。
私の瞳からも涙が零れる。
芽依を少し強く抱き締めると芽依も私の腰に手を回して私のことを抱き締めてくれる。
「静香さん」
そうして私のことを見て来る私の可愛い芽依に今度は私からキスをした。
これまでの謝罪とこれからの私。芽依に私の気持ちを届けるように長く、長く、互いに酸素が足りなくなって息が苦しくなるまで。
「はぁ、はぁ……。静香さん、長すぎです」
唇を離すと芽依が恨みがましくそんなことを言ってくるが両手は私の腰に回されたまま。
つまり口ではそう言っても実際は嫌じゃなかったと言うこと。
「可愛い」
芽依にまたキス。今度はその唇を啄むようにしていると芽依の頬が緩んでいくのが見て取れる。
可愛すぎると思う。抱き締めあったまま私たちはリビングの床に転がる。
「芽依にもっと触れたい。いい?」
「私のこと好きだって言ってくれながらだったらいいです」
「それって芽依は大丈夫なの? 恥ずかしくなってくると思うけど」
「……大丈夫じゃなくてもいいです。恥ずかしくしてください」
「……っ」
芽依の作りだす空気に私は思わず悶絶しそうになってしまった。
何この可愛い生き物。私ってこんな可愛い子を家政婦みたいに扱ってたの? これまでの私ってどうなってるの? 冷蔵庫と同じでどっかおかしくなってたんだ。じゃないとこんな可愛い子が四六時中傍にいてイチャイチャせずに放置なんてできる筈がない。
「芽依、可愛い」
「……!」
言うと芽依がひゅっと息を飲む音が聞こえてきた。
それはきっと今までと明らかに違う。私からの賛辞の声だったからだろう。
止まりつつあった涙が芽依の瞳からまた多く溢れて来るのが見て取れる。
私はそれを見て彼女に微笑み、その頬を触って次に首筋に手をやる。
「嬉しくて泣いてる姿も凄く可愛い」
芽依の頬が赤く染まる。
目線が若干キョドりつつあるけど、言葉が欲しいって言い出したのは芽依だ。
辞めるつもりはない。
「赤くなってる。可愛い」
手を胸へ。ついでに首筋に吸い付いて痕を残すと芽依は頬だけではなく顔全体に赤みが伝わってますます可愛くなる。
「静香さん、なんかいつもより恥ずかしい」
「そうやって素直に伝えてくるのも可愛い」
「うぅっ……」
芽依の胸が普段よりも早鐘を打っているのが私の手に伝わってくる。
そういう私の心臓も芽依の可愛さを目の辺りにして物凄く煩い。
「愛してる」
堪らず芽依に告白してからキスをする。
今度こそ堰が壊れたように止めどなく涙を流す芽依が狂おしい程愛しくて可愛い。
「う、……っく。初めて……静香さんに私は静香さんの彼女なんだ……って言われた気がした。……嬉しい」
「芽依」
思わず芽依の体を両手で掻き抱いた。
好きで好きで、愛しくて愛しくて苦しい、堪ったものじゃない。
放したくない。このままずっと芽依のことを抱き締め続けていたい。
「ぐすっ……静香さん」
「うん?」
「……好きです」
「私も大好きよ、芽依」
なんだか熱い。私の心と体、芽依の体もとても熱い。
心という場所から言葉にするには難しい気持ちが脳に駆け上がってくる。
好きとか愛しいなんてものじゃ足りない。もっと上の好きだという気持ち。
どうして好きという言葉は「好き」と「愛してる」だけしかないんだろうか。
私の今の気持ちはとてもじゃないけど、そんなものじゃ言い表せない。
もどかしくて悔しい。もっと芽依に言葉で気持ちを伝えたいのに。
「芽依」
「……はい」
「………ああ、本当に私の芽依は可愛い」
「……静香さん、嬉しいです」
「はぁ……。前の私は本当に私だったのかしら?」
「はい?」
「なんでも。芽依、触るの再開してもいい?」
「……じゃあ私も」
「可愛い、芽依」
「好きです。静香さん」
「うっ。それずるいわ」
「ふふっ」
私たちはお互いの体に触れて大好きの気持ちを伝えあう。
ゆったりと流れる時間。芽依に触れる手が、気持ちがとっても温かい。
「芽依」
「はい」
傍にいる存在をもっと確かめたくて、時折抱き締めたりキスしたり。
そしてまた触りあいをしている最中に不意に目が合うと、それがなんだかくすぐったくて、お互いに微笑みあって、恥ずかしさと幸福感とをお互いに伝え合うようにどちらからともなくやっぱりキスをする。
ここまで二年も付き合っておきながら、つい最近付き合い始めたかのようだ。
恋人になって二人で道を歩き始めたけど、私たちが歩いていた道は途中に歪みがあって、私と芽依はその歪みによって大きく別々の道を歩くには至らないまでも薄壁一枚隔てた別々の道に分かれてしまった。
いや、正しくは分かれたのは私だけだ。
芽依はそれまでと同じ道から薄壁の向こうにいる私のことを寂しい目で見つめていた。
どうして私は手を繫いで歩いていた筈の彼女の手の感触がそこにないことに気が付かなかったんだろうか。
景色ばかり見て、その景色が綺麗だよって彼女に伝えていたのに、肝心の彼女が傍にいるかどうか確認しようとしなかった。
暫く二人ともそのまま歩いて、また歪みに差し掛かったおかげで私は彼女と同じ道に戻ることができた。
今度はもう確認を怠らない。たまにははぐれてもその場で彼女を待って合流したらまた歩き始める。
私の大切な芽依。
「ねぇ、静香さん」
芽依の目が真っ直ぐに私を射抜く。
その瞳に見惚れていたらくすくすと笑いながら私の耳元に芽依は顔を寄せてくる。
耳に触れるか触れないかの位置で彼女の口から発せられる言葉。
それはとても甘い甘い、蜂蜜よりも甘い言葉だった。
*
「平瀬さん、今ちょっといいかしら?」
あの休日から以降、私はそれまであれこれと自分一人でこなしていた仕事を少しずつ同僚や後輩に割り振って手伝ってもらうようになった。
そのおかげで時間に余裕ができて芽依との関係は良好な状態を持続させることができるようになった。
だけではなく、それまで見えていなかったものが見えるようになった。
例えば会社での人間関係と仕事そのもの。
それまで仕事の多くを自分一人で抱え込んでいたものだから、同僚や後輩たちは私が自分たちのことを信用していないのだと思って、何処か自分たちを情けなく思っていたらしいことが分かった。
私にはそんなつもりはなかったのだけど、そう思わせてしまっていたことを反省して謝って周ったのはまだ記憶に新しい。
「はい! 大丈夫です」
「うん、じゃあこれをやって欲しいのだけど大丈夫かしら?」
「はい、任せてください」
「お願いね」
「はい!」
仕事は一人でやるものじゃない。
こんな当たり前のことを前の私は忘れてしまっていた。
芽依と話し合ってからは人間関係が円滑になった。
芽依様々だ。私はもう芽依に足を向けて寝ることはできない。
「ふふっ」
芽依の寝顔を思い出し、つい笑みを零してしまう。
そんな私を見て少し首を傾げながら先程仕事を割り振った同僚がその原因を尋ねて来る。
「どうかしたんですか?」
「なんでもないわ」
「はぁ、そうですか」
聞いてはみたが左程興味はなかったのだろう。
同僚が自分に与えられたデスクに着いて仕事を始めるのを横目に見て私もデスクへ。
資料を眺めながら「芽依」と私は愛しい人の名前を呼んだ。