紅茶とフィナンシェ
今年ももう12月。窓から外を見れば白い雪に包まれた冬景色。
この季節が来ると私は思い出すの。幼い日のことを。
あたしはコートもなく靴もなく、汚れてみすぼらしい身なりで街角に立っていた。
「そのマッチを全部売るまで帰って来るな。一本でも残っていたら、どうなるかわかってるだろうな」
だらしない飲んだくれのあたしの父さんはそう言ったわ。
でも寒波が来てことさら寒い大晦日の日に道を行く人たちは、誰一人あたしに目もくれない。
そうよね、家に帰れば愛する家族の笑顔が待ってる。
暖かいストーブの前に集って、互いにキスを交わして一緒にご馳走を食べて、
神様に感謝の祈りを捧げて、そして来年の幸福を願う日だもの。
ねえ、おしえてよ。神様なんて本当にいるの。
もう寒さに体が凍りついたみたい。
あたし、きっとここで死んでしまうのね。誰にも愛されず、一人忘れ去られて。
せめて一瞬温まりたい。
こごえる指でそばの石壁に擦り付けた一本のマッチ。
ポッと灯った炎の中にそれは素晴らしく大きく立派な燃え盛る真鍮のストーブが見えて、
あたしは思わず近づきかけた。
でも、その幻はすぐに消えたわ。
そしてまた一本。
今度はゴージャスな大晦日のご馳走が現れた。あんなの街角のショーケースでしか見たことない。
湯気がたって匂いまで感じた。
ああ、せめて甘く可愛らしく作られたお菓子のひとかけらでも口にしたい。
でもそれはやっぱりすぐ消え失せる幻だった。
だんだん眠たくなって来て、指先の感覚もおぼつかない中、あたしは三本目のマッチに火をつけた。
「おばあちゃん」
それは最愛の人だった。
小さな頃に母さんを亡くしたあたしを唯一愛してくれた人。抱きしめてくれた人。
温かく微笑んで優しいキスをくれた人。そして今はもう会えない人。
「ああ、おばあちゃんあたし寒いの。ひもじいの。誰もあたしを愛してはくれないの。ねえおばあちゃん、そばに行きたいよ。昔みたいにあたしをお膝に乗せて抱っこして」
それはあたしが一番欲しかったものの幻だった。
もう他にはなにもいらないの。
夢だって知っててもそのまま夢の世界に行ってしまいたかった。
でも、優しい幻のはずのおばあちゃんがなぜかあたしに言った。
「お前それはできないよ。お前にはまだ早すぎる。神様に与えられた宿題が残っているのだからね」
「宿題ってなに、あたし学校にも行ってないのに。わかんない。おばあちゃんあたしのこと嫌いになったの」
「それは違う、私はお前を愛しているよ。いつだってお前の幸せを神様に願っているよ。だからこうして会えたんだ。さあ、もうじきマッチの火が消える。力を出して立って歩くんだよ。向かいに見えてるあの家、あの大きな家の窓の下でもう一度そのマッチを灯してごらん」
そう言うと、おばあちゃんは消えてしまった。あたしが一番欲しかった夢が消えてしまった。
幻にさえ、あたしは抱きしめてはもらえなかった。
でもわかったよ、おばあちゃん。
冷たい石畳にしゃがみ込んでいたあたしは何とか立ち上がった。
冷え切った裸足の足はしびれて感覚もなくて、ふらふらと道の向こう側に渡った。
道の向かいの大きな家は、近所でも評判の欲張りな金貸し爺さんが一人で住んでる立派なお屋敷だった。
大きいけれど薄暗い窓にかかる、つやのあるえんじ色のビロードのカーテンが開かれたままになっている。
部屋の中が見えて、奥のテーブルの上にある銀のロウソク立てには、
大きくて綺麗な金色に塗られたロウソクが何本か灯してあるのが見える。
あたしはその窓の下で、おばあちゃんが言ったようにもう一度マッチに火を点けた。
すると、人影が窓のそばに駆け寄って来たのが見えた。
窓に向かって、いいえ、あたしの灯したマッチの明かりに向かって腕を伸ばして懸命に何か話しかけているその人は、屋敷の主人の金貸し爺さんだった。
でも、爺さんの姿を見ながらあたしは目が霞んで来て何もわからなくなった。
気がつくと、あたしは暖かいストーブの前に置かれたソファに寝かされ、厚手の毛布が体を覆っていた。
「気がついたかい」爺さんがあたしに言った。
「ええ、ここはおじいさんの家なの」
「そうだ。お前はマッチ売りだな。うちの窓の下でマッチを点けたろう」
「うん。あたしの死んだおばあちゃんが夢に出て来て、ここでマッチを点けなさいって言ったんだよ」
「そうだったのか。お前、そのマッチをわしにひと束売っておくれ」
あたしは爺さんにマッチをひと束売った。
爺さんはすぐにマッチを擦って、目の前に火をかざした。そしてその灯を一心に見つめていた。
けれど、マッチが燃え尽きるとがっかりした顔になった。
そしてまた一本、マッチを擦る。
でも、やはりさっきと同じことの繰り返しだった。
そしてまた一本。
何かに取り憑かれたように、同じことを繰り返していた。
でも爺さんの様子は変わらないまま、とうとうひと束分のマッチは全て燃え尽きてしまった。
「もしかして、お爺さんも灯りの中に何か見えたの」
「どうしてわかる。お前のこのマッチには何か秘密があるのか」
「違うよ。これはあたしが父さんに売ってこいって言われた、ただのマッチだよ。だけどね…」
そしてあたしはさっきまでの不思議な出来事を金貸し爺さんに話した。
「もういっぺん、あたしがマッチを点けてみようか」そう言って今度はあたしがマッチを擦った。
そうしたら。
「ああ、そうか。そうだったのか」
そう呟くと爺さんは炎の中を嬉しそうに、懐かしそうに見つめて優しく笑った。
その顔は、噂で聞くような冷たく強欲な人間の顔じゃなかった。
それから爺さんは部屋を出た。
しばらくすると、お盆に湯気の立つ紅茶のカップと金の延べ板をかたどった焼き菓子を乗せて持って来て、
「食べなさい」と言うと、あたしに話し出した。
さっき爺さんは家の窓からぼんやりと外の景色を眺めていた。するとあたしがふらふらと向かいの通りから窓の下に歩いて来て外がポッと明るくなった。
そうしたら、その灯りの中に若くして亡くなった奥さんが立っていて微笑みながら呼びかけて来た。
「あなた、やっとお会いすることができました」
「ああお前、なぜ急にそんなところにいるんだい。私を迎えに来てくれたのかい」
「気づいていただけて嬉しいわ。でも違うのです。あなたにはまだ神様のお与えになった仕事が残っています。どうか私の言葉を聞いて、この足元で凍えているかわいそうな女の子を家に入れてあげてください」
そこまで言うと奥さんは消えてしまった。
それから、さっきもう一度あたしが爺さんの目の前でマッチを灯したら、もう一度奥さんが現れた。
「あなた、このかわいそうな子をうちで引き取って育ててあげたいのです。どうかそうしてあげてください」
そう言ったそうだ。
奥さんはとても優しく情深い人だったけれど、体が弱くて、欲しかった子供にも恵まれないまま病気であの世に行ってしまった。
「愛する妻を失って、それからずっとワシは愛すべきものを持たずに過ごして来た。金を増やすことは束の間の気晴らしに過ぎないことも、とっくにわかっている。あれは天国からそんなワシを哀れんでいたのだな」
あたしは爺さんが淹れてくれた温かいお茶と、すごく美味しいお菓子を食べながら話を聞いていた。
あたしには大好きなおばあちゃんが、そしてこのおじいさんには大好きだった奥さんがマッチの灯りの中から語りかけてくれた。不思議だな。
そう思いながらあたしはそのまま、ストーブの前で毛布にくるまって眠ったようだった。
次の日、立派なコートにシルクハットを被った爺さんは、あたしに案内させて馬車であたしの家に向かった。
そしてあたしの父さんに会った。
「どこへ行ってた。何だ、この爺さんは。お前、マッチは売れたのか」父さんはお酒が残る濁った目で言った。
あたしは黙って、薄汚れたエプロンのポケットから爺さんがくれたマッチの代金を父さんに渡した。
さっさとそうしないと、いつも打たれるから。
ひったくるように父さんはお金を掴み取った。
「何てことを」爺さんが呟くと、父さんは鼻を鳴らして
「あんた、俺に説教するつもりならお門違いだぜ」と言った。
爺さんはすっかり白くなった太い眉を寄せたけど何も言わなかった。
それから父さんに、あたしを養女にしたいと切り出した。
まとまったお金と引き換えに、父さんはあたしを爺さんの養女にした。
それから実の父さんと会うことはなかった。金貸しの爺さんがあたしの新しいお父さんになった。
あたしはあの立派なお屋敷で暮らすことになり、あたしのためのメイドさんまで雇われた。
私は身なりもちゃんとして毎日美味しいご飯が食べられるようになった。
学校にも通わせてもらい、読み書きを覚えられたのはすごく嬉しかった。
最初は言葉遣いや振る舞いが変わってるっていじめられたこともあったけど、あたしは負けなかったし、
言葉やマナーは努力して身につけて行った。
勉強もうんと頑張って、しまいには学校で一番の成績が取れるようになった。
新しいお父さんは、いつもあたしに味方してくれて、学校での悔しかった話も聞いてくれたけど、
それ以上にあたしががんばると、白いひげをたくわえた優しい笑顔でうんと褒めてくれたから。
お父さんも、それまでとは人が変わったように高い利子を取ることをやめ、銀行家として事業を始めた。
それまでは断って来たらしい教会や学校への寄付もするし、お屋敷では慈善パーティーを開くようになった。
あたしをお客さんに紹介しては「私の可愛い娘」「自慢の娘」と言って手放しでほめてくれた。
そんなお父さんこそ、あたしの自慢の素敵な白いひげのお父さんだった。
お父さんと出会った日にあたしが持っていたマッチは、飾り棚に置いたペルシア文様の描かれた小さな壺の中に大切にしまわれていた。
お父さんと暮らすようになってしばらくは、時々二人でストーブの前に座り、
あたしがマッチを擦ってみることがあった。
でも、マッチの火が点いてもその灯りの中には、お父さんの亡くなった奥さんも、
あたしの大好きなおばあちゃんも現れてはくれなかった。
マッチは減って二人とも寂しい気持ちになるのだけど、それでも諦めきれなくて年に一度、思い出の大晦日の日にはマッチを点けてみるのが二人の大事な恒例行事になっていた。
月日は流れて、私は名門の女学校から大学に進んで学び、そこで生涯の伴侶となる愛する男性と出会った。
彼は私の父と同じく銀行家の家柄の人だった。彼も心から私を愛してくれて、私の出自を知ってもなお
「僕の妻になる人は、君しかいないよ」と言ってくれた。
父は大層喜んでくれて、彼を家に呼ぶようにとよく私に言ってくれて、
一緒に温かい時間を過ごすようになった。
そしてその年のクリスマスに私たちは婚約した。
「妻が生きていたら、娘の結婚式にどんなドレスを着せようか、どんなパーティーに設えようかとはしゃいだろうよ」そう父は言って、優しく懐かしむように目を細めた。
今年の大晦日にもまた、父と私は二人でマッチを点けてみることにした。
壺のマッチはもう残り数本しかなかった。
「お前とこうしてマッチを点けるのも、今年限りだろうね」
そう父は言って私に微笑みかけた。私も父を見つめると、知らずに涙ぐんでいた。
私は成長し、父は年を重ねた。父と私は部屋の明かりを落としてマッチを擦った。
「ああ、お前」
「おばあちゃん」
父と私は同時に声をあげた。
マッチの灯りの中に、私の大好きだった祖母と一緒に一人の若い女性が佇んでいた。
栗色の艶やかな髪と知的で優しそうな黒い瞳の女性は初めて目にする人だったけれど、その女性が若くして他界した父の伴侶だと私にはわかった。父もまた、私の祖母の姿が見えているようだった。
一つの灯りの中に、父と私は同じく愛する人と再会していた。
「私は、この人と良いお友達なんだよ」と祖母は女性と微笑み交わした。
「そうなんです。あなた、あの日あなたが私の言葉を胸に留めてこの子をうちに迎え入れてくれたからこそですわ」と若い女性も父に言った。
「お前こそ、私に家族を与えてくれた。この子のおかげで、私は変わったのだよ」と父が言うと、
「私の孫を大切に育ててくださったことは存じています。感謝してもしきれません」と祖母が父に言った。
私たちみんなの心が幸せと感謝に満たされていた。
「全ては神の思し召しなのです。こうしてまたお会いできたことも」と父の奥さんは言った。
みんながうなづいてお祈りを捧げた。
「婚約おめでとう。どうかこれからも神様を信じて、幸せにおなりよ」祖母は私の手をとってそう言ってくれた。
若い女性も「あなたも、私がいつも見守っています」と言いながら父の手を取った。
そして父の耳元に顔を寄せると何事かを囁いた。
父は幸せそうに瞳を輝かせると、女性に向かって何度もうなづいた。
そうするうち、だんだんとマッチの灯りが暗くなってきた。
「さようなら、どうかお元気で」
「ありがとう、愛しているよ」
「またいつか必ず会えるからね」
「いつも見守っていてね」
互いにそう言い交わしながら灯は消えて、マッチがくれた時間は終わりを告げた。
翌年の6月、町の教会で私は最愛の彼との結婚式を挙げた。
同じ町ではあるけれどこれからは父の元を離れて彼との生活が始まる。
身の回りの世話をする者はいるけれど、私は老いた父が心配だった。
「心配いらないよ」と父は微笑んだ。
「お前も私もいつだって神様の御守りの光に包まれているじゃないか、暖かいマッチのともし火にね」
そうして父と私は手を取り合って、幸せな涙をこぼした。
その夏の終わり、私は朝方のまどろみの中で再び懐かしい人達との再会を果たした。
一つ違ったのはそこに私の祖母と、あの栗色の髪の女性と一緒に父の姿があったこと。
父は嬉しそうに愛おしそうに再会した亡き妻の肩をしっかりと抱いて、白い眉とひげに縁取られた顔をくしゃくしゃにして笑っていた。それはマッチの灯りの中とは違って言葉は聞こえず声のない再会だった。
夢の中、私は心で知った。
父は神様に与えられた仕事を終えたのだ、そして御許に迎えられたのだと。
はっとして私は寝床から跳ね起きた。
「どうしたの」と隣で眠っていた夫が気づいて声をかけてくれたのと同時に、隣の部屋で電話のベルが鳴った。
「今、夢にお父様が」そう言いかけて私はベッドから飛び降りて隣室に駆け込んだ。
「もしもし、…」
電話の主は私の家の執事だった。
「朝早くに申し訳ございません。ああ、お嬢様。今しがた旦那様が…」
完