8.出逢いが為したこと
――日没が来た。
道沿いに設置された柱が、陽光の弱まりとともに薄ぼんやりと輝き出す。こうした『街灯』があるのは裕福な区域だけだ。
「ジェンド様。本当に戻られなくても良いのですか」
人通りがまばらになった往来を、ダンプスが背を丸めて歩く。商人の後ろを黙り込んだジェンドが続く。
「ルテル様がご心配なさるのでは」
交渉が上手くいかず、依頼主を半日連れ回した負い目なのか、ダンプスはしきりに帰宅を促してきた。だがジェンドは首を縦に振らない。
「今回の件は腰を据えて取りかかる必要がありそうです。何日かかるかわかりません。それまでずっとワタクシと一緒にいるわけにはいきますまい」
「にゃにゃ」
「ううむ……おお。まさか、ルテル様と喧嘩でもされたのですか」
また余計な一言を。
ジェンドはふいと視線を逸らした。
喧嘩じゃない。これは俺の意地だ。確たる成果を上げるまで戻らないと決めたのだ。そうでないと――
ダンプスのため息が聞こえた。
「わかりました。依頼主の意向を汲むのも商人のつとめでございます。今日は拙宅でお寛ぎください。もうすぐ到着しますよ」
緩やかな上り坂を越えると、目的の建物が見えてきた。東西に長い箱形の三階建て。周囲の住宅が華やかで小綺麗であるのと比べ、やや地味な印象を受ける。それでも、この区画に自宅を持っていること自体、ダンプスが成功者であることの証だ。
ジェンドは、薄暗闇に浮かぶ建物の輪郭を目に焼き付けた。
外壁の一画に小さなランプが据えられていた。『ダンプス商会』と書かれた看板が照らされている。敷地は広く、小屋が二棟建っているのが見えた。
「ここがワタクシの自宅兼事務所です。さあ、どうぞ。お疲れでしょうから、まずは湯浴みなどいかがですかな。遠慮されることはございません。今の時間ならば、事務所に人はほとんど残っておりませんゆえ、気を遣う必要もありませんよ」
ダンプスは饒舌に勧めたが、ジェンドは敷地の入口に立ったままでいた。
多くの人が出入りしているのだろう。玄関へ続く石畳はすり減り、周りの土は踏み固められていた。
滞在すれば水もいるし薪もいるだろう。もちろん食料だってタダではない。目的を達成するまでどのくらいかかわるかわからない以上、ダンプスに頼り切りにはなりたくなかった。
誰かが小屋の前で灯りを手に作業をしていた。カランと乾いた薪の音がする。薄暮から夜へ半歩踏み込んだ暗さに急かされるように、人影は薪を抱えて裏口に消えていった。
「にゃ」
「え? あちらですか。何もありませんぞ。物置小屋ばかりです」
「にゃ。にゃおな、にゃん」
「何をおっしゃりたいのかよく――ジェンド様。どちらへ行かれるのですか。玄関はこの先ですぞ!」
小屋に向かって歩き出したジェンドをダンプスが追いかける。依頼主の意図を薄々察して、商人は困り顔をした。
「もしや、小屋で休まれると言うのですか? 駄目ですよ、あなたはお客様なのですから」
「にゃん」
「まったく。あなたは妙なところで頑固ですなあ」
呆れを通り越したのか、ダンプスは親しみを込めた笑みを浮かべた。
「事前にあなたのことは把握していたつもりでしたが、なかなか、実際にお話ししてみないとわからないものです。わかりました。そこまでおっしゃるなら、無理強いはいたしません。しばらくしたらお食事をお持ちします。身体も拭かれた方がよろしいでしょう」
「にゃ」
「それでは、ごゆっくり」
ダンプスは自宅に戻っていった。ジェンドは後ろ姿を見送り、軽く、頭を下げた。
小屋は新築で、板目が鮮やかだった。中はジェンドの部屋よりも広く、よく整頓されていた。
手前の壁際に藁編みの布が何枚も積まれていた。良い匂いがする。寝転んでみると心地良かった。
しばらく横になっていると、うとうとしてきた。
――誰かが近づいてくる気配を感じ、目を開ける。少し頭がぼんやりしていた。眠ってしまったようだ。
気配の主は小屋の前まで来ると、遠慮がちに扉をノックした。
「お待たせしました。お食事です」
か細い女の声だった。
汚れたエプロンを身につけた長髪の女性が入ってきた。男性用を無理に着込んでいるのか、だぼっとした作業着姿だ。年齢は二十歳前後だろうか。長い前髪で表情が隠れてしまっている。薄暗闇でうつむき加減なため、地味で陰気な印象を受けた。
ジェンドは気にしなかった。薄汚れて陰気なのはお互い様だ。
彼女は食事を乗せたトレイと、湯が入った桶をそれぞれ片手に持っていた。それらを地面に置くまで、食器の音も湯が波打つ音もしなかった。足取りと体幹にぶれがないのだ。
彼女はポケットから小さな欠片を取り出し、二つに割って入口脇に置いた。欠片の表面にルーン文字が浮き上がり、弱い光源となった。紋章術のはずだが、彼女は詞を描いていない。
「にゃにゃ」
動物語が通じず、女性は首を傾げた。それから得心がいったのか手を打つ。
「ああ、そうか。ダンプス会長がおっしゃっていたのは、このことなのね。あなた、例の本を持ち込んだ人、ジェンドさん……よね。私はリィス。会長からあなたのお世話をするように言われました。よろしく」
リィスが軽く礼をすると、髪先がさらりと肩から落ちた。毎日汚れと格闘しているだろうに、髪艶を失わないのは大したものだ。
「お客様が小屋にいるからと言われたときは驚いたわ。住み込みで働いているけれど、あなたのような人は初めて見る」
相変わらず細い声だったが、口調は柔らかい。変わった女だとジェンドは思った。たいてい、初対面の人間はジェンドの強面と動物語に萎縮するか腫れ物を見るような顔をするのに、彼女にはそういった様子がない。
平皿を渡される。豆と白菜が入った黄金色のスープ。食欲をそそる香りだった。
「私も、あの本を少し読ませてもらえたの。写本を作るために」
スープを美味そうにすするジェンドを見ながら、リィスが言った。
「凄かったわ。他の人が何て評価するかはわからないけど、少なくとも私は心動かされた。これを書いた人に会ってみたいなと思った」
食事の手が止まる。
今日一日、禁書だ異端だと言われ続けてきた。リィスの言葉は喉を通るスープのように染みた。
腹が鳴った。再びスープやパンにかぶりつく。「すごい勢い」とリィスは言った。
あっという間に食事を平らげ、ジェンドは満足の息を吐いた。
「にゃにゃ。にゃおに、にゃ」
ジェンドは指で地面をなぞる。彼女らに対する感謝の言葉を、あまり綺麗とは言えない字で書いた。リィスは書き終わるまでじっと待ってくれた。
「言葉が満足に喋れない状態でここまでするなんて、凄いわ。あなたにとって、よっぽど大事なことなのね」
ふと、リィスが顔を背ける。
「会長から聞いたわ。あなたはルーンにも制約があるのよね。周りの目、とても厳しかったんじゃないかな」
小さな声だったが、深い感慨がこめられていた。
リィスもまた、ままならない現実に苛まれている一人なのではないかと思った。どうしようもない状況に苦しみながらも、何とか耐えて乗り越えようとしているのでは、と。
もどかしかった。
風が吹き、扉が鳴る。いつの間にかうつむいていた二人は、同時に顔を上げた。
リィスは空の食器を持って立ち上がる。
「お湯が冷めないうちに身体を拭いて。またしばらくしたら戻ってくるから。何か、他に必要なものはある?」
「にゃ」と首を横に振る。
「それでは、また後で――あ、そうだ。本を渡す人についてなんだけど、私にもひとり心当たりがあるの。よければ、手紙を書きましょうか? 会長に許可は必要だけれど」
「にゃお! にゃ!」
それを先に言って欲しかったと抗議すると、リィスは口元に手を当てた。
「ふふ、わかったわ。もう夜中だけど、遅くまでお仕事をしている方だから、手紙を飛ばしてみるわね」
そう言ってリィスは立ち去った。
――そういえば、彼女の立ち居振る舞い、ただの作業員には見えなかったな。
汚れた身体を拭くため服を脱ぎながら、思う。
あの膂力、バランス感覚、姿勢の良さ。案外、商会に務める前はどこか正規の部隊に所属していたのかもしれない。
あるいは、かつての自分のように獲物を求め、戦う狩人だったとか。
顔を拭く。桶の湯に手拭いをくぐらせると、水面がわずかに濁った。
◆◇◆
翌日は空全体を薄い雲が覆うあいにくの天気だった。昼前には空の鈍色はさらに濃くなり、太陽の輪郭も見ることができなくなっていた。
裏口から荷馬車が出発していく。他にも数人の従業員が忙しそうに行ったり来たりしている。手伝おうにも、自分には何もできない。曇り空を見上げる。
そのとき、リィスが小走りにやってきた。
「ジェンドさん、良い報せが届いたわ。先生が本を引き取りにいらっしゃるそうよ。話がまとまったの」
「にゃ……!」
「しばらくしたら到着されるはずだから、それまで応接間で待っていて欲しいと会長がおっしゃっている。案内するわ。それから、本はあなたが直接渡して欲しいとのことよ」
リィスに連れられ、事務所に入る。正面玄関からすぐの場所に応接間があり、ダンプスはそこで書類を眺めていた。
「おおジェンド様。リィス君から聞きましたかな。どうぞ、こちらにかけてください」
クッションが効いたソファーに腰を落とす。廊下の足音がやけに気になった。
「いやあ、ようございました。リィス君はお手柄ですね。まさかあの方と知り合いだったとは。物事はどう転ぶかわかりません。ジェンド様が持っておられる運も大きかったのでしょうなあ」
上機嫌に話すダンプス。一方のジェンドは、何もせずじっと待つのがやはり性に合わず、落ち着かない様子で室内を眺めていた。
やがて、リィスが件の人物の来訪を告げた。エブリと名乗る男で、こざっぱりとしたスーツと口髭が印象的な紳士だった。教会系列の学者だと言う。
エブリとダンプスは親しげに握手をした。
「ジェンド氏は、この本を広めたいという強い意志をお持ちでしてな。今回の件も、この方がいなければなかった話でして」
商人が目配せをしてくる。
ジェンドは無言のまま、両手でルテルの本を差し出した。
エブリと目が合う。彼の瞳には、ジェンドを毛嫌いする様子はなかった。
「拝見します」
エブリが静かにページをめくる姿を、ジェンドは固唾を呑んで見守った。
「いかがでしょう。先生」
ダンプスが尋ねると、笑顔が返ってきた。
「ええ、良いでしょう。これは私が引き受けます。学問はあらゆる人間に門戸を開くべきですから。この本も、将来誰かの道しるべとなることでしょう。しかし、なかなか大胆なことをされましたね。ここまで大変だったでしょう」
「いえいえいえ。先生のような方に引き取っていただければ、これまでの苦労が報われるというものでございます」
「時間はかかるでしょうが、いずれ価値は認められると私も信じます。ジェンドさん、執筆者の方に伝えておいてください。あなたの思いは受け取りましたと」
胸にこみ上げるものがあった。ジェンドは頭を下げた。
人と会う約束があるからと、エブリは席を立った。ダンプスとともに彼を見送った。
応接間に戻る。
「これでひとつ区切りがつきましたな。……ところでジェンド様。報酬代わりに依頼したい件があるのですが」
本の受取証書をジェンドに渡したダンプスは、含みのある笑みを浮かべた。
「実はワタクシ、近々三番通りに倉庫を設けたいと思っておりまして。そこでふと気がついたのですよ。坑道跡を利用すれば、費用が安く抑えられるのではないかとね。そこでジェンド様には、坑道が安全かどうかの確認を行って頂きたい。もし危険があるのなら、その排除をお願いします」
意外な申し出にジェンドは戸惑った。三番通りの坑道は、これまで二度にわたって探索を失敗した場所だ。
商人は「全部わかっていますよ」とばかりに口先に指を立てた。
「面白いお話を持ってきて下さったお礼です。これからもよろしくお願いしますよ。ジェンド様」
――去り際、ダンプスの家を振り返る。四角い建物の外壁は白く塗られていて、天気が良ければ見栄えがするだろうと思われた。決して地味な建物ではなかったのだ。
これで俺は胸を張ってルテルに報告ができる――ジェンドは意気揚々と歩き出した。